第五章 戦場での交鎖

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1、 三邦丸乗船

蔵屋敷に一泊しての朝食後、一行は小舟に乗って大坂湾に停泊中の薩摩藩の黒い軍艦三邦丸に向かった。伏見藩邸からの移動時に男装したお龍は、大小を手挟む羽織袴の武士姿がすっかり気に入ったらしく、髪型こそ女に戻したが軍艦には男装で乗り込むと言い、「女だてらにみっともない」という龍馬の反対にも意見など無視して引き下がらない。
「ええじゃないですか」
西郷の一言で我を通したお龍は、男装の麗人という姿で三邦丸に乗り込むことになった。
小舟から長い綱梯子を用いて乗船した一行は、直ちに帆柱などから張り巡らされた帆綱や金具に占拠された甲板上で、集められた乗員や薩摩藩士に紹介されることになった。
地味で目立たない存在だが伏見から同行している薩摩藩士吉井幸輔が司会の挨拶をし、家老小松帯刀を招いた。幸輔は西郷の懐刀と言われる誠実な男で藩内の評価も高い。
小松帯刀の短い訓示の後、指揮官の西郷が坂本龍馬と三吉慎蔵を紹介し、五十人を超す捕吏を相手に拳銃と槍で互角に渡り合った激しい戦闘の話をした。
その時は静まり返っていた藩士達だったが、三吉慎蔵が長州藩切っての槍の名手であるのは誰もが知っているから、龍馬は無視されたが、三好には敵意のある視線が注がれている。長州とは敵対関係にある薩摩藩だけに仕方のないことだった。
次いで、ほば裸の状態で捕吏の乱入を知らせて二人の危機を救った上に、薩摩屋敷まで駆けつけて龍馬を救ったお龍の活躍ぶりを話すと拍手喝采、敬意と羨望嫉妬の入り混じった歓声が海上の青空に鳴り響いて吸い込まれて行った。
その後で紹介された中岡慎太郎は「坂本どんの仲間じゃ」で終わり、町民姿の太兵衛などは「当藩出入りの小間物商」で注目も浴びず誰にも相手にされない。これで太兵衛は動きやすくなった。
西郷の挨拶が終わると、副官の「出航準備!」の号令に従って、隊士や水夫らがいっせいに気合の入った返事と共に素早く配置につき錨が巻き上げられ出向の準備にとりかかった。
西郷の命を受けた部下が、部屋を割り振って一行を案内したてくれた。龍馬とお龍に一部屋、三吉と中岡が同室、太兵衛は自分から望んで水夫の大部屋に入ることになった。廊下のところどころに灯がともっている。行灯より、はるかに明るい。龍馬がランプだと教えてくれた。甲板から階段を降りると客室階の中央に通路があり、その両側に小部屋が並んでいた。
狭い部屋の中には、寝台、机、鏡台などが合理的に配置されていて、色彩も落ち着きを誘う薄い茶系を用いて木の柔らかい感触を生かしてある。龍馬とお龍が与えられた部屋に入ると、お龍はすぐ寝台に寝そべって「気持ちいい!」と感動の声を上げた。龍馬は、形のいい椅子に座って肘をついて目を閉じた。これからどうなるか? 気にしても仕方がない。
「さ、行くぞ」
二人が甲板に戻ると、西郷が「いよいよですな」と誰にともなく言った。
