木村摂津守喜毅(せっつのかみよしたけ)にみる武士道

 

木村喜毅(よしたけ)にみる武士道

花見 正樹

幕末三舟と聞けば歴史好きなら誰もが勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥州の名を挙げます。
では、幕末五舟とは? ここで田邊蓮舟、木村芥舟と出たら完全に歴史通ですが、ほぼ無理なようです。
この幕末期の五人はそれぞれが立派な活躍をした人物ですが、一般的な知名度では、この中で勝海舟だけがずば抜けています。
勝海舟の場合は、文武両道に優れて女好き、自由奔放に生きましたから、人生の楽しみ方でも五人の中では群を抜いているようです。
これに比して木村芥舟の場合はエリート街道まっしぐらですし、山岡高橋の義兄弟は武士の見本のような硬骨漢です。
ましてやここで語る木村芥舟こと木村摂津守喜毅などは謹厳実直ひたすら新しい国家建設に情熱を傾け私財を投じます。
この相反する性格の海舟こと勝義邦と木村喜毅では水と油、全く異質のコンビですが、この二人が約140日間、波高き太平洋上で過ごすのですから世の中、何が起こるか分かりません。勝義邦は、軍艦奉行・木村喜毅提督の下で教授方頭取として幕府軍艦・咸臨丸で初の太平洋横断に成功して歴史に名を刻みます。
木村家の祖は初代・昌高が第3代将軍家光の三男で甲府藩主・徳川綱重に仕えています。
昌高の子・木村家2代目の政繁は、徳川綱重の子で第6代将軍・徳川家宣に従って旗本に列します。
政繁の子で木村家3代目の茂次からは代々浜御殿添奉行・同奉行を務め、代々の将軍と親しい関係を続けることになります。
木村喜毅は文政13年(1830)2月27日に生まれ、幼名を勘助といいます。
幼いころから聡明で体も大きく、老中・水野忠邦に見いだされて12歳時に17歳として父・喜彦に連れられ浜御殿奉行見習として江戸城初出仕を果たしています。
その後は、12代将軍徳川家慶の寵恩を受け、さらに老中・阿部正弘に目を掛けられて西の丸目付に登用されますが、喜毅を陰で支えてくれたのは就学時代の先輩である岩瀬忠震(ただなり)で、老中・阿部正弘の下では岩瀬忠震、大久保忠寛(一翁)、木村喜毅、永井尚志(なおゆき)らがとくに重用され、喜毅は目付のまま長崎表御用取締として、長崎奉行の職務監察に当たることになります。
安政4年(1857)に長崎に赴任した喜毅は長崎海軍伝習所取締に就任、生徒の住環境改善や航海訓練海域の拡大による訓練生の操艦技術向上を図り、伝習所教官のオランダ軍人・ペルス・ライケン、カッテンディーケらの信頼を得ます、
安政6年(1859)5月に海軍伝習所が閉鎖され、江戸に戻った喜毅は目付に復帰、外国御用立合、神奈川開港取調、軍艦奉行並と次々に役職が上がっていきます。
そして迎えた万延元年(1860)、前年に締結された日米修好通商条約の批准のためにアメリカに派遣される正使・新見正興一行が乗る米艦ポーハタン号の護衛として、咸臨丸が派遣されることになり喜毅が軍艦奉行として咸臨丸提督に就任します。
