第五章 ほころび

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15  栄光

氷川小学校の建物が右手に見え、左手に衆議院議員宿舎と矢印のある小看板が目につく。
その路地を左に折れると十メートルほど先に、小さな喫茶店があり、店名の「紫夢」という字がステンドグラス基調の円型ドア上部に、あざやかな赤味の濃い紫で浮き彫りになっている。これは今でも変わらない。
藤井が自動ドア-で店内に入ると、女性店長が笑顔で迎えた。
「先生から、少々お待ちください、との伝言です」
店内の壁面には、サムホールから八号ぐらいまでの絵が十点ほど飾ってある。モチーフの暗さと裏腹に色彩は明るい。
頼りなげに浮かぶあかね雲の下、夕映えの海景色がある。突起した岩をめぐって砕け散る白波、その荒磯の岩かげに古びた漁船が横たわっている。帆柱が折れへさきも欠け、塗装はとうに剥げ落ち老惨の姿をさらしていた。しかも、その画面いっぱいに、菖蒲の群落があり白と黄の花が鮮やかに咲き乱れていた。この絵には、希望と絶望が入り乱れて錯綜している。これも、藤井の好きな絵だ。
藤井は、奥の部屋に入らずに、間仕切り替わりに置いてある大水槽の前に立って熱帯魚の群れ泳ぐのをしばらく眺めた。作年、はじめて和歌子と会った日。あの遅い午後もここで立ち止まった。あのときは、所在なげに背後に立つ若葉の不安げな顔が、水槽のガラスの向こうにあって、ゆらゆらと揺れる水草に重なって見えた。
あれからの若葉は、逃れられない運命の中で、芸能界という水槽の中で小魚になって必死で泳いでいる。
別の日にはマネ-ジャ-志望の蓮田ともここで会った。前橋女史推薦の蓮田は、初対面の若葉と言葉少なに二、三の会話を交わしただけで、お互いに納得がいったのか歌手とマネ-ジャ-という二人三脚のペアを築いて今日に至っている。蓮田は、ごつい体躯に似合わぬ細かい気配りで、若葉の疲れやすい心身に負担をかけないように勤めている。すべてが順調だった。
ドア-が開き、水槽の鏡面に横川恵美が写った。その美貌の第一秘書に続いて前橋秀子代議士が現れ、藤井が振り向いた。
「藤井君、待たせてごめんね……」
大水槽の裏側の小部屋に入ると、中央に丸テーブルがある。ここで時々、この三人は必要に応じて密談をする。
「若葉の警護の件で、メガロガの佐賀君に六時に会います」
「さっき聞いたわ。ここからだと十分もあれば歩いて充分ね」
前橋女史好みの特製ブレンドコ-ヒ-が出て、本題に入る。
「なぜ、若葉が狙われるの。悪質なファンかしら?」
「友人の伊部という画家からの情報だと、山で白骨死体が見つかったそうです。死体の身元が判明するのは時間の問題ですな」
「それで、どうしたいの?」
「甲府の仕事が終わり次第、若葉を引退させることになるかも知れません。体調が悪くなったことにします」
「甲府って、二日後じゃないの?」
「バ-レルには、心臓病の再発なら引退という条件付きですが、今回は声がでなくなったことにします」
前橋女史と恵美が顔を見合わせた。恵美が即答する。
「預かったのは二億円でバ-レルに行ったのが二億、一割の利子を入れて戻ったのが二億二千万、うちの事務所で運用して増えた分の分け前が一億円、計三億二千万から堀井院長にも分けようとしたら税務上の関係でいまは受け取れないから、前橋事務所に預けるといいます。そこで、二千万だけ寄付という形で進呈しました。約三億が藤井さんと蓮田さん側の分として手付かずで残ってます」
「その金を蓮田のリスト通りに振り込んでやってください。恵美さんの仕事が増えるが、残った分は前橋事務所に寄付します」
「あら、リストだと二億そこそこよ。お金は必要でしょ?」
「私は要りませんよ。まだまだバ-レルからは順調に配当が入りますし、ジャスラックからも歌唱印税は入ります。これで若葉とマネ-ジャ-ぐらいは楽に生活できますから……」
「なんとか乗り切れないの?」
「無理すると、前橋事務所や駒ヶ根病院にも迷惑をかけます」
恵美が口をはさむ。
「若葉は、紅白に出たいんでしょ?」
「蓮田が続けられれば別ですが……」
「どういう意味?」
「多分、追われてるのは蓮田だと思います。二人に稼いだ金を渡して、よそでチャンスを与えるんです。どんな仕事をしようと、死のうと生きようと彼らの自由ですからね」
「藤井さんて、薄情なのね……」
恵美が藤井を睨み、前橋女史が笑った。
「ま、いいじゃない。どうせ人間いつかは死ぬんですから」
「オバさままで、そんな…!」
「今までの話は、すべて、もしも最悪の事態が発生したときのシュミレ-ションです。状況が変われば改めて報告します」
「分かりました。いつでも手伝いますからね」
「これで方針が立ちました。感謝します」
藤井が立ち上がった。

