命の大切さ!

今日は、川崎の中学生が遊び仲間に殺された事件をニュースで取り上げていました。 少年法の壁がありますから、犯人グループの名は出ませんが「極刑に処すべし」との思いがあります。
私の中学氏時代も仲間割れやグループごとのケンカはありました。その場合、例えば学期始めに5対5で、1から5番まで取り組みが決まっていて、素手の殴り合いです。 ケンカは、どちらかが「参った」というまで続き、3勝したグループが勝ちで勝負は決まりです。 A,B,Cと3グループ対向で2試合を戦うこともあり、終わるともうヘトヘトでした。 こうして勝ったグループがその学期の天下で、何でも優先、あんな楽しいケンカが出来た時代が懐かしく思い出されます。
今は、殺伐とした陰湿なリンチでの殺しで、しかも多勢に無勢ですからケンカではなく単なる殺人です。
これでは、やたらにケンカも出来ませんし、こんなことで尊い命を失うなんて何ともやりきれません。
人は誰でも必ず死を迎えます。ならば、生きている間ぐらい、価値ある生き方をしたいものです。
価値ある生き方を・・・ただ、この人それぞれの死生観には大きな違いがあるようです。 その違いはどこから生まれるのでしょうか?
ごく最近頂いた日本文芸学院文芸仲間からのメールから抜粋します。
”数日前、自分が死んだ夢を見ました。切腹をしなければいけなかったようです。それを思い出し、畳の部屋に正座をしました。切腹にしては刀もナイフもありません。でも、正座をし、目を閉じて「その時」を待ちました。介錯人はいませんでした。それも不思議なのですが…、ある瞬間、「ばすっ」という音を聞きました。同時に、私
の首が正座する私の前に落ちました。「あれ、血が一滴も出ていない。介錯人ってやはり上手なんだ」、そんなことを思っていました。痛みも悲しみも乱れもないのでした。
夢はそれで覚めました。
「死の予兆なのかな」と、暗く重い気持ちで考えました。もう少し生きていなければならないので…。エッセイをもっと書きたいし…。
ネットで検索しましたら、やはり「死の予兆」だと書いてあります。また、仕事が行き詰まって抜け出そうとしている状態とも書いてあります。兄弟や友人に話しても一笑に付されるでしょうし、他人の悪夢に付き合ってくれるひともいなでしょう。人生をしっかり歩かれている先生に語ることで、私の気持ちの重さが軽減できるのでは、と思いました。こうして語っていながら少し気分が軽くなる思いをしております。
申し訳ございません。長メールになりましたが、このままお忘れください”
これに対する私の返信です。
”この程度の夢でビビってはいけません。時代物や推理小説を書いている作家は、頭の中でかなり人を殺しています。当然の報いとして夢で戦いに巻き込まれて殺されたり、復讐されて惨殺されたりします。その夢で見た修羅場はつぎの作品に生かせますから、その夢がリアルで恐ろしいほどウェルカムです。私は拳銃で頭を撃ち抜かれて脳漿が噴き散ったり、日本刀で突然背後から首を刎ねられたりします。飛び散った血の海の中の首だけの自分が、血の海の中から斬った相手を睨んだら、なんと、知人だったりします。したがって自分が死んだ夢など数えきれません。私の著書に「この一冊で夢占い師になれる」があります。その中で、私は枕元にメモ用紙を置いて夢日記を書いていることを告白しています。ただし、重要なヒントがある夢以外は書き留めません。この中でも殺される夢はイヤですが参考になります。私はいつも殺されると、「ああ、これでお終いか・・・」と、そこで人生を諦めます。目が覚めると、「あれ、生きてた!」と、何か大きな儲けものでもしたみたいに周囲を眺めて、一人密かに生きている喜びを噛みしめています。これは、夢を見た時だけではありません。私にとって、眠ることは死ぬことです。朝の目覚めは死から蘇生した生き返り現象ととらえています。だから毎日が新鮮なのかも知れません。