喜毅は海軍伝習所所長時代の訓練生、浦賀奉行所、江川塾から人選し、勝義邦を艦長並の教授方頭取に抜擢、肥田浜五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、山本金次郎、中浜万次郎、鈴藤勇次郎、浜口興右衛門、小野友五郎らに、義兄の御殿医・桂川甫周に頼まれた書生の福沢諭吉を従者に加えています。水夫やアメリカ軍人ら総勢96人を乗せた咸臨丸は、浦賀からサンフランシスコまでを無事に航海し、遅れて到着した正使一行共々、熱烈な歓迎を受けて帰路に就きます。
この間に国内では、安政の大獄と言われる過酷な処罰を行った大老・井伊直弼が水戸浪士らに江戸城桜田門外で襲われて惨死、世情は荒れに荒れていました。
帰国後の木村喜毅は軍艦奉行に復帰し、直ちに列強に劣らぬ幕府海軍の創設のために骨身を惜しまず活動し、軍制改革によって幕府海軍長官となり、軍艦組を創設します。
海軍長官としての木村喜毅は、初の国産蒸気式軍艦「千代田形」の建造を開始、アメリカとオランダにも軍艦を発注、海軍軍人の育成に、
榎本武揚らを海外研修に出します。
さらに喜毅は、日本周辺海域防備のため、大型艦隊を各地に配備するために艦船の大量建造、海兵の募集を幕府に献策しますが、その壮大な構想に驚いた幕府閣僚の猛反対に遭って却下されます。幕閣が恐れたのは、身分に関係なく能力で階級が上がる西洋式軍隊制度によって、士農工商制度の崩壊だったのです。喜毅は自ら望んで軍艦奉行を辞職しますが、幕府に請われて再出仕して開成所頭取、目付、外国御用立合、海陸備向掛などを歴任します。
さらに、兵庫開港問題で老中と対立して罷免されますが、また幕政に復帰し軍艦奉行並となります。
そこで、ようやく小栗忠順や勝海舟の応援を得て、海軍の西洋式・階級俸給制度の導入に成功、海軍の基礎が出来上ったのです。
その後、鳥羽伏見の戦いが勃発、将軍が敵前逃亡して大坂から江戸に逃げ帰っては幕府軍に勝ち目はありません。
薩長土連合軍の江戸城総攻撃は、将軍警護の山岡鉄太郎の命がけの交渉などで避けることが出来、喜毅は勝手方兼任の勘定奉行として、江戸城開城の際には幕府の事務処理を務め、役目を終えて府中に去ります。
この木村喜毅の凄さは、咸臨丸での渡米の際、乗組員たちへの手当てを幕府に要求して容れられず、自分の書画骨董を処分して3千両(約2億円)もの大金を咸臨丸に積み込み、全員に報奨金や服装・土産代に分配し残らず使い切り、幕府から渡された渡航費用の5百両はそっくり返したところにあります。木村喜毅は私財を投げうって人を育て、外国に学んで日本の海軍創設に尽しました。その私欲のない潔い生き方にも感動しますが、将軍・徳川慶喜の進退に合わせた身の処し方にも武骨ながら芯の通った武人の魂を感じます。
この木村喜毅に関しては、同じ「歴史の舘」内「歴史こぼればなし」で連載中の「咸臨丸物語」をご覧ください。
その著者、宗像善樹講師の奥方が木村喜毅のご子孫で、「お休み処」内「史話秘話名所名物・雑学ルーム」担当の宗像信子講師です。