 

16  藤井オフィス

 

佐賀達也は六本木にいた。
港区六本木四丁目の交差点から、二百メートルほど溜池寄りに美代川公園があり、公園に隣接してダイヤハイツ六本木がある。
エレベ-タ-ホ-ルに張られたプレ-トを見て、ビルを警備している会社を知り携帯で電話をする。
自分の氏名と立場を告げると、相手の態度がくだけて、ビルの巡回は午後十一時、午前四時の二回だと言い、グチを加えた。
「あのビルの管理は日に四回の巡回でね。六本木が近いから、夜中にはエレベーターホールで酔っぱらいがいて、参っちゃうぜ」
周囲の地形やビルの構造を見ると、たしかに誰でも出入りできる無防備な備えになっている。
エレベーターを用いず外階段を上がり、最上階の八階に行く。
エレベーターから一番遠い溜池寄りの端が「藤井オフィス」がある八〇五号室だった。工夫すれば屋上からでも忍び込める。
ドア上部のガラス部分に「藤井オフィス」と書かれた小さな樹脂板が貼られているだけでそっけない。
六時ジャスト。インターホンを押すと足音が近付いて来る。目の前の覗きレンズが暗くなった。達也はまっすぐ顔を向けた。
ドアが内側に開き、細面で色黒長身の藤井が顔を見せる。
「久しぶりですな。待ってました」
間口三間、奥行五間ほどのオフィスが、入口側と奥の部分とに区切られ、その間仕切り壁にもドアーがあり、床は樹脂板張りで靴を脱ぎスリッパに履き替える。
事務所の壁に公演のポスターが並んでいる。その横で黒メガネをかけたひげ面の筋骨質の男が、壁に張ったスケジュール表を見ながら電話中だったが、達也と目礼を交わす。その奥で机に向かってマイコンのキ-を叩いている若い女性がいる。藤井が呼んだ。
「お茶を淹れて、奥に来なさい」
達也にイスを勧めて、藤井も同じ折り畳みのスチールイスに腰をかけた。娘が、お茶を運んで来て達也に挨拶をした。
「おやっ?」と、達也が思った。
達也の心を見澄かすように藤井が娘を見た。
「この娘が小森若葉、二十三歳です」
娘がメガネを外し、事務服を脱ぐとリーフブラウンのセーターの衿口は清潔な白いシャツの幅広の衿がまぶしい。二重瞼のパッチリした目に鼻筋も通り唇の型もいい。右頬に大きなホクロがある。
「なんで脅迫されてるんですか?」
「脅される理由はないんで、なにか誤解されてるんですかね?」
「歌手になる前の、前歴を少し調べさせて頂きました」
「そうですか……彼女は子供時代から歌が好きで、長野県での高校時代は全国的に活躍していました。不幸にして身体が弱く体力がないために、歌手をあきらめていたところ、入院していた病院の院長がリハビリにクラブで歌うことを許してくれて、同じ病院に入った同年の娘と歌ったカセットを聞いて、この道を選ばせたのです。もう一人の娘は不幸にして亡くなってしまいましたがね」
「なぜ、若葉さんは狙われるんですか?」
「若葉がプロになる前に歌っていた頃に世話になったクラブのバンマスが、一年ほど行方不明だったのですが、つい数日前に長野の山中から白骨死体で出たんです」