万が一、家人に見られたら困る夢・・・っ艶夢もあるからです、私は今79歳、ゴールが近づいていますので、私の死生観を遺そうと思い立ちました。それが、この「曼珠沙華」です。きっと、これを読んで頂ければ、人は誰でもいつかは死ぬ、という必然をごく普通の日常生活の一コマとして受け入れる、死を迎えるにあたっての心構えが出来るようになるはずです。

母の入退院騒ぎです。

先週からの続きで、母の入院騒ぎについまた触れます。 まず、2月2日から3日にかけての深夜に心不全で呼吸困難になり救急車で病院に運ばれ、医師からは危篤状態だと言われました。兄弟身内の何人かを病院に呼びました。100歳と6ケ月の母親が点滴で酸素吸入、医者も見放すのは無理もありません。保護者の私はその都度、医師から出された死亡時同意書にサイン捺印、もう何度目か忘れました。医者も騙されるぐらいですが、これは家族にとって嬉しい誤算です。オオカミ少年のたとえ話から考えて、次回の緊急入院時んは、弟達に連絡しても駆けつけて来ないような気もします。 今回の病名は、心不全と肺水腫、レントゲンで見ると心臓にまで大量の水が溜まっていました。 医師の治療計画は「利尿剤などで体に溜まった水分を排泄し、心臓の負担を軽減、心臓に溜まった胸水が減るまでは必要に応じて酸素投与を行うというものです。これが医師の推測を超えた順調さで推移し、一昨日の19日(木)またまた無事に退院、浮世に帰還です。今、ニコニコしながらテレビを見ています。と、危機を孕んだ世界の趨勢とは無縁に、我が家はひと時の平安をむさぼっています。もう無理、そう思いながらも必死に無事を願っている自分がいます。こうして、つねに母の大往生と向き合いながらも、あと4年半で母・105歳の誕生祝いです。 その時、自分はこの世に? こればかりは成り行き任せ・・・これが天意です。

バレンタインデー

バレンタインデー
小学生の孫からチョコのプレゼント、嬉しい出来事です。
今日、14日は土曜日、恒例の山口放送ラジオで当然ながらキャスターからは、バレンタインデーの話題が出ます。
私はせいぜい孫からの贈り物で逃げたいところですが、あれこれ話題が盛り上がって私の締めの挨拶に入ります。
「さて、今日から一週間共通の一言は、チョコの効果は気にしない・・・上げても貰ってもチョコの話題はこれで終わり!」
インフルエンザが下火になったら、杉の木の花粉シーズンがやってきますね。
これも、かなり厄介なものです。私の築地サロンでは、花粉除去機を購入して24時間稼働にしました。おかげで来客から好評です。
最近、周囲の親しい友人知人で体調不良を訴える人が多く、何だか医者知らずの私が肩身が狭い思いをしています。
2月3日(火)深夜、100歳の母が心不全で呼吸困難になり、救急車で近所の済生会病院に緊急入院しました。
100歳を超えていると弟達も達観していて「万が一のことがあっても仕方ないよ」ともう誰もが諦めています。
すぐ、医師に呼ばれ「心臓に水が溜まっているが手術は体力的に無理、高齢でもあり、いつ発作が起きるか分かりません。お気の毒ですが万が一を考えて・・・」で、”死亡しても病院に責任はありません”のような内容の書類にサインして印鑑を押します。またまた酸素吸入と点滴、タンが絡んだ荒い息で死んだような表情、いつ心臓が止まってもおかしくない状態であるのは間違いありません。私が母の最期を覚悟して捺印したのは、これで3度目、もう慣れっこです。医師の助言もあって弟達には「病院に見舞いに」と連絡して、一目だけでも生前に顔を見せてやろうとの兄心です。