青く澄み切った空の下、大空に向かって突き出た太く長い煙突から煙と蒸気を噴き出した最新鋭の洋式軍艦三邦丸は、汽笛を鳴らし朝もやをついて動き出すと、湾内を行き交っていた荷運び中の小舟や周囲の帆船がたちまち散って水路を空けた。
大阪湾を出港した三邦丸は、マストに掲げた巨大な白帆と蒸気との併用で荒波を切り分けて快適に西に向かって動き出した。
太兵衛は水夫に混じってあれこれ手伝ったが、手が空いたのを利用して帆柱に張った縄ばしごを登って帆桁に両足を踏ん張って陸地を眺めた。大坂はすでに遠のき神戸の港や六甲の山々が遠くに霞んで見えた。
太兵衛が気づくまでもなく薩摩藩の軍艦「三邦丸」の出航は、それ自体が軍事訓練であり仮想敵が幕府であることを誰も隠そうとしなかった。身体を捻って軍艦の舳先から船尾までを眺めると、今まで見たこともない巨大な大砲が前後左右に海上目掛けて突き出ていて、その威容は天を突く勢いだが、それ以上に太兵衛が感心したのは、それを扱う海軍士官や水夫役に徹している藩士の意気軒昂とした倒幕への士気の高さだった。
彼らは口々に「敵は幕府なり!」と叫んで、鉄砲を構え大砲の筒先を上下に動かす単純な作業を飽くことなく繰り返していた。
(新式銃で武装した薩長を相手に戦って、幕府は勝てるのか?)
太兵衛は、近代兵器を駆使して訓練する薩摩藩士の並々ならぬ闘争心を倒幕に向けて一つにした西郷の手腕に驚嘆していた。この藩はもはや上から下まで、薩摩一藩でも倒幕の火の手を上げて戦えば、薩摩以外の全てが幕軍に与しようと太平に慣れた烏合の衆など歯牙にもかけずに一気に粉砕できると信じきっているのが分かるだけに、その狂気が恐ろしい。
西郷は一人でさり気なく艦内を散策して、持ち場で立ち働く藩士の誰彼れなく「よく寝とるか?」「飯は旨かな?」などと声を掛けて藩士の士気の状態を確かめている。その気遣いは並ではない。
一日目の遅い午後、昼食を終えて甲板で袋竹刀やたんぽ槍で武技の稽古をしていた薩摩藩士の一人が言った。
「長州一と謳われる三吉慎蔵どんの槍を見たいですな」
この提案で、我も我もと「一手ご教授を」と、三吉を叩き潰すつもりで先を争って前に出た。
三吉は何度も固辞したが、「逃げるとですか?」の声に、不気味な笑みを口元に浮かべ、「しからば、しばしご猶予を」と言い残して自室に戻った。
「逃げたか?」
「長州は卑怯じゃけん、なに考えとるか分からん」
暫くして鉢巻にたすき掛けの三吉慎蔵が、使い込んで柄が黒光りした短槍を抱えて戻って来た。
袴の股立ちも決めていて本気で戦う姿勢を見せている。手にした槍の穂先は鞘のままで、さらに厚布が巻かれていて稽古用のたんぽ槍のように丸まっていた。これなら相手を傷つけることもない。
その闘う姿勢がまた薩摩藩士を刺激した。
薩摩藩が会津と共に幕軍の主力となって長州軍と戦った禁門の変からまだ一年半、かなりの薩摩藩士が、この三吉の槍の餌食になって倒されている。
この三吉の槍で左肩に手傷を負って止むなく戦線を離脱したことがあるという薩摩藩士が木刀を持って待ち構えていた。
「佐久間久蔵、お相手申す、いざ!」
「お手やわらかに」
三吉が軽く頭を下げた瞬間、必殺の気合もろとも示現流の面打ちが三吉の頭上を襲った。

