追悼 小美濃清明、三武義彦氏

友を悼む

 自ら主宰の幕末史研究会第三百回記念講演を無事に終えたわが親しき友・小美濃清明氏はこの日からわずか12日めの5月5日(木)朝、ご自宅で心筋梗塞に襲われて急死、胃の摘出手術(胃ガン)を一週間後に控えての壮絶な最期、まだ70代の若さでした。本人としてはまだまだし残した仕事があるとはいえ、坂本龍馬研究の第一人者としても功成り名遂げ、長年に渉って幕末史研究会を牽引してきた努力をみても、その生涯に一点の曇りもなく悔いのない人生とも思えます。この小美濃氏の実績と功績は、末永く人々の記憶に残って語り継がれることと信じます。私としては古文書研究会の仲間として共に学び、友人としては共に取材し共に旅をして苦楽を共にした仲間としてその早すぎた逝去を惜しみ涙して痛み、その遺志は我々が必ず継ぐと約束した上で、安らかに穏やかにと心からご冥福を祈ります。
僭越ながら友人を代表して・・・花見正樹

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 以上は本HP内「歴史の館」内の「幕末史研究会」のコーナーに寄稿した一文ですが小美濃氏とは語り尽くせないほどの思い出を共有し、高知や東北も含めて取材や共に励ましながら切磋琢磨した仲だけに、この友を喪うことは片腕を失ったも同然で、この脱力感は言葉に表せないほどの辛く切ない衝撃の強い出来事でした。このショックで受けた心の傷は思いの他大きく、目の不自由を理由に諦め挫折していた幕末史への創作意欲を再燃させるのに充分な刺激をも与え、小美濃氏が燃え尽きて逝った後は、私が形を変えて引き継ぐしかないような気がします。
ここからの私があと4年、90歳までまともに働くことが出来れば、どれだけの成果が残せるかは知りませんが、多分、何の思い残すことなく先立った古文書研究会仲間の小美濃氏や三武氏(右文書院・三武義彦氏)にも合わせる顔があろうというものです。これからの私がどう変わるか、それは4年後のお楽しみ、いま自分自身が亡き友に誓った以上は、「やるしかない!」、この自分自身への約束事はすでに死を賭けているだけに気は楽です。

 

追悼・宗像善樹講師

 追悼
 宗像善樹講師を偲ぶ

      花見 正樹

 開運道講師で、咸臨丸と海軍提督・木村摂津守を主題にした長編の歴史文学を開運道ホームページに長期間にわたって連載させて頂いた作家の宗像善樹さんが令和3年12月2日の夜明け前、突然の呼吸困難で急死されたのです。
 真面目な人柄で6年前に旅先で腰を痛めて以来、自宅療養の傍ら執筆活動を生き甲斐に精一杯頑張った人生でした。5日のお通夜では奥方・信子さんの涙ながらの愛情溢れる感謝と哀悼の言三菱重工爆破事件 | 宗像善樹 | ノンフィクション | Kindle ...葉に送られて遠い黄泉の国に旅立ったのです。残されたご家族の悲しみをお察しすると、世間並みな慰めの言葉では足りるはずもありません。ただただ言葉もなく故人のご冥福を祈り、残されたご家族のご健勝を祈るばかりです。
 思えば私の人生でこのような辛い2年間は初めての出来事です。昨年の球磨川災害で鮎宿の主を失って以来、元電通の友人をはじめ米咸臨丸の絆―軍艦奉行木村摂津守と福沢諭吉 | 善樹, 宗像 |本 ...沢新聞の社長の急死と元東京支社長など3人の米沢新聞役員の死、宗像善樹さんとも縁があった同じ開運道講師で私の古い友人である三武義彦氏の急死など、訃報だらけで身が縮むばかりです。
 しかし、ここが私の正念場、私が受け皿にならなくて誰がなる、こう考えると身を縮めてはいられません。先立ちし友には不義理ですが、すぐには行きません。
悲しを乗り越えて毅然と生き抜いて参ります。これからも宜しくお願いします。

 

 

 

母を送る。

 