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花見正樹・プロフィール


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諏訪三郎盛高にみる武士道

 

 

 

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。


花見 正樹

 

 

諏訪三郎盛高にみる武士道

花見 正樹

私の若い頃に書いた「戦乱の谷間」にという短編小説は、鎌倉の北条幕府壊滅後の挿話です。
その中に登場する主要人物は3人、その内の一人が諏訪三郎盛高です。
古典文学集「太平記巻第十」に登場するのは2人、亀寿丸こと北条時行と、今回の主人公・諏訪三郎盛高です。
小説の中のもう一人の人物については、思い入れもあって、そのん人の居城だった長野県の池田町の山城跡まで登ったことがあります。
ここでは、木曽義仲四天王の一人・樋口次郎の末裔には触れませんが、今でもその人物は目に浮かびます。
さて、諏訪三郎盛高ですが、この人は、北条幕府執権北条高時の弟・北条四郎左近入道泰家に仕えた北条方屈指の武将です。
北条幕府の滅びるのは、足利尊氏が裏切って朝廷側につき、六波羅を滅ぼしたのが主因ですが、北条幕府の栄華と奢りは幕府内の腐敗を呼んでいましたから自業自得、いずれは滅びる命運だったのです。
鎌倉に攻め入った新田軍の猛攻に、郎党の殆どを失った諏訪三郎盛高は、泰家の最期のお伴にと泰家の屋敷に戻ります。
すると泰家が意外なことを言います。
「わが北条が亡ぶは、兄・相模入道(高時)殿の不徳ゆえ止むを得ぬが、それでも一門には善行を積む者もいて再興の機もあろう。お前に相模殿の次男・亀寿丸殿を任せる。時が来たら再興の志を果たせ」
「兄の万寿殿は?」
「相模入道殿が、五大院右衛門宗繁(むねしげ)に預けられたと聞いたから心配ない」
盛高は「死を定むるは易く、謀(はかりごと)は難し」と思ったが、主君の命には逆らえず涙を抑えて亀寿丸のいる葛西谷の隠れ家に馬を走らせます。
女房衆とそこにいた亀寿の母・二位殿の御局は盛高を見て安堵したように「これからは?」と嬉しげです。
ここで盛高は亀寿を「落ち延びさせる」と口から出かかるのを抑えます。敵にそれが伝わったら追っ手が迫ります。
そこで、亀寿も死んだことにすべく嘘をつきます。
「大殿(高時)が、亀寿殿もともに冥途へと言いますので、お迎えに参りました。万寿殿はすでに敵に殺されました」
すると御局や乳母、女房達が亀寿を囲んで放しません。
「そんな酷いことを! 敵の手で死ぬなら諦めますが、亀寿を連れて行くなら私どもを殺してからにしてください」
と涙ながらに訴えます。
盛高も涙ぐみますが気を取り直して、「武士の家に生まれた以上覚悟も必定、大殿がお待ちです。御免!」と、力づくで亀寿を奪って抱き抱えて外へ走り出て馬の鞍に乗せ、自分はその後ろに跨って馬を走らせます。背後から泣き声が追い、振り向くと亀寿の乳母がはだしで必死で追ってくる姿が見えます。乳母は、馬が見えなかなっても倒れては起き、懸命に追いますが、力尽きて倒れ、這うようにして近くの家の井戸に身を投げてその一生を終えます。
その後、三郎盛高は亀寿共々、下人姿に身をやつして信濃へ落ちてゆきます。
この時の亀寿の年齢は、太平記でも定かではなく、史書でも5~10歳とまちまちです。
私は、その2年後に鎌倉討伐軍を率いて戦う北条時行を考えて、鎌倉落ちを10歳としました。

私の小説「戦乱の谷間に」は、この逃避行時の険しい落ち武者狩りとの争いと、その2年後の鎌倉攻めに触れています。
三郎盛高は、一族の諏訪上社前大祝・諏訪頼重の協力を得て、亀寿丸を信州南部、八ヶ岳山麓に匿って北条再起を図ります。
諏訪三郎盛高、諏訪頼重に呼応して祢津・滋野氏ら諏訪一族や関東武士が揃って蜂起したのは、建武2年(1335)の6月、鎌倉を一気に奪い返したのが7月。これを「中先代の乱」といいます。
わずか20日間の天下で、強大な足利軍の対大軍に包み込まれて、殆どが戦死しますが再び天下を取り戻したのは間違いのない史実です。
この主君の命にしたがって、命を投げ出した諏訪神社の一族、諏訪三郎盛高の義に生きた姿に「武士道」を感じるのです。
さて、表題の「諏訪三郎盛高にみる武士道」は、ここまでです。

しばし、時間がある方は、オマケの下記雑文にも御目通しを・・・

では、この戦いを主導したのは?
歴史書が語る諏訪三郎盛高だったのか?
幼いながら亀寿丸こと北条時行だったのか?
私が「戦乱の谷間」を書き上げて数年後、親しい友人の小林永周講師(開運・心霊スポット担当)から意外なことを聞きました。
「北条時行の墓が東北にある」というのです。
そういえば、北条泰家の領地が奥州にあるのは聞いたことがあります。
そこで調べました。
なんと、この「中先代の乱」の首謀者は、諏訪三郎盛高の主人で執権・北条高時の弟・北条泰家、らしいのです。
私が不勉強で、これを見逃していたのです。したがって、私の短編小説「戦乱の谷間」は没、書き直しです。
では、南朝元弘3年(1333)の北条一族滅亡時に、菩提寺である東勝寺に集まって自刃した800人超とも言われる主従の焼死体の中には、執権代理まで務めた北条四郎左近入道泰家はその場にいなかった・・・厳しい敵の目を欺いてどうやって生き延びたのか?