 

2、薩長の手合わせ

さすがに一番手を望んだだけに佐久間久蔵の剣風は鋭かった。
並の剣士なら、咄嗟に刀なり槍なりで素早く頭上で打ち払うのだが、示現流はそれを承知で相手の武器もろとも頭を叩き割る。だが三吉は違った。何の迷いもなく体を沈めて左に移動しつつ槍を繰り出して佐久間の鳩尾(みぞおち)を突いた。佐々木の手から離れた木刀は空しく甲板の白い板で乾いた音を立てて弾み、倒れた佐々木は体を丸めて苦悶の表情でのたうち回っている。
太兵衛が見回すと、西郷と小松帯刀は太兵衛の背後にいて、その立ち回りを表情も変えずに眺めていた。
龍馬とお龍の姿はない。部屋に篭って二人だけの時間を過ごしているらしい。
「次は誰だ、本気なら真剣で来い!」
三吉が息遣いも変えずに叫んだ。
異様に興奮した男が、名も名乗らず抜き打ちに白刃を振りかぶって疾風の如く三吉を襲ったが結果は同じだった。今度は三吉も本気だから手加減をしない。喉を突いてから間髪をいれずに頭を撲ったから襲った男は気を失ったらしい。
それを見た五人ほどの薩摩藩士が刀を抜き、三吉を囲んで切り込んで行ったが、つい十数日前に白刃に囲まれての修羅場をから生還した三吉慎蔵にとって白兵戦は道場剣術より容易だった。
相手に真剣勝負での気負いや恐怖心が見てとれるからだった。三吉は焦る気配もなく槍を振るって殴り突き叩き据えて相手を倒し、甲板に倒れ伏して失神したり苦しみ呻く薩摩武士を尻目に、周囲を見据えて吐き捨てた。
「薩摩っぽはこんなもんか!」
太兵衛がその時、西郷の動く気配を感じて振り向くと、西郷が懐中から短筒をとり出している。
ふてぶてしく槍を構えた三吉は、殺気立って白刃を構えて囲みの輪を縮める薩摩藩士の機先を制して素早く動き暴れまわって瞬く間に数人を倒した。
「今度は殺すぞ!」と三吉が叫んだ瞬間、西郷の短筒が空に向かって火を噴いた。
その西郷の銃の二発目は、三吉の胸を狙った。
西郷が持ち前の野太い声で「三吉どん、そこまででごわす」と静かに言うと、三吉慎蔵は、ホッとしたように槍を収めて大きく息を吐いた。
「飛び道具には敵わん」
冷たい海風の中で顔の汗を吹いた三吉が、西郷に向かって素直に頭をさげた。
三吉は腰を折って短槍を小脇に置き、気絶している佐久間という武士を背後から抱き起こし、膝を入れて活を入れると息を吹き返した。佐久間という男がキョトンとして振り向き、三吉の顔が間近にあるのを見て、妖怪でも見たかのように「アッ」と叫んで腰を浮かした。
西郷が放った短筒の銃声で、何事かと部屋から出てきた龍馬の左手は、お龍の手をしっかりと握って離さず、周囲の好奇の目など気にする様子もない。
「何が起こったかね?」
西郷に話しかけた龍馬がお龍の手をに、薩摩藩士や水夫らの失笑を買い、好奇の目や冷やかしの言葉を浴びたが全く意に介する風もない。ただ嬉しそうで全く周囲の状況など気にしない。家老の小松帯刀や西郷はそんな二人を温かく見守っている。
場の雰囲気を読んだのか龍馬が大声で怒鳴った。
「この勢いを倒幕にぶつけてこそ薩摩隼人じゃき、がんばりや!」
「おう!」「よか!」「そん通りじゃ!」
薩摩武士の歓声が鎮まるのを待って龍馬が続けた。
「じゃが薩摩だけでは力が足りん、それを長州の力で補わねばならん」
船上が静まり返ったところで龍馬が笑顔を見せて言った。
「じゃから、あんたら三吉慎蔵と仲直りせにゃいかんぜよ」
これを聞いて、佐久間という男が真っ先に三吉に駆け寄って頭を下げた。
「ここはお互いの剣の技を戦場で生かそう」
一撃で失神したことすら忘れたらしい佐久間の一言が周囲の笑いを誘い、これで殺気も緊張も一気に消えた。まだ痛むのか腹部を押さえた薩摩藩士が近づいて頭を下げた。
「お見事でござった」
「こちらも危うい状態でござった」
三吉も素直に頭を下げた。
これで「薩長が力を合わせて幕府を倒そう」という空気が強まった。
龍馬とお龍は何事もなかったように、仲良く船べりの手すりに身体を寄せ合って楽しげに談笑していて、薩摩藩士の羨望と嫉妬の視線を浴びている。
「坂本どん、お龍さん、あとは夕餉で会いましょう」
西郷が二人に声をかけてから太兵衛に近づき、さり気なく耳打ちした。
「部屋で待ってますぞ」
太兵衛は顔は動かさずに目で頷いた。
その瞬間、何を思ったかかなり離れた位置にいた龍馬が振り向いた。
西郷どん!」
「何だね?」
「その短筒、わしに呉れんかね?」
「よかばい、予備の弾は後で」
太っ腹な西郷らしく、すぐ懐中から短筒を取り出して龍馬目がけて投げた。
短銃は見事な放物線を描いて船上を飛び、見事に龍馬の包帯だらけの手に収まった。
(貴重な品を惜しげもなく人に与える、やはり、底の知れぬ相手だ)
太兵衛は、歩み去る西郷の背をさり気なく見つめた。

 