「それと、どのような関係が?」
「その死んだ男が大金を隠してたらしくて、それを親しかった若葉が知っていると思ってるんじゃないでしょうか?」
「すると、その絡みの脅迫とみていいですか?」
「なぜ、警護だけなのに、それほどの詮索が必要なんです?」
「内容によって防御態勢が変わります。誘拐が目的なら若葉さんに危害を加えませんから、相手の飛び道具の心配がなくなります」
「ディフェンスは甘くていい、ということですか?」
「若葉さんに危険がなければ、刺客を捕らえて目的を吐かせることができます。ところで、危険を感じたのはいつですか?」
「私らが不在の昨日の午後、暴力団風の二人の男が管理人室に寄って、この事務所のことを根掘り葉掘り聞いた上に、このオフィスにも来た様子がありまして、この部屋の入り口前にも複数の彼らと思われる足跡が残ってました」
「恨まれることがなければ、恐れることはないでしょう?」
「だから、若葉が歌っていたクラブのバンマスが残した大金の行方を若葉に吐かせたいんですな」
「その大金の隠し場所を、若葉さんは知ってるんですか?」
「知ってると思われてるだけです」
藤井が会話を中断して、仕事中のマネ-ジャ-に声をかけた。
「蓮田君、適当に切り上げて来てくれ」
黒メガネでヒゲ面のマネージャーが来た。
「目が悪いので、このまま失礼させてもらいます」
改めて達也と短い挨拶を交わす。名刺には、歌手「小森若葉」の名と、その下に併記で少し小さく「専属マネージャー・蓮田賢三」とあり連絡オフィスとして、バーレルレコード営業部の所在地と電話、内線番号が印刷されていた。
「寝泊りもするんですか?」
「若葉は、この近くの文芸座ビルのワンルームで暮らしてるんですが、今夜からマネージャーの蓮田と一緒に泊めます」
「歌手とマネージャーは一心同体ですからな。藤井さんは?」
「私は、平塚市に家族と住んでいて地方巡業以外は帰宅します」
「でも、あそこに新しい寝具がありますね?」
「今日の佐賀さん用に用意したんです。明後日は甲府の仕事があって、その後は若葉の健康上の理由でキャンセルしてあります。したがって、三日間だけ若葉のガ-ドをお願いします」
「届け出は?」
「警察では、被害など具体的な事実が出たら出動してくれます」
「まったく、警察は事件が発生しないと動きませんからな」
「若葉だけ奥で寝泊りして、佐賀さんと蓮田は入口の事務所側に泊まって頂くというのはどうでしょうか? シャワ-もあります」
達也は改めて部屋を眺めた。犯罪者側に立ってみれば玄関よりベランダの方が浸入しやすい。奥で若葉を守るのがベストだ。
「蓮田さんは、奥で若葉さんの身近にいて上げてください。わたしが玄関脇にいます」
蓮田が納得したように軽く頷いた。
「下見に来た以上、彼らはかならず襲って来ます」
達也が、若葉の表情を見てあわてて言い直す。
「何もなければいいですが…今晩がヤマですな」
若葉が蓮田を見た。明らかに若葉は蓮田を頼りにしている。