2018年1月17日(水)12時29分、母・花見スイは103歳5ケ月の波乱の人生をおだやかに閉じました。
病院からの電話で、母が入院中の加須市大久保病院に着いて私が手を握ると、母は力なく握り返したまま息を引き取りました。
痛みも苦しみもない穏やかな表情で静かな中にも見事な大往生でした。
医師の書いた死亡診断書には理想の死である「老衰」とあります。
病気のデパートのような母が「なぜ?」と聞きますと医師の答えは明快でした。
心筋症も肺炎も肝臓ガンも死には至らず死因は、食事も水も喉を通らなくなって死に至る「老衰」だそうです。
この老衰こそが人間の理想的な状態で、恍惚となった状態で死に至るそうです。
杖なしでも歩ける痴ほう症なしの要介護度1のまま、105歳と5ケ月での老衰死、これではお目出度くて涙も出ません。
確かに誰がどうみても赤飯炊いてのお祝いごとなのですが、私は母の寿命は105歳と思い込んでいただけに残念です。
しかし、つい3ケ月前までは杖なしでも歩ける要介護度1からの急な老衰死ですから、私には納得できません。
昨年の10月下旬、突然の尿感染症で39・1度の高熱で南栗橋の済生会病院に緊急入院、それが癒えて12月4日には療養型施設のある前述の大久保病院に転院するはずでした。ところがその転院日12月4日の朝、また39度を超える急の発熱で転院は取りやめ、それどころかほぼ危篤状態なのです。
主治医は慌てて原因究明に乗り出しました。
なにしろ、尿感染症は治っているのですから高熱の原因は他にあるのです。
そこで、肝臓ガンが発見され、そのために胆管閉塞で担汁の流れずに発熱に至ったと分かったのです。
主治医の言葉によると、このままだと母は確実に年内に亡くなります。
担管に管を広げるプラスチックパイプを挿入する手術をして溜まっている担汁を流せば発熱の原因は失せ一命はとりとめます。ただし108歳の高齢でもあり高熱で奪われた体に、口から管を入れる難手術に絶えるだけの体力が残っているのか疑問だと主治医はいいます。
しかも、私達兄弟の意思統一で母が苦しむような延命処置はしない、との話し合いが出来ています。
そこで、すぐ主治医からの紹介で実際にその手術を施行する内科医に会って説明を受けました。
その医師はきっぱり、「お任せください」です。そこで私の腹は決まりました。
形式として、家族の了解で万が一の時は医師に責任はない、との書類に捺印し、その日のうちに手術は行われました。
手術室から戻った母は痩せ衰えた蒼白な顔でぐったり死んだように眠り、声をかけても返事がありません。
その日は、なかば諦めましたが、翌日はこちらが驚くほどに元気を取り戻していました。
その後、再度の転院届けが認められて無事に12月20日に加須市の大久保病院に転院しました。
新天地に移って母は食欲を取り戻し、好物のカキイモ、ミカンを美味しそうに食べました。
そこで迎えたクリスマスでは、見舞に行った姪家族と一緒に車イスで、病院主催のパーティに出て皆さんと一緒に歌を歌いケーキを食べ、おおいに楽しそうだったと看護師さんからも聞きました。
その日を境に母は一日一日衰え、永眠する数日前からはお粥も喉を通らず水も飲めなくなっていました。
その様子で母の死期を悟った私は、母の亡くなる数日前に兄弟で予定した斎場を訪れ、大まかな打ち合わせをしました。
したがって、心準備が出来た上での母の穏やかな他界ですから、私自身も穏やかなのです。
なお、私が母の手術や危篤寸前の状態で病院や医師に提出した誓約書への署名捺印は5通、これもかなりの記録だと思います。
母が40代だった市川市国府台病院でのかなりの重症だった子宮ガン手術、松戸市一条病院での闘病時、南栗橋済生会病院入院時、同胆管手術、加須市大久保病院入院時、この5回の死の壁を見事に乗り切っての老衰死・・・私の手モミも多少は効果があったとしても母のすごさに言葉もありません。
と、通夜の挨拶で私が語りそうなことをここで書いてみました。
なお、火葬場が混雑していて葬儀が伸び、遺体は斎場の霊安室にあり、連日兄弟身内が交替で出入りして賑やかです。
葬儀は兄弟身内の家族葬で22日通夜、23日が本葬、喪主としてそれを終えたら一人で泣きます。
平成30年3月4日(日)快晴・・・それも雲一つない穏かな初夏のような暖かい大安吉日です。
この日、103歳5ケ月の大往生を遂げた母の納骨と50日祭を無事に済ませました。
1月22日(月)の通夜が関東地方では何十年ぶりという大雪に見舞われて一生忘れ得ない思い出となったのを、今日の晴天んはそれを補ってあまりある好日となりました。
わが国では葬儀といえば仏式が多く、神道での葬儀や納骨式は珍しいと思います。
我が家は神道ですが納骨に参列する機会も少ないため、施主ながら儀式もすっかり忘れていました。
通夜、葬儀以降、母の位牌と骨壺を朝晩拝んで暮らした日々もこれで終わりました。
納骨と50日祭を無事に終えて、何だか安心して荷が軽くなったような少し寂しいような妙な思いがしています。
本来、納骨蔡と五十日祭は別の祭儀ですが、最近では同時に執り行うケースが増えているようです。
神道では お墓のことを奥都城(おくつき)といい、その特徴は石柱の頭の部分が尖っていますあらすぐ分かります。
我が家は奥都城(おくつき)は都の字を使いますが、これは神官などを勤めた先祖がいる場合に使われ、一般信徒の家では奥津城と津を用います。ただし、これは地域差があるようで一貫性はないようです。
それにしても母の人徳なのか、今日も子や孫や曾孫や玄孫(やしゃご)ら配偶者を含めて47人の身内が墓前に集まり、和食屋での食事会も大いに盛り上がりました。
一族繁盛、健康長寿で・・・これも一族の長としての私の常套語になっています。
これをこのまま、開運村の関係者すべての人の合言葉にしたい思いです。
(注・以上の一文は、村長の一言から抜粋しました)