3、西郷と太兵衛

太兵衛は誰にも姿を見られぬように周囲に気配りして西郷の部屋に入った。
こじんまりとした部屋の壁には海路図や寄港地予定表が貼られ、卓上には地球儀がある。
すでに袴を脱ぎ着流し姿で腰に刀もない西郷が、素早く内側から鍵を閉めて笑顔を見せた。
「太兵衛どん、お待ちした」
「吉之助さんは、まだ隠密を続けるつもりですか?」
「これも、おいどんが仕事で仕方なかでごわす」
「では、いつも通り五分と五分、許せる範囲内で」
「こうして敵味方が通じるのも国のため、まずワインで一献」
西郷が茶色い硝子瓶から洋酒を二つの凝った形のグラスに注ぎ、一つを太兵衛に手渡した。
「では、おいどんも太兵衛どんも含めて全ての貧しき陰の者の将来に乾杯!」
「武士も町民もない世の中に!」
飲み干したグラスを卓上に置いて、日頃は寡黙な西郷が先に口を開いた。
「先に聞くが、家茂公は薩摩と長州の宿敵が手を結んだことをご承知でごわすか?」
「坂本の仲介であることも、私からお伝えした」
「どう言われとったと?」
「和宮様ご降下で公武合体を果たした後だけに、かなり悲嘆した様子でしたな」
「戦いのお覚悟は?」
「戦いを避ける方法はないか? と、お尋ねだった」
一瞬、西郷が戸惑った表情で沈黙した。
「反逆者は叩き潰す、とは言わんでごわしたか?」
「上様が戦いを好まぬのは事実ですぞ」
「それは無理じゃ。すでに薩摩と長州の倒幕軍も編成を終えて動き出しておる」
「土佐は?」
「藩主の山内容堂公は古狸、いまだに方針を明かさんでごわす。ただ・・・」
「何です?」
「坂本が、武力での倒幕を邪魔するよう山内公に進言する可能性があるのでごわす」
「土佐の殿様の耳に、無禄の町人郷士の坂本ごときの声が届きますかな?」
「耳を貸す? では何故、島津の殿がわしごとき身分低き者を重用するでごわすか?」
「実直で卓越した才を持つ吉之助さんを、殿様が信頼したからでは?」
「身分低き者なら密者と知られて斬られても、藩にとっては惜しくもない」
「捨て駒か? なるほど、その点では私も坂本も同じですかな?」
「太兵衛どんは、坂本の行動を妙だとは思わんでごわしたか?」
「何がです?」
「藩士とも言えぬ町人郷士の坂本が、剣術修行という藩命で江戸に出たのでごわすぞ」
「それは、藩の重臣と親しい高知の剣術師範の口添えと聞き及びます」
「最初の江戸行きで終わらず、その後も藩命で江戸に出たのはご存知か?」
「知っております」
「坂本どんの江戸での情報収集と各藩名士との交流、その見事な活躍が殿様の目に留まった・・・」
「なるほど、それで二度目の江戸行きですな?」
「幕府の知恵袋と睨んだ勝海舟の懐に飛び込み、幕藩体制の弱点と各藩の戦力をつぶさに調べた上に勝の助手として幕府の禄を食み、海軍操練所で船の操作から大砲の撃ち方まで覚えたのごわす」
「それが目的で、小禄ながら幕府で力のある勝海舟さんに接近した?」
「場合によっては斬るつもりと、道場主の息子を連れて行ったと聞きもうす」
「坂本と千葉重太郎では勝さまは斬れません。勝さまは島田虎之助の秘蔵っ子ですぞ」
「そん通りでごわすな。島田の師が講武所頭取の男谷精一郎では相手が悪すぎる」
「勝さまと男谷先生は、従兄同士で稽古でもいい勝負と聞いています」
「男谷どんは三本に一本は、誰にでも勝ちを譲るらしいですな」
「麒太郎には勝ちを譲らん、と男谷先生は公言しているそうです」
「いずれにしても、勝さんはなかなかの大物でごわすな」
「坂本は、勝さまとの面会のために越前福井藩主松平春獄さまに会って、紹介状を頂いて持参したと聞いております」
「太兵衛どんは、一介の脱藩郷士である坂本が手ぶらで、藩主で幕府政治総裁職の松平春獄さまに会えると思われますかな?」
「思いません」
「勝さんが、土佐の藩主の紹介状持参なら?」
「なるほど、山内容堂さまの命なら会えますな」
「松平公は坂本に自分の着ていた紋付羽織を譲った。これも異例でごわす」
「確かに」
「それを坂本どんは千葉定吉の娘の佐那に、婚約の証として惜しげもなく与えたのでごわすぞ」
「千葉の娘と婚約していたら、お龍さんはどうなりますかな」
「おいどんは坂本の女問題は知らん。あん人の女好きは不治の病でごわしょう」
「坂本の脱藩が藩命だったとすれば確かに納得がゆきますな。脱藩浪士なら他郷で斬られても藩は関知せずに済む。しかも脱藩は重罪なのに、極刑であるべき坂本家には未だに何のお咎めもない」
「じゃどん、一応の辻つま合わせに責めを負ったかたちで姉が一人、命を絶っております」
「土佐は藩律の厳しき土地、通常なら一族死罪、それが女一人の自害で済まんでしょう?」
「坂本の脱藩で、そのお栄という姉が嫁ぎ先から離縁されたのはご存知でごわすか」
「知りませぬ」
「お栄の嫁ぎ先は下士ではあるが厳格な義父でしてな、坂本の脱藩を許さず、また藩からの探索で家族に類の及ぶのを避けるために、お栄を離別することにしたのでごわす」
「哀れなことですな」
太兵衛は憮然とした表情で西郷を見つめ、次の言葉を待った。
「お互いに好きなのに泣く泣く別れた夫から、一生大事にと形見に貰った刀を、出奔する坂本の門出に呉れて自害したのでごわす」
「夫への贖罪と、一族に類が及ぶことを避けた律儀な女らしい始末ですな。その姉は、坂本が藩命を帯びて脱藩したことを知らなかったから自害したということですか?」
「死なんでもよかったでごわすが、出戻っても家には継母で居場所がなく、夫の形見を脱藩した弟に与えたことと夫への裏切り行為、これで自責の念を抱いたお栄さんは死んだ・・・おいどんはこう考えとりますが、身分なき者は、哀れなものでごわすなあ」
「坂本が藩主の命で脱藩した・・・こう考えると辻褄は合うが、となると?」
西郷が太兵衛のグラスに三杯目のワインを注ぎながら口元で笑った。
「なにか気づいたでごわすか?」
太兵衛がワイングラスを手にしたまま西郷を見た。
「坂本を救う振りをして、実は坂本の勝手な動きを封じるために京から連れ出した、ですか?」
「さすがに太兵衛どん。あん人は女がいれば何の不満もなか人でごわす」
今度は太兵衛が笑顔を見せた。