亀寿丸を家来の諏訪三郎盛高に託した後、北条泰家は、戦い破れて血だらけで戻った腹心の部下二十余人を呼び寄せます。
「わしは奥州に落ちて、一度は天下を取り戻してから見事に死んで見せる。そこで、ここは奥州の出身の南部太郎と伊達六郎の二名を道案内に連れて行く。他の者は見事に自害して館に火をかけよ。わしが率先して自害したように誰かわしの甲冑を着せ」
部下二十余人は「御定に従います」と言い、主人の命に従います。
主人に選ばれた南部太郎と伊達六郎は、敵の死者から新田家の家紋である大中黒の笠符(かさじるし)をつけた甲冑や笠を奪い、新田方の雑兵に身をやつし、泰家本人は血の付いた衣類で身を包み重傷を装って、これも新田方の雑兵に化けた力持ちの中間に吊り輿を担がせ、手負いの新田側武士が郷里に急ぎ帰ると装って、堂々と敵陣の中を武蔵まで落ち伸び、そこからまた変装して奥州にと旅立ちます。
主人が去ってすぐ、残った二十余人の武士は、戦いの場に戻って触れ回ったのです。
「主君、左近入道様ははや御自害あそばされた。家来衆はみな御供申せ。早くせんと屋敷が燃え落ちるぞ」
かくして、館に火をかけ、次々に腹を切ったのは三百余人、みな炎に包まれて自害します。
腹の座った泰家は、領地の奥州糠部郡(岩手県北部?)で英気を養ったのち、別人に化けて京に上り、名を変えて西園寺家に仕え、鎌倉の新幕府打倒の人集めを始めます。そして、建武2年の6月に奥州、武蔵、信州に触れを回して謀反を起こし、自らが亀寿丸こと北条時行や部下の諏訪三郎盛高を補佐して、新田義貞が守る鎌倉に攻め入り、一気に天下を取り戻します。
その天下を覆すのは、足利尊氏率いる大軍で、激しい戦いは数日で終わり、北条泰家、三郎盛高は討ち死に、諏訪頼重は自刃、北条時行はいずこにか逃れた、とされます。なお、敗軍の将兵は、死していても顔の皮まで剥がされたとあり、戦いの結末はいつも残酷です。


ブルック大尉にみる武士道

 