追悼・平尾昌晃さん。

 作曲家で元歌手の平尾昌晃さんが7月22日、肺炎のために死去しました。
享年79歳、若過ぎる死です。
若い頃の平尾さんは、ロカビリー全盛時代の超人気歌手でした。
一時期、肺疾患で入院生活を送り、その時から路線変更で歌手をしながら作曲家への道を歩み始めたのです。
平尾さんが世に送り出した曲は多数多くありますが、私の記憶にあるだけでも「グッド・バイ・マイ・ラ(アン・ルイス)」「よこはま・たそがれ(五木ひろし)」「瀬戸の花嫁(小柳ルミ子)」「霧の摩周湖(布施明)」「アメリカ橋(山川豊)」、それに、私と一緒に仕事をした頃、当時18歳だった畑中葉子さんとのデュエット曲「カナダからの手紙」などです。
フジTV事業局の企画で、平尾さんと私が一緒に仕事をしたのはお互いに40代のはじめ、大いに夢を語り合ったものです。
きっかけは、私がある会員制通販雑誌のモデル審査の仕事をしていたのと、フジTV「小川宏ショー」で、私の提唱する「心美人」と、当時から芸能人ご用達で著名な銀座整形外科の盛川院長の整形美人とのトークバトル番組の影響からです。
何度かの実践テストで、洋服や着物の販売にとって、商品以上にモデルが重要なことが明確になったのです。
通販雑誌の編集長のお気に入り超美人モデルを使うより、私が選んだ平均的な感じのいい女性の方が商品の売れ行きが遙かにいいという結果が出たのです。
しかも、着物や洋服だけでなく、身につけているバッグや時計、イヤリング、足元の草履や靴までも問い合わせが入るのです。 ただし、私は人相学ですから、日頃から柔和な「心美人」や、色彩感覚の良し悪しは本業が染色化学ですからOKですが、ファッションセンスは全くありません。商品の売れ行きがモデルによって左右されるとなると日頃からの着こなしなどファッションセンスも重油な要素になります。雑誌に載せる写真のために、商品を身につけてのモデル審査をしなければなりません。
ならば、ファッションセンス抜群で生きた洒落男そのままの平尾さんとのコンビでのモデル審査は?
このいい加減な企画が実行に移されて大成功、モデルさんの全員が華やかな中年イケメン平尾さんに笑顔で挨拶、ヤボな私には見向きもしません。それでも、人気絶頂の平尾さんと同額ギャラ(担当者談)ですから文句はありません。本当に楽しい仕事でした。
ともあれ、温かい人柄で気配りもよく、自然に身についた幅広い感性の上に努力で磨いた技が生きてのヒット曲の数々、平尾さんは偉大な作曲家でした。その死は本当に惜しまれます。
どうぞ穏やかにお休みください。心からご冥福をお祈り申し上げます。
花見 正樹

 
 

追悼 山中毅(つよし)さん!