ところが、昼間、私が築地の事務所で仕事中、すぐ下の弟、といっても10歳違いの弟からの電話です。
「いま夫婦で病院に来たけど、死にそうもないんだけど」
なんだか怪訝な様子で、いかにも私と医師が結託して大げさに騒いでいるのではないか? との不信感がありありです。
「変だな?」、たしかに前の晩に見た時は死にそうだったのです。
さっそく、その夜、仕事を終えてから病院に駆けつけると、母は死んだような表情で目を閉じ、酸素吸入のマスクが外されています。
とうとう医師も諦めたのか、こう思って母の手を握ってみると、まだ手が温かいのです。
「まだ生きてる」、何だかホッとしたところで母が目を開けて私を見つめて口を開きました。
(遺言かも?)、心構えは出来ていますが、やはり緊張します。
「この部屋はテレビはないのかえ?」
これが第一声です。とんでもないことです。救急車で運ばれて死ぬの生きるのの患者が言うべき言葉ではありません。第一、緊急患者専門の部屋を用意してくれた病院の皆様に失礼です。思わず「シッ!」と口を塞ごうとしましたが、それで窒息死したら私が高い塀に囲まれた鉄格子入りの狭い部屋に入院しなければなりません。長い介護生活ですから、この場の処方箋も心得ています。すぐ病院の売店に行って週刊誌を買い求めて手渡すと、それで大人しく本を少し読んで満足したように眠りにつきました。
ただ、ナースセンターに挨拶して帰るとき、週刊誌を与えたことを言い忘れてしまいました。
翌日の夜、寄ったら週刊誌は忘れ物として保存されていました。
母の生態を知らない看護師は、まさか瀕死の重病人が”週刊誌を読む”など考えてもみなかったと思います。
こうして週刊誌は無事に母の手に戻ったのですが、また事件です。仕事中の私に病院から電話があり、母が死ぬか生きるかという表情で荒い息をしながら「トイレに歩いて行く」と言い張るのだそうです。家でも、デイサービスから宿泊まで世話になる地元施設でもそうでしたから仕方ありません。看護師が運んでくる車付きのオマルやおむつでは無理なのは分かりきっています。母は死ぬまで人間の最低限の尊厳を守りきろうとしているのです。もっとも、それを習慣づけたのは介護無知の私ですから罪は私にあります。
なにしろ、病院のマニュアル通りに患者に接している生真面目な白衣の天使も、この死に損ないの重病人にはかなり手こずっている様子が窺えます。なにしろ、ぜいぜい酸素吸入をしながら苦しそうに手をあげるから、看護師が慌ててマスクを外して耳を口元に当てると母が虫の息でこう言ったそうです。
「そろそろお迎えですか? いつごろですかね?」
これこそ、看護師泣かせの悪い冗談なのですが、本人は全く気にもしていないのです。
こんなことが続いて悪い予感がします。
案の定、12日(金)の昼間、病院から緊急の呼び出しです。
「とうとう母のご臨終か・・・」
3人いる弟達は、私にゲタを預けた5年前から母の死に対する免疫は出来ていて、何を言っても驚きません。
それでいて母105歳の誕生祝の会場として幸手市の温泉施設の大広間をすでに仮予約しているのも弟達ですから呆れます。これだと何としても105歳までは私が必死で生かさねばなりません。もっとも、これだけ先のことだと温泉施設でも解約したからといって違約金を寄こせとは言わないはずです。しかし、私としては違約金を取ると言ってくれれば、その僅かな違約金惜しさに母親の延命を必死に考える、というケチの理屈が成り立つのです。
それが、突然の病院からの呼び出しで105歳の夢がフイになる・・・ともあれ、来客一人を断って病院に駆けつけました。
相談室に集まってたのは主治医、介護婦長、担当介護士など5名ほど、どなたも真剣な表情です。
いきなり、主治医が口を開きました。
「本日は退院の相談です」
やはり? 死期が近いから畳の上で?