 ブルック大尉にみる武士道

花見 正樹

ジョーン・ブルック大尉の名が知られるようになったのは、明治31(1898)年の日刊新聞・時事新報に連載された頃からとされています。福沢諭吉は、蘭学で師事していた医師・桂川甫舟に頼み込んで、甫周の義弟にあたる咸臨丸提督・木村摂津守の従者という形で咸臨丸乗船に成功します。
その福沢諭吉執筆の「福翁自伝」に載った咸臨丸の渡航状況では、ブルック大尉の貢献度を低めに評価してjますが、木村提督の報告や咸臨丸乗船船員らの証言から、ブルック大尉の指揮なしでは咸臨丸渡米の快挙は成し得なかったことが明らかになっています。
ブルック大尉が最初に日本を訪れたのは、咸臨丸渡米の5年前のことです。
ペリー提督と幕府が日米和親条約を締結してから約一年後の1855(安政2)年5月、アメリカ海軍の全世界海洋調査団の指揮官としてブルック大尉は世界の海を渡り歩いて日本にたどり着いています。測量や天文観測も出来る海洋学者の海軍士官のブルック大尉は、調査船団の旗艦・ヴィンセンス号上に乗組む科学者達の指揮を任されて南太平洋から香港経由で艦隊を組んで沖縄、九州南部を測量しながら下田に入港、初めて日本の土を踏みます。
ブルック大尉は、旗艦に積んだ長さ約9mのボートを帆走ボートに改造して、食料や測量器具を積んで日本の太平洋沿岸を函館まで測量し、函館で本隊と合流した後に、ベーリング海調査を終えてサンフランシスコに帰港します。
次に日本を訪れたのは1858(安政5)年の海洋調査の折りです。この調査は、日本近海島や岩礁、危険水域の詳細位置の調査にありました。
ブルック調査隊は、マリアナ群島や各地の岩礁を調査しながらグアム島を経由して香港、沖縄、種子島と日本沿岸測量にかかり、8月13日、開港直後の神奈川に到着します。
ブルックは16日、ハリス公使に会うため、江戸麻布のアメリカ新公使館のある善福寺に向かって馬で出発します。
その留守中、神奈川沖に停泊中のブルックの測量船・フェニモア・クーパー号が強風の嵐に襲われて碇ごと引きずられて岩礁に激突して難破、沈没してしまいます。
アメリカに帰る船を失ったブルック調査隊は、横浜で一時滞在しますが、日本遣米使節を送るため来日するポーハタン号に便乗して帰国する手筈を整えていました。そこに降って湧いたような、幕府からの要請です。
それは、咸臨丸でアメリカに行く事になった軍艦奉行・木村攝津守が、渡航にはアメリカ海軍の操船技術が欠かせないと考え、勝海舟らの反対を押し切って幕閣に要請したために、それを受けた水野筑後守と永井玄蕃頭がハリス公使に依頼したところ、自分の船を失ったブルック調査隊の存在を知ったのです。ハリス公使やドール領事の意を受けたブルックは、日米友好のためと自分達の能力を生かすために、日本海軍の軍艦への乗船を考慮し、直ちに咸臨丸の性能などを調べて、問題点を補修するなどして渡航に問題なしとしてから乗船を受諾します。
ブルック隊11名を加えた総勢107名の大所帯を乗せた咸臨丸は、 1860年2月7日(安政7年1月16日)、横浜を出港、浦賀で最終的な出航準備を整えた上でいよいよ太平洋の荒海に乗り出します。
この咸臨丸に関する情報は、この同じ「歴史の舘」内の宗像善樹講師による「咸臨丸物語」が今までのいかなる咸臨丸作品以上詳しく、よりリアルですので是非、ご一読下さい。今回のテーマ「ブリック大尉が、武士道とどう関わるか? ここからは、宗像善樹講師の著書から一つの事件をお借りして説明します。
太平洋上での飲料水の消費が予定以上に速まってしまいます。そこで水の補給にハワイに寄港する案も出ますが、結局、水不足対策に、飲料以外には水を使わないことを取り決め、全員でそれを再確認しました。
ところが、アメリカの水夫の一人がその取り決めを無視して、その貴重な水で自分の下着を荒ったのがバレました。それを知ったブルック大尉は、敢然と「規律を破ったこの者を直ちに撃ち殺してください」と日本側に通告します。
下記文章は、宗像善樹講師の名文をそっくりお借りしました。
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木村摂津守、福沢諭吉、ジョン万次郎を始め、咸臨丸の日本人乗組員は全員、元測量船フェニモア・クーパー号艦長ブルック大尉の毅然とした態度に驚嘆した。なぜなら、それは、日本の武士が武士道を貫く態度に似ているように思えたからだった。
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この一件だけでなく、ブルック大尉が咸臨丸の太平洋横断を成功させたエピソードは数限りなく残されています。
ブルック大尉にみる武士道・・・納得して頂けましたでしょうか?


芹沢鴨にみる武士道

芹沢鴨にみる武士道

花見 正樹

芹沢鴨(せりざわ かも)は、天保3年(1832年)に真壁郡芹沢村に生れました。
前名は下村嗣次(継次なども)、出自には諸説あり、どれもが明らかになっていません。
一説によれば、芹沢家の先祖は室町時代に常陸国行方郡芹沢村(現茨城県行方市芹沢)に定着した豪族で、関ケ原の戦いの戦功によって行方郡富田村(現行方市富田)に知行百石で定住、水戸藩上席郷士(士分)となります。
嗣次は、その芹沢家の出身で、多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官・下村祐の婿養子になったとの説もあります。
安政5年(1858年)の戊午の密勅返納阻止事件に関り、万延元年(1860年)には玉造勢に入って暗躍します。
玉造勢は、玉造村の文武館(現茨城県行方市玉造)に拠点を置き、横浜で攘夷を決行するために近郊の豪商から資金調達を始め、嗣次は弟分の新家粂太郎(後の新見錦か?)と共に資金集めに奔走します。
この強引な資金集めが代官から幕府訴えられ、首謀者の武田耕雲斎が江戸に呼び寄せられて調べられた結果、文久元年(1861年)2月、「不法の者召し捕り」の命が出て、玉造勢の下村嗣次、新家粂太郎らも捕縛され入牢となります。
ところが、水戸藩内の政変で力関係が逆転し、恩赦による特典で入牢していた嗣次らは釈放され、武田耕雲斎も藩政に復帰します。
下村嗣次は芹沢鴨と名を改め、出牢して約一か月後に清河八郎の周旋で、将軍警護の名の元に集められた浪士組に、弟分の新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助等を引き連れて参加します。
そこで、試衛館の近藤勇や土方歳三。沖田総司や山南敬助らと知り合い京都へと行動をともにします。