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追悼 山中毅(つよし)さん!
2017年6月25日(日)、早大内・大隈ガーデンプレイスで「山中毅さんを偲ぶ会」を終えてきました。
早大卒の政財界、水泳&スポーツ関係者、友人など約150人ほどの賑やかな会でした。

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山中さんは、昨年11月、入院する前に這うようにして私に会いに来ました。
好きな酒にも寿司にも手をつけず、仲間が帰って二人だけになって語り尽してタクシーで帰りました。
その数日後に入院してから帰宅することなく、この2月に還らぬ人になりました。
山中さんが、最期に会いたかったのが私だった、と聞いて私の心は今も痛みます。
では、私と山中さんとの縁を振り返ってみます。
ここには、小林、太田、渡辺、山中、花見の5人が絡みます。
私の親友が小林永周さん。
その友人が故太田勝(まさる)さん。
太田さんの水泳部の後輩が故山中毅さん。
山中さんが唯一頭が上がらない人が、この平泳ぎのアジア・チャンピオンだった大田勝さんです。
その太田さんと山中さんの早大水泳部マネージャーが渡辺太郎さん。
私のフジテレビ出演時の担当ディレクターが小林さん。
太田さんはフジテレビ・プロ野球ニュースのディレクターでした。
太田勝、渡辺太郎さんと私の三人は、遊び仲間でもありました。
さらに、私は中央公論社の婦人公論連載執筆者で、渡辺さんは中央公論社社員、仕事仲間でもありました。
その上、 山中さんと私は、元中日ドラゴンスの中心打者だった江藤慎一氏と三人で、少年野球育成の会をやった仲です。
太田さん、小林さんと私の三人はゴルフ仲間でもありました。
こんなゴチャゴチャした人間関係ですから、いつの間にかお互いにツーカーです。
山中さんは、私より3歳下の1939年1月18日に石川県輪島市で生まれています。
1956年のメルボルンオリンピックには、石川県立輪島高3年生で出場しました。
その時は、400m自由形と1500m自由形の2種目で銀メダル、800mリレーで4位でした。
1957年に早稲田大学に入学、大學4年の1960年ローマ大会では、400m自由形と800mリレーの2種目で銀です。
1500m自由形は残念ながら4位入賞に終わっています。
1964年の東京大会では、400m自由形で6位入賞、3度のオリンピックで銀4、出場全種目入賞です。
1959年に日本スポーツ大賞、第一回小野梓記念スポーツ賞に輝いています。
さらに、1983年には「国際水泳殿堂」入りしています。
時々、なんで山中さんは、死を予感した時に私と会いたくなったのか不思議に思うことがあります。
男には男しか分からぬ友情がある、とか聞いたことがあります。
好漢、山中毅よ。安らかに眠れ・・・すぐには行かぬがいずれは再会になる。
その時はまた、語りあかそうぞ! 花見 正樹

月夜の天使   村山恵美子(故人) 

月夜の天使
村山 恵美子
東の空から大きな満月が昇りくる。山の頂からぼんやりと頭を出し、西に沈んだ太陽の明かりを映し薄紅色に染まり、やがて白色に変わる。白く変わる時を今か今かと待っている者たちがいる。
あの白くぽっかり浮かんだ月は天空の出入り口。そこから、蔓で編まれた縄ばしごがスルスルと下ろされ、背中に小さな羽を付けた飛び方も下手な幼い天使たちが、キャッキャとはしゃぎながら舞い降り一目散に我が家へと飛ぶ。
それはこの世に生まれ、わずかな時間しか生きられなかった子供達だ。病で逝った子、事故で逝った子、魔の手に命を消された子……まだまだこの世にいたかった子供たちが、愛情を求め、月が夜空にある間、母のベッドにそっともぐり込み、つかの間ぬくもりを感じ、羽を休め、また天に昇る。
天使たちには決まりがあった。一つは、決して母を起こしてはいけないこと。もう一つは、月が夜空にある間に戻れなければ、この世からもあの世からも存在は抹消されてしまうことだった。2度と母の元に行くことができなくなってしまうのだ。
明るくなると戻れなくなる子供達はタイムリミットが迫り、1人また1人と急いで戻ってくる。
「あいつ来たか?」
「まだだよ」
「またかよ。こないだも遅かったよなあ」
「仕方ないよ。あいつまだ赤ん坊だから」
オサムとケンが目を凝らし下を覗き心配していた。……来た! 下界に小さな天使がよちよち歩きで現れた。羽をパタパタしても力が足りないのか飛び立つ事ができずに、悲しそうな顔で途方に暮れて見上げ泣いている。
「しゃーないなぁ。行ってくるか」
「うん」
慣れたお兄ちゃん天使二人が、急降下して泣き虫の飛べない天使を迎えに行った。
「ほら、早くしろよ。みんな消えちゃうだろ。もう連れてきてやんねーぞ!」
「だって……」だってじゃねーよとケンが抱きかかえ飛び立った。時間がない。慣れているとは言っても、どっちも子供だ。抱っこして飛びきれるほど力はない。一緒に降りたオサムが、重量挙げのように万歳をして「ふぅーーん!」下から持ち上げ、力の限り羽ばたく。千切れた数枚の羽が遠ざかる下界に落ちて行った。
「もう泣くな。また連れてきてやるよ」
涙を拭いてやるケンに、しがみつく小さい天使はしゃくり上げながらコクッとうなずいた。
薄紅色の満月が白色に変わる夜。あどけない天使たちが飛び、母の温もりに抱かれて眠っている。起こさぬように気付かれぬように「おかあさん」と、そっと心の中で呼びかけながら……。