 

4、龍馬の秘密

夜明け前、龍馬は甲板に出て冷たい風に吹かれていた。
まだ暗い早朝から水夫が甲板を動き回って、西に走る軍艦に都合のよい風を受けるべく大小の帆をいっぱいに張っている。初春の海風は身を切る冷たさで龍馬を襲うが、それに耐えることで心の闇を洗い流されるような爽快感を感じていた。
龍馬は周囲の人達から、勝手気ままに生きているように思われている自分を知っている。自分でも熱しやすく冷め易い欠点があるのを知っていた。
お龍を裏切ったらどうなるか? 考えただけでも恐ろしい。これからの自分の立場を考えるとお龍の望みどおりに一緒にいる時間的自由はないし、そろそろお龍には飽きているのも事実だった。確かにお龍は命の恩人なのだが、お龍には知性がない、これが周囲から誤解される元になっている。
これではいけないと思いつつも、龍馬は心優しい女性を求めている。龍馬の心は、ややもすると長崎丸山の遊郭にいるお元を想っているのも事実だった。これから先も、行く先々の女達が恋しくなるだろう。この心の動きだけはどうしようもない。
その邪念を吹き飛ばすべく軍艦の舳先に立って海風を受けたのだが、雑念は次々に龍馬を襲って来る。人は愛し愛されることで成長し何かに命がけで打ち込むことで美しく輝く。だからこそ、日々を悔いなく精一杯に生き心身共に爽やかに過ごしたいのだ。
大きく息を吸った龍馬は両手を広げると、体が風をはらみ空を飛べるような気になる。これは今に始まったことではない。
初めてこのような幻覚にも似た感覚を体感したのは、脱藩して各地を歴訪中の二十八歳初夏のことだった。脱藩は藩命による諸国の情勢探索にあったが、家族にも口外を禁じられた脱藩には伏線があった。
その前年、高知城下で上士に商人郷士がさしたる咎もないのに切られるという刃傷沙汰があり、上士から切捨て御免という立場で人間扱いもされない無禄軽輩の差別化された郷士という立場に失望したのも龍馬が自分からも脱藩を希望した要因の一つだった。
どこの藩でも探索に放つ間諜は、その策敵行為が他藩の武士に咎められた場合、切り捨てられても惜しくない無禄か軽輩の身元が確かな郷士から選ぶのを常としていた。それを脱藩浪士という形にしておけば、万が一の折にも藩は責を負わずに済み他藩との無用な争いを避けることが出来る。
龍馬が若いときに江戸修行を許され、千葉道場や勝麟太郎の私塾に集まる各藩の血気盛んな若い武士達から、彼らの所属する各藩江戸屋敷の勤皇か佐幕かで揺れている動向を聞いて、それを逐一報告したことが実績となって、二十八歳にして家族身内にも言えない秘密裏の脱藩という違法行為が許された。
ただ、その真相を知らない親族の怒りや悲嘆によって悲劇が起こったのは予想外の出来事だった。姉のお栄が上士の婚家から離縁されたのも龍馬の脱藩による連鎖を恐れたからに他ならない。
そのお栄は、行き場のない現世での未来を諦めて夫から形見にと貰った刀を愛する弟に与えて死を選んだ。そう噂されている。だが、事実は全く違う。お栄が先祖伝来の家を守るために相思相愛のまま生身を裂かれる思いで別れさせられて婚家を去ったとか、継母が仕切る実家にも居場所がなくて死を選んだとか、周囲の噂は正しくない。
その真相は、龍馬とその家族しか知らないはずだった。
お栄は、かなり以前から藩の役人からご禁制の隠れキリシタン容疑で探索を受けていて、その類が家族にも及ぼうとしていた。だからこそ、お栄の死は身内にも秘せられ、その墓は誰にも知られない山奥のブナの木の根元に埋められている。
お栄はそこでひっそりと自分から永遠の眠りについたのだ。その死は無駄ではない。信じる神を持ったお栄は幸せだったと龍馬は信じている。
龍馬が何故そう思うかというと、自分もまたお栄の信仰をそのまま継いでいるからだ。
龍馬の巾着の中には、一見してそれとは見えぬ小さな鉛のクルスが収まっている。