これは、5年前に私が千葉県松戸市の病院に入院していた母に使った手です。
当時、母の危篤を伝えられて親族が集まり、病院でも臨終近しとの宣告を受けた時です。
母を我が家の畳の上で看取りたい、その一心で死に体の母を車に乗せて帰って来たのがそもそもの発端です。
早世した兄に代わって7年間、母の面倒を看てくれた兄嫁もギブアップしていて私が母を引き取るのを黙認してくれました。
その時の要介護度5が、今は要介護度1、そんな母を今回の病院と医師は見捨てませんでした。
「これを見てください」
レントゲン写真を見ると、心臓の30%を占めていた水の影が、なんと10%ほどに減っているのです。その医師が打った手がドンピシャリ成功した事例です。医師は、手術は無理だから利尿剤の服用と、飲み水1日500CC以下、「これを続けました」とのことです。
食事も平常の半分ほどまでに回復しているし、リハビリに歩かせてみたら、よく歩いたそうです。
早速、出入りの施設に連絡をとったところ、部屋の準備が出来次第連絡するからデイサービスなしの「入居に切り替えます」、との親しいケアマネの助言です。やはり、年齢からみて医療と介護の24時間体制が必要だから・・・が、その理由です。
”雨降って,地固まる”、なんだか今回の母親の入院騒ぎは、私に大きな時間をプレゼントしてくれたようです。
おりしも今日は聖バレンタインデー、母親からの嬉しい贈り物のような気がします。

私の寿命活用法

人生を楽しくたたむ開運法
「有難う、楽しかったよ」と笑顔で別れを!
270209
その1、私の寿命活用法
月日の流れは速いもの、”光陰矢の如し”はまさしく実感です。
”少年老い易く”、野山を駆けめぐり川で魚獲りに興じた悪ガキだった私もすでに79歳になりました。
”学成り難し”、全くその通りで、何の言い訳もありません。無為に年を重ねました。
日本人男性の平均寿命は80、21歳(女性は86、61歳)、あと1年が私の本来の寿命です。
ただし、80歳まで生きると平均余命が約8歳(女性は11、5歳)ありますので、1~9年間が私の持ち時間となります。
最短の1年と最長の9年では、計画も生き方も楽しみ方も大きく変わります。
あと1年の場合は、この夏あたりまでに仕事も交友関係も浄く幕引きをして、悔いのないようにしなければなりません。
いや、夏までだと初秋の大鮎釣りが出来ませんから、秋まで延長して11月に整理することにします。
あと9年生きるとしたら、まだ今のペースでのんびり推移しても大丈夫ですが、自信はありません。
そこで、平均寿命と平均余命の折衷案を考えました。
すべての社会的な行動を、4・5年後に打ち切ることにします。
この一文を見た人は、私に多少でも利用価値があると思われましたら、この期間に私をフル活用してください。
そのかわり、どのような交流があろうと2019年の夏までです。
この文章を見ることのない友人知人には、口頭で伝えることにしています。
ところで、運勢学でみた私の天運は、100年年運表では83歳、これから見てもあと4年はあります。
と、いうことはあと4シーズンも大鮎を釣るチャンスがあるのですから心が躍ります。
右脚ブロックという心臓病を抱えながら駆け抜けて来た人生も、この鮎釣りが済んだら幕引きにします。
鮎の釣り人は、土手に咲く真っ赤な曼珠沙華の群落を見て落ちアユの季節が来たのを悟って一人涙するものです。
熊のような髭だらけで真っ黒に日焼けした大男が、土手に停めた4駆の運転席で目頭を拭っているなど絵になりません。
私は、今までに何度も同じようなシーンを見てきました。これは他の趣味でも同様のケースがあるような気がします。
1年で寿命が尽きるために”年魚”とも呼ばれる鮎は、曼珠沙華が咲く頃、三々五々海に落ちてゆきます。
これを機に激流から鮎の魚影が消え、翌年の晩夏の大鮎の季節まで虚しく寂しい空蝉の気分で過ごさねばなりません。