松岡隆一画伯、追悼の辞

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秋田県鹿角市の著名画家・松岡隆一画伯が、この十月にご逝去されていたことを知りました。
 私と松岡画伯とは深い因縁があり、私の人生にも少なからず影響を及ぼしています。
 松岡画伯の絵には、私の魂を揺さぶる霊的な力が漲っていて、心が洗われる思いがします。
 哀しく切ない出来事で心からご冥福を祈りながらも胸が痛むばかりです。
 その胸の痛みの原因は、画伯との約束を未だに果たしていないことにあります。
 その約束反故とは、このHP内・花見正樹作品集にある「縄文幻想」の上梓です。
 ここには、第一章から第十章までの扉画として画伯が三軌会美術展出展のニ百号の大作が勢ぞろいという圧巻です。
 これは、私の三大贅沢の一つで、挿し絵作家・村上豊画伯挿し絵、ッシャンソン歌手・芦野宏画伯の挿し絵に並ぶ著作です。
 しかも、他のお二人が絡んだ著書は全国書店発売なのに、「縄文幻想」だけは未だに陽の目を見ていません。これでは松岡画伯に、あの世で近く再会するにしても謝罪だけでは済みません。ここは20年以上もお蔵入りだった「縄文幻想」に新たな情報を加えて、是が非でも出版に踏み切らねば顔が立ちません。
 と、先日、画伯のご遺族と改めて約束したところです。
 松岡画伯の次女が私の事務所で短期間働いていたことがあります。その娘さんがサンミュージュックに移籍して、新人歌手・松田聖子の後援会を立ち上げたこととほぼ同時に、ソニーミュージックから私に「松田聖子売り出しキャンペーン」への協力依頼が入りました。そこで、スタッフの協力の元に、「松田聖子とあなたの相性」というスフトを作成し、聖子のレコード購入者に相性データのプレゼントをする企画を実施し大成功をおさめました。
 その後、松岡画伯の次女の結婚式に招かれサンミュージックの社長や松岡家とのご縁も深まり、鹿角にも通うことになりました。
 その鹿角市には、縄文時代に祭祀に用いられた日本一の環状列石(ストンサークル)が二基あり、毎年夏の二日間だけの「縄文祭り}が行われ、私もゲストに招かれ、イベントの審査員などもやらされていました。そこの古代歴史記念館の館長・大里勝蔵氏とはとくに親しく交流していましたが最近体調不良と聞き心配しているところです。当然ながら、この館長も松岡画伯共々小説には主役級脇役として登場して頂いております。
 以上、あれやこれやのご縁で当時の市長とも交流が続き、皆さまに「縄文幻想」を読んで頂いておりました。そんなさ中での松岡画伯の死は私にとって大きなショックですが、これによって「縄文幻想」出版の覚悟が決まりました。
 これが実現したら松岡画伯の御霊も安堵できると信じて、心からご冥福をお祈り申し上げます。
 