 

17  目に見えぬ敵

刑事時代は相手を追って捕らえたが、今は攻撃力を失い、ただ専守防衛に徹して死ぬことを怖れず警護する相手を守りぬく。晝間は人混み、夜は闇の中に目をこらし、全身の五感を鋭敏にして、ひたすら敵を待ち依頼者の身を守る。まったく因果な仕事だ。
藤井は、達也と蓮田に後を任せて、バ-ベル本社の営業会議に出席したまま直帰するという。
午前二時頃、ベランダから外を見ると、公園側で人影が木陰に動いた気配があった。鼠が動くととっさに追う猫と同じ刑事の習性が顔を出し、密着警護という鉄則に反して達也は外へ出た。
「蓮田君、中を頼むよ。五分ほど外を見てくるから…」
一階のエレベ-タ-ホ-ルに出ると、そこに屯していた男達が達也を囲んでしつこく絡んだ。達也がその男達の横をすり抜けようと避けたが、男達は一せいに襲って来て乱闘になった。逃げられないなら闘うしかない。敵の陽動作戦に欺かれてミスが出たのだ。それを知って、裏で待機していた男が非常階段を登り始めた。

八階の公園側には、表の騒ぎも裏階段の足音も伝わらない。それでも、表側の高架上の首都高三号線を走る車両の騒音と揺れは、室内にいても身体に伝わって来る。
雲の厚い月のない夜だった。公園の周囲は樹木が繁って暗いのに灯りがない。車の音が消え去る一瞬、気を澄ましていると、その静けさは異様にさえ思えるほど音のない世界になる。
若葉は、ソフアのベッドに横たわり毛布の中で眼を閉じていた。
眠れないが、それでも気疲れで身体は重く沈んでゆく。高速道路を走る自動車が上下線共途切れると一瞬、数秒の間が空いた。
恐ろしいほどの静けさが訪れ、その静寂が人の気配を伝えた。
小さい足音が、非常用に造られた外階段を登って来る。また車の騒音が戻ると足音が聞こえなくなる。
若葉のからだは動かず、寝息もない。
ベランダに近い位置にいる蓮田も足音に気付いていた。闇の中で左腕にタオルを巻きながらベランダ側の縦縞のカーテンの隙き間から外を見る。まだ侵入者の姿はない。若葉が横たわっている位置とは反対側の壁に貼り付いて、上着の内ポケットに右手を入れ、皮鞘から登山用ナイフを抜く。敵も拳銃の発射音を嫌い、刃物を使うと判断したのだ。足音が消えると、外に人の気配が来た。
侵入者は、どこをどう伝わって来たのか、いつの間にかベランダに石のようにうずくまって、耳をガラスに押しつけ、寝息でも読みとろうとするのか室内の様子をうかがい微動もしない。
室内の二人も息を殺している。
やがて腰を沈めたまま、男の手がドアロックに近い位置にのび、セロテープを貼り、音もさせずにカッターでガラスを切る。
ガラス片が折れてセロテープにぶら下がると、開いた穴に手がのびロックが外された。ゆるゆるとアルミサッシのドアーが開き、秋の気配を含む夜風がカーテンをあおって部屋の中に流れ込む。その風と同化して、小柄な男が軽々と忍び込んで来た。
男はすぐ、壁際に立つ蓮田に気付き、右手に持つ刃物を鋭く突き出して叫んだ。
「赤垣だな!」
動きが早くて避ける間がない。タオルを巻いた左手で刃を受け、右手に持ったナイフを振るった。刃と刃が火花を散らし刺客の手が蓮田のメガネを叩き落とす。小柄な敵は、瞬発的に左手に持った懐中電灯のスイッチを入れ正面から蓮田を照らした。蓮田の目がライトの輪の中で鋭く光った。いかに変装しようとも目は騙せない。
「や、安本かっ?!」
刺客がうろたえる間に、蓮田の右足がナイフを蹴落とし、強烈な左フックが男の左頬に炸裂した。懐中電灯が落ちて消え室内がまた闇に戻る。刺客がとび退いたとき、蓮田は床に落ちたナイフを拾っていた。男は、開いていた引き戸からとび出し、素早い動きで階段に向けて斜めに張ったロ-プを伝わって、待機する仲間のもとに逃げた。若葉の存在になどまったく目もくれない。
蓮田は自分のナイフと奪ったナイフを、逃げる二つの黒い影目がけて続けて投げた。刃物が闇を割いてとぶ。
くぐもった悲鳴を残したが、かすったような手応えだけで致命傷にはならなかったのか、男達の影は転げ落ちるようにして闇に消えた。蓮田が手すりに絡んだロ-プを外して捨てた。
その一部始終をベッドの中で見ていた若葉が、ベッドからとび起きると、隠し持っていた果物ナイフを投げ捨て一目散に駆け寄り、しっかりと蓮田にしがみついた。
その若葉の黒髪を、蓮田の白手袋の左手が優しく撫でる。
「いいか、勝負はこれからだ。くじけるんじゃないぞ!」
若葉がうなずいて、からだを離し闇の中で涙をふいてから、電気をつけ驚きの声を小さく上げた。
蓮田の左腕のタオルから血が滴り落ちている。
若葉は、落ちついて書類棚の上から常備の薬箱を取り出して、手早く蓮田の傷の手当てをして布を巻いた。その表情には蓮田を思う心がにじみでている。包帯をして、上着を着て新しい手袋にするととりあえず怪我は隠せる。
若葉は、自分が落とした果物ナイフを台所に戻し、刺客の落とした懐中電灯をを拾って書類棚の奥に隠した。
あとは、雑巾で床の血を拭く。血液を調べられないためだ。