そして今、まさに私にとってその季節、ならば初夏の若鮎で・・・その気がないから困っているのです。
鮎の解禁は6月・・・私は鮎釣りシーズンの終期になってから竿を磨いて大鮎釣りの準備を始めます。
あと一尾、たった1尾でいいから尺鮎(30・3センチ)を! これが唯一の具体的目標です。
なにしろ、ここ4,5年は29センチ止まりで悔しい思いをしていますから心は逸っています。
なんだかチグハグな人生ですが、これはこれで楽しいのですから仕方ありません。

釣り人の大往生ー那賀川編

釣り人の大往生-那賀川
(外野村晋さん最後の舞台)
花見 正樹
かつてNHKの人気テレビ番組「事件記者」の熊さん役で親
しまれた外野村晋(とのむらしん-本名小野三郎)さんが、緑
濃い樹木に包まれた伊豆の那賀川で八十二歳の人生を閉じたの
は平成六年六月一日の午前四時、山深い清流はまだ夜の名残り
をとどめていた夜明け前のことです。
多くの人々に惜しまれての人生でした。
山形県出身の外野村さんは、シャンソン歌手の芦野宏さんが
会長を務める芸能人山形県人会の副会長として会の運営を補佐
してきました。その外野村さんは、平成二年十一月に山形市で
行われた同会の初代会長でもあった故伴淳三郎を偲ぶ会の記念
誌上に、挨拶に添えて得意の句を寄せています。
「菊晴れや アジャパア 今日の伴淳祭」
その記念誌の編集者で、会の事務局になっていた芦野事務所
の責任者でもある私の友人の藤村知弘さん(60)は、今回の取
材に同行して外野村さんを悼んでお返しの一句を詠みます。
「鮎と群れ 遊ぶや熊さん 那賀川に」
春たけなわのある日、外野村さんが逝って五年になる西伊豆
那賀川への取材の旅に出ました。大仁に立ち寄り神島橋近くに
在住の、狩野川漁協や教育委員会の仕事を歴任して伊豆の生き
字引といわれる飯田照男さん(65)もお誘いして三人で西伊豆
松崎へと向かいました。同行頂いた釣友の飯田さんは、地元の
長岡小学校校長で教職を去りましたが西伊豆でも教鞭をとって
いたこともあり、知己も多くどこに
でも顔が利きます。
地味なバイプレ-ヤ-だった外野村さんは無類の釣り好きで、
俳優として油の乗った四十代半ばには趣味が嵩じて釣具店(小
野晋平経営・とのむら釣具店)を開いていたほどでした。子息
の晋平さんも「時々は、父親と釣りに同行したものです……」
などと、藤村さんに語っています。
趣味の釣りで店を出し、好きな鮎釣りに出て逝ったその人生
の幕引きも、好きな西伊豆那賀川だったということで、ご遺族
の方には申し訳ありませんが、やはり「大往生」だったと思い
ます。
その藤村さん、飯田さんと連れ立って西伊豆に向かうと、ち
ょうど桜の季節で、河津川の桜が満開で車が大渋滞でした。私
達も海側の土産屋の駐車場に車を入れ、飲み物片手にしばしお
花見散策としゃれました。
それからまた移動です。
現場は、花とロマンの里・松崎町の国道一三六号線を宮野前
橋から那賀川を桜並木沿いに山路を数キロ上った大沢温泉地区
です。
緑に包まれた渓相のいい川ですが、二日前に降った大雨でか
なりの増水があったとかで底石はきれいに洗われています。ま
もなく鮎の季節で小鮎がキラキラと姿を見せていました。
川ヤナギの古木が岸辺から大きく枝を張って清流を覆ってい
る対岸の淵が外野村さん終焉の地でした。
外野村さんは、この那賀川をこよなく愛していて十年ほどこ
の川で鮎の解禁を迎えていた様子です。この年の解禁日前夜も
親しい釣り仲間と四人で定宿の民宿「こんや」(渡辺雄市・は
つえ御夫妻経営)に泊まっています。
宿の切り盛りをする渡辺はつえさんもしんみりと懐かしみま
す。
「夫(雄市さん)がこの川に合った鮎の仕掛けなどを教えると
素直にそれを真似て準備していましたし、言葉少ない人でした