あの日、脱藩して九州に渡り、剣術修行の旅として龍馬が訪れたのは長崎だった。
長崎は江戸や京都と並ぶ諸藩の情報が得られる街だった。
龍馬はあの日、島原半島の原城跡を訪れた。海風が頬に冷たく、眼前を飛び交う海鳥の甲高い啼き声と岩に激しく砕け散る荒波の音が交錯し、白い波飛沫きと荒波のうねる青い海、その景色は今もなお龍馬の脳裏に焼き付いて離れない。あの海原の揺らぐ風景を思い出す度に龍馬の胸が高鳴り、じっとしていられない衝動を感じて落ち着かない。
かつてはこの地で、キリシタン弾圧の惨劇により二万八千とも三万とも言われる百姓町人が松平伊豆守率いる幕軍によって虐殺されて大量の血を流した・・・それを思って周囲を眺めると今にも死せる者たちが彷徨い出て恨みを叫ぶのが聞こえるようだった。
その思いで血の染みた城跡の地を踏みしめて歩いていると、ふと、草鞋の親指先に小石とは違った感覚で何か触れるものがある。龍馬が思わず屈みこんで拾ってみると、それが鉛の銃弾を叩いて作ったクルスだった。それを手にして立ちあがった瞬間、龍馬は軽い眩暈を感じて頭の中が真っ白になって軽い頭痛を感じる不思議な感覚を味わった。
その感覚は今も時折感じることがある。
今、この三邦丸の舳先に立って大海原を眺めていると、やはり軽い頭痛に襲われていた。