平幹二朗、岩佐豊さん逝く

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 去る10月22日、俳優の平幹二朗さんが死去しました。
 死因は、暖かい部屋から突然気温の低い浴室に入って、さらに熱い湯にすぐ首まで浸かるなど「ヒートショック」と言われる、急激な温度変化によって血圧が変動して、心筋梗塞や脳梗塞などを引き起こす現象による死亡と見られています。血管が詰まったり破れて脳出血などを引き起こすこの現象は、これから2月頃までの寒い季節に風呂場やトイレで多く起こり、65歳以上の高齢者に多く、年間1万人以上が亡くなっているそうです。この対処法は、浴室と居間の温度を同じにするよう心掛ける、これが一番いいほようです。
 平さんは1933年の82歳、佐久間良子さんと結婚しましたが、その佐久間さんは以前から鶴田浩二さんと熱愛中で結婚後も不倫を続行していたことを離婚後それを知った平さんは、例のギョロ目をさらに見開いて「へー」と驚いて絶句したそうです。
 俳優としての活動期間は63年の長期に渉り、映画では、三匹の侍、樅ノ木は残った、国盗り物語、花の生涯、新選組始末記、天城越えなど、演劇やテレビドラマでは数限りなく活躍していて、紫綬褒章、旭日小綬章などの栄誉にも輝いています。
 テレビドラマや映画で私の印象に残っている役は、篤姫の調所広郷役、新選組始末記の近藤勇役、源義経の後白河法皇役、剣客商売の田沼意次役などですが、とくに天保水滸伝の大原幽学役は、私の執筆ライフワークの一つが「大原幽学」ですから特別な思い入れがあります。
 この開運村HPの花見正樹作品集に「大原幽学」第1巻だけが載っています。宜しければご覧ください。必ずいずれは出版します。
 平さんは、近藤勇も演じ、近藤勇の出身地の府中にも住んだことがあります。
 私も新選組を書いていて、府中市在住の知人から新選組&近藤勇に関する貴重な資料を頂いています。その資料や平さんの演技から得たヒントなどを生かしての「新選組・残照」という小説を来春、右文書院から発刊します。これも上記と並んで連載中です。
 この府中在住の知人・岩佐豊氏が、平さんと相前後しての逝去、お別れ会が11月のある土曜日にあるのですが、残念ながらラジオで「土アサ(山口放送)」なる番組を持っている私は出席出来ません。岩佐氏は経済誌でお馴染みのダイヤモンド社の元社長です。
 私は、同社創立者・石山賢吉翁の懐刀と言われた棚村浩三老と親交があり故石山翁の自伝を書かないかと言われたり、同社に招かれて講演をしたこともあり、岩佐氏とも30年以上前からの交流でした。
 私の執筆に多少なりともご縁のあるお二人のご逝去に接し、心からご冥福をご祈念申し上げます。

アリよ、安らかに。

 
 
 
 