が冗談もけっこう言ってましたですよ」
松崎町民宿組合連合会の会長(99年現在)として松崎温泉郷
約一八〇軒の民宿をを束ねる渡辺雄市さんも残念がります。
「鮎釣りは上手とは言えんが、とにかく釣りが好きで負けず嫌
いなところもあり、釣りの話になると夢中でしたよ。うちに二
日ほど泊まってあまり釣れないと仲間を誘って河津川に移動し
て、また二日ほど遊んで帰ったということでしたな」
鮎釣り人にとって解禁前の夜ぐらい時間の経過が遅く感じる
日はなく、多少のお酒では眠れません。午前三時、外野村さん
も軽く仮眠をとった状態で仲間と宿を出たといいます。
川はまだ闇に包まれている時間です。
那賀川は宿のすぐ前の道を隔てた至近距離にあり、明るくな
ってからでも竿は出せますが、いい苔の付いた一等地に入るに
は夜の内に場所決めをしておきたいのは当然です。
外野村さん達四人は二手に別れて、懐中電灯の光を頼りに明
るい内に狙いを定めていた何カ所かの好場所を見てまわり、先
客の有無を確かめました。そして、午前四時近くなった頃、外
野村さんは友人と二人で、前述の川ヤナギの古木の下から対岸
に渡ることにしました。対岸に腰を下ろせるほどの大石が三つ
ほど辺地の流れに頭を大きく出していて、その前の流心の深み
に黒光りした大石が流れに沿って沈んでいたようです。
外野村さんは、友人の肩を借りて川を渡り始めました。水深
は四〇センチほどですが流れは見た目より速く、苔の付いた底
石はよく滑りますので、オトリ函や背負い籠などのフル装備な
どではバランスを崩しやすく油断をすると足をとられます。
あとわずかで対岸という位置で友人が足を滑らせ外野村さん
も一緒に水中に倒れました。あわてて態勢を立て直した友人が
すぐ外野村さんを助け起こしましたが、その時、外野村さんの
身体からはすでに力が抜けていたそうです。友人は声をかけな
がら必死で岸に寄り、外野村さんを抱き抱えたまま水辺の岩に
腰を下ろし、懐中電灯を対岸の道路側に大きく振りながら声を
限りに叫び続けて救いを求めました。錯乱した中での対策とし
てはせいいっぱいだったと思います。その辺りにいる釣り人の
目にには当然、その電灯の光は見えていたはずです。ところが、
その光の輪は、居場所を知らせる仲間への合図としか思われな
かったようです。
やがて、その懐中電灯に気づいた人がいます。
上流で新居屋という民宿(現在は廃業)を開いていて、当時
漁協(那賀川非出漁業共同組合)の副会長でもあった依田猪佐
美さんが、知り合いの若者と土手の上に立っていて、その光の
輪をおかしいと思ったそうです。
とりあえず様子を見ようと急いで駆けつけ依田さんは、その
友人の口から緊急事態であることを知らされ、仲間を集めて川
から二人を助け上げると、すぐ警察に通報しました。
しかし、外野村さんの呼吸はすでになく、救急車に乗せられ
たときも腕がだらんとしていたそうで、警察官が来たときには
すでに死亡していたといいます。検視の結果、死因は急性心不
全と判明しています。おだやかな表情だったそうです。
外野村さんが、仲間とよく食事をしたという同地の食事どこ
ろ「鮎の茶屋」(山本真墨経営・民宿)を訪ねてみました。大
自然の仙境と素朴で静かな山間の茶屋と、大輪の花が咲いたよ
うな真墨さんの明るさに外野村さんは惹かれたのかも知れませ
ん。町役場の観光課に勤める真墨さんの夫の一司さんが仕留め
た天城の猪の肉やイワナの塩焼き、山菜料理などを食しながら
冷えたビ-ルを飲んでいると、外野村さんが通った奥伊豆の豊
かな旅情が伝わってきます。
「おとなしい方でしたが、フッと冗談を言ったりして……」
真墨さんが言い、外野村さんの色紙を持って来ました。
「ほどほどに釣れ ほどほど酔ひて鮎の宿」と、あります。
俳句好きで趣味も多く、テレビの熊さん役で顔の知られた外