5、聖地に誓う

あの二十八歳の初春に島原の原城址の地で拾った鉛のクルス、これが龍馬の人生を変えた。
鉛のクルスを握り締め、海と空の融合する大海原を仰ぎ見た時、軽い頭痛を感じた龍馬は、自分が自分ではない瞬間を感じていた。そこには負け犬のように上士に苛め抜かれ、絹を着る財力があっても紙糸織の羽織袴しか身につけられず下駄すら履けなかった商人郷士の屈辱も今はない。
大海原からの風を全身に浴びていると、天からの声が聞こえて来るような錯覚に襲われる。その声は龍馬に「世のために死ね!」と波音ともとれるような響きで呼び掛けて来る。
そんな馬鹿な・・・龍馬は世のためなんかに死んでたまるか、自分のためにも生き抜くのだ、と本気で思った。すると、頭痛が激しくなって耐えがたくなる。仕方なく自我を捨てて世のため人のために生きる決意を固めると、すーっと頭痛が治まって楽になり身も心も軽くなる。
目を閉じると、無数の海鳥の騒がしい鳴き声に混じって、落城の際の血ぬられた悲鳴と混乱が轟々と響き、いつの間にか龍馬が叫んでいる。
「死んでもいい、生きてもいい。あるがままに戦って命を主に捧げよ!」
おう、と鋤や鍬を手にした民衆が応じて、攻め来る知恵伊豆率いる幕府の大軍に捨て身の反撃を試みて駆け込んで行き銃撃や刀槍の餌食になって次々に惨殺されてゆく。その姿は来るべき倒幕によって焼き尽くされ切り殺される江戸の庶民の姿と重なって来る。
「死を恐れるな。心の故郷、夢の国パライソが待っているぞ!」
どこからか、「四郎さま!」、と呼び掛けがある。
驚いて目を開くと目の前にはただ大海原が広がっていて、薩摩の軍艦の甲板の先端にいて波を切り分けて進んでいる。二十八歳のあの日からの龍馬は、狂気が強まる時は自分が何者であるのか分からなくなる時さえある。だが、正気に戻れば自分は坂本龍馬それに間違いないと知り安堵する。
そして、もう殺戮はいい、この身を捨てても民衆の血だけは流すまい、と心に誓うのだ。
それを止められるのは自分しかいない。
薩摩と長州が手を組んで武力倒幕に突き進むのが既成の事実になりつつあるだけに、何らかの手を打たねばならない。
ふと背後に人の気配を感じて振り向くと、男装を解いて本来の女に戻ったお龍が浅黄の着物で現われて龍馬に近づき、身を寄せて来た。
お龍は、昨夜の情熱的な愛情表現とは違って穏やかな表情で甘えて来る。
「目覚めたら龍馬さんがいないんですもの、どこに行ったかと思って心配しました」
「船の上じゃきに、どこにも行けんぜよ」
「それは分かってますが、あたしから離れる予感がして恐ろしくて・・・」
「おまはんは、わしが嫁じゃきになんも恐れることなどありはせん」
「嬉しい」
お龍は人目もはばからずに龍馬に抱きついて涙ぐむ。お龍は芯から龍馬に惚れているのだ。
「水夫や士官の目があるでよ、いい加減にしや」
「いま、あたしを嫁だと言ったでしょ」
「分かった、これから精いっぱい抱いてやるじゃきに今はこらえてや」
「じゃ、部屋で待ってます」
「おいおい、朝からかい?」
「では朝食前にね」
お龍がきびすを返して部屋に戻って行く。
龍馬は救いを求めるように周囲を見たところ、帆柱張りを手伝っている太兵衛の横顔が見えた。
「太兵衛さん」
「なんです? 奥さんに逃げられましたか?」
「見てたんかね?」
「見なくても目に入りますよ。朝からお熱いことですな?」
「そう言わずに同情したらどうじゃね」
「なんで私が同情しなきゃならんのです? あんな素敵な嫁さんがいて」
「何事もほどほどがいい。女の深情けだけはいかんぜよ」
「なにがいかんのか、私には分かりませんな」
龍馬は包帯を巻いた手を太兵衛に言った。
「西郷さんが、霧島の温泉が傷に効くって言うで行くじゃがどう思う?」
「どうって?」
「京や伏見は危険じゃが、鹿児島の温泉で無為に過ごすのが大局的に見てどうなるか?」
「健康第一、なにも考えずに手の傷を治さんと次は命取りになりますぞ」
龍馬が太兵衛の目をみつめて真剣な顔で言った。
「どうだね? わしの顔に死相が出ているかね?」
太兵衛が顔を横に振って笑った。
「それは無理です。私は人相見じゃないですからな」
「そうか、無理だったか?」
「なんで急にそんなことを聞くんです?」
「最近、なぜか刺客に狙われる予感がして」
「そんなの思い過ごしですよ」
「自分が思い半ばに死ぬのはいいが、お龍を一人で残すのが心残りでな」
「そんな不吉なことは口に出さんでください」
「おまはんには、寺田屋と材木小屋で二度も助けられた。三度目もあるかな?」
「いや、これだけは分かりかねます」
「気休めでいい。わしに万が一の時はお龍を頼む」
「それは相手が違います。三吉慎蔵さんに頼んでください」
その時、待ちわびて痺れを切らしたのかお龍が落ち着いた着物姿で現れ、会話が終わった。