ライオン
アリ
アリよ安らかに
「我こそは世界一!」
格闘技の世界で異才を放っていたモハメド・アリが亡くなりました。74歳、一生を戦いに捧げた人生でした。 ベトナム戦争への徴兵を拒否して世界タイトルを剥奪され、それをまた実力で奪還したこともありました。
パーキンソン病に苛まれ乍ら五輪の点火台に立った悲壮な雄姿、倒れるまで社会奉仕を續けた男の生き様、アリは正しく金メダル男です。
モハメド・アリは、百獣の王のライオンの豪快な強さと豹のような華やかで軽快な躍動感のある戦士で、恐れる者など何もないと思えたのですが、アントニオ猪木との異種格闘技戦後、「怖かった」と言った言葉が印象的で好意を持てたのを覚えています。
つい最近、6月3日(金)夜、私の好きなテレビ番組(CS/アニマル・プラネット)のドキュメンタリー映画で凄惨な惨劇シーンを見て戦慄しました。間違っているかも知れませんが、英国BBCかどこかの撮影スタッフが何年もの歳月をかけてライオン王国の生態を撮った作品ですから迫力があります。
要点だけを描写しますと、舞台はアフリカの野生動物自然公園での出来事です。多少の記憶違いはご容赦ください。
物語は、6頭の雄ライオンが自分達の王国を創る話から始まります。若い元気で強い雄ライオン兄弟の6頭は力を合わせて縄張りを広げます。中でも兄弟の末っ子(仮にTとします)が一番凶暴で、あらゆる敵に真っ向から立ち向かい6頭兄弟の無敵の進軍の先駆けを勤めます。
彼らは親から譲られた居住区に隣接する他のライオン王国を襲っては殺戮を繰り返し、約八倍にも及ぶ広大なテリトリーを得て推定110頭の雄ライオンとの死闘でそれを殺戮し、その子供ら数百頭を殺して食べ、多くのメスと豊富な狩場を得て、自分たちの子孫を残すべく奮闘します。画面は、その過程で起こる凄まじい他のライオン軍団との戦闘や獲物狩りシーンに加えて、6頭の兄弟が並んで池の水を飲むシーンなど兄弟愛の絆の強さを知らされ、観客である私も徐々にこの6頭のライオン王国に感情移入されて行くのは、自分自身が男ばかり5人兄弟で育っているだけに仕方ありません。撮影スタッフの思い入れもかなりのもので、映画の中心は当然ながら長男でリーダーのMを中心に物語は進みます。
多数の雌を従えた6頭の頑強な雄ライオンの君臨する強大なライオン王国の誕生は、過去に例を見ないことだそうです。このための被害で野性のライオンの数が激減していますが、これも成り行きで仕方ないのです。このライオン王国の確立でドラマは終わるはずでした。ところが、スタッフの予期せぬ事態が起こって撮影は続行せざるを得なくなりました。
6頭のうち一番下の弟のTが長男のMにボス争いの戦いを挑んだのです。
草原を血で染める激しい戦いの末にTは破れ、すぐ上の兄(仮にN)と二頭で、すごすごと仲間から去ってゆきます。6頭で得た広い土地の西北を下の弟二頭NとTが、東南を長男のMから四男までで分かち合います。
これがまた不思議なことにMの居住区の東南には他のライオンの居住区がなく、NとTは奇しくもM達の外堀を守る役割になっていて、どう考えても話し合いでそうなったとしか思えないのです。この分裂が何を意味するかはスタッフにも分からず、予想外の出来事にひたすらターゲットをTとMに絞ってカメラを回し続けるしかありません。
ここから起った出来事は、撮影スタッフの全く予想だにしなかったことです。
まず、スタッフの全く情報のないTとNの居住区の北側の草原に密かに5頭の若い雄ライオンの群れが育っていたのです。
その中の一頭が獲物の豊富なTとMの居住区に侵入して偵察を始めました。
雄ライオンは、自分たちの縄張りを示すために尿で木の幹にマーキングをします。そこに侵入して新たにマーキングをするのは宣戦布告に他なりません。広い土地を巡察しているNがそれを見つけて待ち伏せし、激しい戦いの後にその一頭を殺します。
それを知った北の居住区の凶暴な若い4頭が直ちに報復に殺到し、4対1の激闘が始まります。それは夜まで続き、撮影班のライトの光の輪の中で凄惨な殺戮が始まります。脚を噛まれて動けないNの背骨の折れる音や腹を食い千切られる血がしぶく光景は凄まじく、さらに凄いのは瀕死の重傷を負いながらもNが牙を剝いて敵に立ち向かう悲壮感漂う闘魂です。そのうち、遠くにいて何故これを知ったのかTが駆け寄って再び4対1の激闘になります。Tは死にかけたNの体を庇うように牙を剝き低い唸り声を上げて4頭を威嚇して鋭く噛みつき爪で応戦しますが、多勢に無勢で体中に傷を負って次第に追い立てられ戦場を離脱します。4頭の目的はNに対する報復ですからTを深追いしません。 新たな王国の4頭は、Nの喉を噛み切ってから揃って夜空に向って高らかに大きく長く勝利の咆哮を繰り返しました。
スタッフによると、これはライオンが敵から縄張りを奪った時に吠える勝どきだとのことです。
こうして、Mを中心に長い年月をかけて築いたライオン王国の半分が全く見知らぬ新興国に奪われたのです。
それだけではありません。なんと、戦いに敗れたTが兄たちの王国に戻って仲間として受け入れられたのです。
これは驚くべきことで、一度去った仲間は二度と受け入れないのがライオン社会です。しかし、ライオン寿命が最高15歳中すでに12を過ぎているMには、再びTとリーダー争いをする気力がなかったのです。他の兄弟も同様で、10歳とはいえまだまだ血気盛んなTには逆らえませんでした。Tは群れに君臨すると、当然のように王国の子供達を食い殺し始めました。当然ながら母親の雌ライオンは団結して子供を隠しますが、Tは次々と子供を探しては殺戮を繰り返し、その魔手から逃れたのはほんの数頭の雌と子ども達でした。
かくしMの王国は末弟のTに簒奪され、同時にTの縄張りを奪って隣国になった新興国との闘いに備えねばなりませんでした。
そのうち、Mの弟ライオンが一頭また一頭と姿を消しました。撮影スタッフは、隣から侵入した新参者に殺されたと見ています。これで、相手は若くて闘争心旺盛な4頭、こちらは老練とはいえ体力の衰えた高齢の2頭、勝負は戦う前から見えていました。ここは尻尾を巻いて逃げるが勝ちです。しかし、さすがに旧王国を乗っ取ったTのプライドが撤退を許しません。兄のMを差し置いて単身で自分から若い4頭に立ち向かって戦いを挑み、最期の呼吸が止まるまで戦い続け、全身の骨も肉も引き裂かれ4頭に食い荒らされてその数奇な一生を終えました。
戦いに気付いたMが戦場に駆けつけた時はすでに戦いは済んでいましたがMもまた敢然と4頭に飛びかかって激しく戦って玉砕してTと同じ運命を辿りました。
その凄惨な戦いを恐怖におののきながら望遠で撮り続けた撮影スタッフは、お互いに声もなく沈んでいました。自分たちがMの王国を撮り終えた時の感激と、それからのハプニングの大きな心のギャップを埋めることなど出来るはずもありません。私自身、身が竦む思いでこの番組をみていたのです。その翌日、撮影スタッフが現場を訪れると、ハイエナ、コヨーテ、禿げ鷲などの奪い合いで、草原の王者として君臨したMとTの兄弟の雄姿はすでに骨と皮にバラバラにされ、Tの黒いたてがみを加えて逃げ去るコヨーテが象徴的えした。
ラストシーンに、一頭の雌ライオンと数頭の子ライオンの姿がありました。撮影スタッフの推測ですが、子供は6兄弟の長男・Mの子で、Tの魔手から逃れて密かに自分達の小さな縄張りで暮らす強い母ライオンの庇護の元に育てられているらしいとのことです。と、なると、いつの日か、この子達が逞しく成長し、あの広大なMのライオン王国を占拠した新興国の雄ライオンに戦いを挑む日が来るに違いない。私はそう信じて、テレビを消して仕事に戻ったのですが何も手につきません。そこで、暫くは音楽とコーヒータイムにして気持ちを癒すことにしました。ちなみに、私の好きなスクリーン・ミュージックの中に「黒いオルフェ」もあります。今は何故か、その映画と音楽から、純粋な少年たちの憧れの的だったオルフェと、モハメド・アリの二人のイメージがピタっと重なるのを感じ、さらに、遠い地の果てから黒いたてがみを草原の風になびかせた勇壮な雄ライオンの戦闘への咆哮がかすかに聞こえて来る気配を体感じています。