野村さんですから、友人も沢山います。
東京釣具博物館の常見保彦館長は、
「外野村さんの鮎は、おだやかで静かな釣りでしたなあ」
週刊新潮の墓碑銘の一文に、趣味で釣りもやる作家で「事件
記者」の原作者・島田一男さんも次のようにコメントしていま
す。
「外野村さんは、黙々と川に対して品性のある釣り方でした」
その文中によると、外野村さんと親しかった本誌発行元の
「つり人社」前社長の小口修平さんも言います。
「一番好きなことをやってる最中に死ねたのだから、幸せだ
ったんじゃないか。今頃は三途の川で釣りをしてるでしょう」
前述の芦野宏さんは、故人を惜しんで振り返り、「外野村
さんは、山形県人気質そのままの地味で気骨のある俳優さん
でしたね。イベントの時には清川虹子さんを誘ってくれたり、
会(芸能人山形県人会)の運営では、いつも私を助けて裏方
に徹してくれました。俳優としても人間としても立派なバイ
プレ-ヤ-でしたね。毎年、夏になると県人会の集まりがあ
るんですが、いつも酒杯を傾けながら、おだやかな口調で鮎
釣りの楽しみを披露されたものです。ご本人を失ったことも
悲しいことですが、尺鮎の自慢話を語ることもなくお亡くな
りになって、多分、本人にとってもそれだけが心残りだった
のではないでしょうか……」
展望風呂のフレ-ズに惹かれて私達が泊まった、「ヴィラ
扇」(細田栄作さん経営)は”静思・再生の宿・旅先で過ご
す贅沢なコ-ヒ-タイム”などのキャッチコピ-を持つ宿で、
玄関を入ると、洋風のレストランにでも来たかのような錯覚
を感じます。父親の細田義也さんが民宿のご主人とも思えな
い博学の話好きであるのに比べて、経営を任された息子の栄
作さんはハンマ-投げで鍛えた体躯からは想像できないよう
な細やかな気配りの持ち主で寡黙、本格的にコ-ヒ-の豆を
挽きます。
料理上手の栄作さんは、一級小型船舶操縦士、特殊無線技
師などの資格を持ち地元のヨットクラブの事務局を引き受け
る海の男で、これからは本格的なフランス料理をお客に提供
したいという夢を持つと聞きます。さすがに西伊豆、変わっ
た民宿もあるものです。ぜひ、立ち寄ってみてください。
取材を終えた私達は、飯田さんの案内で、浄感寺の長八記
念館、重文の岩科学校をはじめ象牙博物館などに寄り、飯田
さん宅で書道家で大正琴にも長じる奥様の手料理を堪能して
帰途につきました。
それでも、鮎の季節にまだ早く、鮎にも対面せずに帰った西
伊豆の旅……チョッピリ未練は残ります。
愛する那賀川の解禁を楽しみに、ほとんど眠らずに夜明け
を待った外野村さんの心情も、「野鮎を一尾だけでも掛けた
かった」のが本音ではないか、と、無念さを感じるのです。
そこで、ふと、この文の本当のタイトルは「少し未練の残
る大往生!」かな? そんな思いにも駆られました。
外野村晋さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。
(注)かつて月刊「つり人」に連載した作品からの抜粋です。

随想・曼珠沙華にようこそ!


過ぎし日の想いのあれこれをここに遺し、共に過せし人への追憶の場とします。
心の糧には少し軽く、茶の間のつまみ程度にほどよき味が出せたらと願っています。
氷の海に飛び込んで餌を漁り、寒さに耐えて子を育てるペンギンさん。
仲間意識の強いペンギンさんを見倣って我々も逞しく生き抜こうではありませんか。
たとえこの身は冥界に帰すとも、拙文は永遠の命をもってここに恥を晒し続けます。
それはまた、私がこの世に生きて何がしかの足跡を残した証しでもあります。
ならば酔いどれ足か千鳥足、のんびり焦らず気楽にここで過します。
よろしければ、粗茶など進ぜますので時々遊びに立ち寄ってください。
おおいに歓迎します。
平成24年5月28日(大安吉日) 花見 正樹