18 人違い

下では達也を囲む乱闘の渦に、腰を押さえた小男が来て叫ぶ。
「終わったぞ!」
時間を稼いだのが計画通りだったのか、達也につぎつぎに倒されていた男たちも、さっと起き上がると早い動作で四方に散った。
わるい予感がした。
エレベーターホールに走りながら達也は腹が立った。
乱闘で手加減した自分に腹が立ち、この危険な仕事をまわした田島を呪い、非常時に帰宅した藤井にも怒りのほこ先が向かう。
いや、達也を全面的に信頼したからこそ安心して自宅に帰ったのだろう。その信頼を裏切った自分にさらに腹が立つ。
(殺されたか?)
達也の脳裏に、無残な姿の蓮田、拉致される若葉が浮かぶ。
達也はあせった。エレベーターの上昇が遅く感じる。ドアが開くと八階の廊下を一気に走った。
明るい室内に二人を見た瞬間安堵のあまり膝がガクッとする。
黒メガネの蓮田が達也を見た。
「大変だったんです」
蓮田が、いかにも恐ろしかったという表情をする。
「どうしたんだ?」
「怪しいヤツのためにガラスが割られたんです」
「どんなヤツだった?」
「イスに座ってたら、カーテン越しに人影が見えたんです。ヤツがガラスを切ってドアーのロックを外して入って来たんで、思わず夢中で飛びつこうとしたら相手も驚いたらしく、すぐ逃げました」
「若葉さんは?」
一瞬、間が空き、若葉が口を開いた。
「ガラスの割れる声で目が覚めました」
いかにも恐ろしいという口調で、目線がチラと蓮田に向いた。
(この二人は口裏を合せたな)と、達也は思った。奥の部屋に入ると、なるほどガラスドアーの腰の高さに穴がある。床に落ちたガラスの破片を見ると、セロテープを貼ってくり抜いた変形十センチ角ぐらいの部分と破片がとび散っている。
あちこちに床の血痕を拭いた跡があって、まだ乾いていない。
元刑事の習性でティッシュを出し、血を少しでも吸着させる。
「この血は、どうしたんだね?」
「相手が、ガラスで手を切ったのかも知れません」
「手袋をしてたかね?」
「多分。顔も暗くてよくは見えませんでした……」
浸入者が確実に指が触れたのは、蓮田の話だとガラス戸内側のドアーロックだけだが、テープを貼ったガラス面にも触れたかも知れない。プロであれば指紋をつけるミスはあり得ないが、念のため、切断されたガラス面に息を吹きかけて懐中電灯で見る。やはり、指紋は出ない。プロの仕業に間違いない。
達也はさりげなく話題を変え、二人の無事を素直に祝福した。
あれから、逃げた男はどうなったか。

蓮田が投げたナイフは、一本は小男の腰をかすめ、一本は脱出を助けた細身のヤクザの左の肩先を刺し、着衣を裂き血が吹いた。
その傷を片手で押さえながら林を抜けて逃げようとしたが、公園裏の木の幹に寄り掛かってタバコを吸っていた長身の男が、走って来た長身の男を見てタバコを捨て、靴で火を踏み消し、いかにも待っていたといわんばかりに立ちはだかった。
藤井が様子を見て待機していたのだ。多分、階段からロ-プを伝って部屋に侵入した一部始終を見ていたに違いない。と、したら、達也と蓮田を信頼していたことになる。
「な、なんだ、てめえは?」
まだ語尾が消えない内に、藤井の長い右足が、傷ついた肩を右手でかばった男の下半身の急所に爆烈し、男は「ウッ」と、呻いて崩れ落ちた。藤井は男の背後にまわってカツを入れて息をもどし、改めて首を締めた。
「どうだ、死にたいか!」
死にたいやつなどいない。肩が傷ついている上に首が苦しくて声が出ないから男が夢中で頭を振る。
「死にたくないか。言え! 誰に頼まれた? きさまの名は?」
首をゆるめるから思わず息を大きく吐き、吸おうとする。すると首を絞めるから酸素が入らない。これを何度か繰り返すうちに顔色が変わった。答えたくても呼吸すらままならない。
「なんだ、言えねえのか?」
手で地面を叩いてギブアップすると、呼吸だけは自由になる。
「さあ、早く言え、五カウントで地獄へ落とすぞ。イ-チ-」
本気だと思うからあせって余計な事まで喋る。死ぬよりはいい。
「待て、待ってくれ、オレは橋爪源三だ」
「誰の命令だ? 言えねえのか?」
「く、苦しい。殺さないでくれ、サカガミ、酒上の兄貴だ」
「どこのサカガミだ?」
「ク、首をゆ、ゆるめてくれ。甲府のゲ-ム機屋、酒上興業だ」
「で、何の用だ?」
「た、たしかめに来たんだ」
「なにを?」
「大金を持ち逃げして、行方不明になってる仲間がいる……」
「だれだ? そいつの名前は!」
「グッ、苦しいじゃねえか。あか、赤垣四郎だ」
「なんの金だ?!」
「安本ってヤツをバラして金を奪い、トンズラしちゃった」
「それで、どうだった? 赤垣だったか?」
「たしかめに行ったのは、オレじゃあねえから分からねえ」
「よしっ。とっとと失せろ!」
思いっきり尻を蹴とばすと、男は転げるように車の方角に走って逃げたが、薄情にもこの男を置き去りにして車は去っていた。
藤井は、ゆっくりとまたタバコに火を点けた。