追悼・蜷川幸雄さん。

マクベス
この5月12日(木)、日本を代表する演出家の蜷川幸雄(にながわゆきお)さんが都内の病院でお亡くなりになりました。死因は肺炎となっていて行年80歳、私と同い年、健康ならまだまだ活躍できた年齢だけに残念でなりません。
私の年代であれば、演出家として成功する前のテレビドラマ「事件記者」などでの地味な俳優時代を知っている人もいるはずです。
蜷川作品の芝居を初めて見たのは日生劇場での「ロミオとジュリエット」、次が「マクベス」でした。それからはシェークスピアものだけは結構観ています。
「ハムレット」「ロミオとジュリエット」などで藤原竜也が出ていたのは後で知りました。蜷川さんは藤原竜也の他にも宮沢りえ、西島隆弘、吉高由里子ら多くの役者を育てています。
蜷川さんは、現代劇から日本の古典、ギリシャ悲劇やシェイクスピア、さらにチェーホフなどの海外作品まで幅広く手がけて活躍、文化功労者、文化勲章を授与されて世界のニナガワ”と呼ばれるようになっています。
稽古では俳優に厳しく、罵声を浴びせたり靴や灰皿を投げたりしましたが、それも演出だったという説もあります。
それにしても、近年はますます奇抜で画期的な芝居が多く、「下谷万年町物語」「盲導犬」「火のようにさみしい姉がいて」「海辺のカフカ」「元禄港歌」など宮沢りえを登用した舞台が成功していたような気がします。
私は、この蜷川演出の醍醐味は「真剣勝負」にあり、その死は死力を尽くした戦いの末の壮絶な戦死とみています。
終戦を小3で迎えて餓えた少年時代を過ごした同学年の天才演出家の死は、私にも大きな刺激を遺しました。
これで得た教訓は「私も燃え尽きるまで!」、蜷川幸雄さんのご逝去に心から哀悼の意を表します。