ところが、浪士組発案者の清河八郎が、将軍警固役から一転して、勤皇攘夷への転向を表明、上奏文を朝廷に提出したところ何とそれが受け入れられため、浪士組は朝廷直属の武術集団となってしまいます。
それを知った幕府は、攘夷決行を餌に浪士組を江戸に戻すように命じます。
文久3年(1863年)2月13日のことでした。
清河八郎は幕府までも自分の存在を認めたことに満足して得意満面であったことと思います。
清河八郎は直ちに新徳寺に浪士組全員を集め、攘夷決行のために江戸帰還を宣言します。
これに反対して京都残留を決めて清河八郎と決別したのは、芹沢派5人と近藤派8人の他に殿内義雄や根岸友山らだけです。
京都に残った残留組は、芹沢の口利きで会津藩に嘆願書を提出し、会津藩「御預かり」となることに成功します。
京都残留組は、八木家、前川家、南部家などに分散して寄宿し「壬生浪士」と称しますが、すぐ内部抗争が始まります。
殿内義雄が何者かに暗殺されたのを機に根岸友山仲間と離脱し、壬生浪士は芹沢派と近藤派だけになります。
その後の話し合で、芹沢鴨が筆頭局長、近藤と新見が平局長となります。
芹沢鴨は酒癖女癖の悪さでの悪行三昧で、会津藩から暗殺の命が降って自滅します。
しかし、酒さえ飲まなければ明るく豪胆で剣技も強く礼節もわきまえたひとかどの武士でした。
その死は、武士にあるまじき惨めな死にざまで、殺されてなお汚点を残しました。
秋雨の冷たい夜、島原の角屋での宴会から平山五郎、平間重助らと早めに宿舎の八木家へ戻って、待たせてあった女達(芹沢はお梅、平山は芸妓・桔梗屋吉栄、平間は輪違屋糸里)と飲み直してれ酔ったままそれぞれが同衾します。それを待っていたかのような覆面に黒装束の数人の刺客が、白刃をかざして斬り込み、平山を殺害し、芹沢に斬りつけました。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取りますが、戦う間もなく斬り立てられて裸同然の姿のまま、八木家親子が寝ている隣室に逃れますが、文机につまづいて転び、そこで惨殺されます。
事件は長州藩士の仕業とされ、数日後、芹沢と平山の葬儀(平間は遁走)が盛大に執り行われました。
武士とは思えぬ卑劣で無謀な悪行ばかりが遺されている芹沢鴨・・・武士道からは逸脱していますが、そこに漂う人間の弱さや人間らしさ、そこに共感を感じているのは、私だけなのでしょうか? 芹沢鴨よもって瞑すべし・・・。


上杉鷹山などにみる武士道

上杉鷹山などにみる武士道

花見 正樹

ここで以前、川中島の戦いで武田信玄の本陣に斬り込み、馬上から信玄めがけて太刀を振るったのは上杉謙信ではなく謙信の影武者・荒川伊豆守長実(ながざね)あるとのべました。この勇猛果敢な荒川長実の猛攻を辛うじて逃れた信玄は命からがら川中島から撤退します。
上杉謙信の部下にはこの荒川長実の他に、もう一人傑出した武将がいます。それが、賢将で知られる直江兼続(なおえかねつぐ)です。上杉謙信は、これら優秀な部下に恵まれて越後の龍として君臨できたのです。
時代は下って上杉家が越後から転じて出羽の国・米沢に移って代を継ぎ、日向国高鍋藩主・秋月家(現・宮崎県児湯郡高鍋町)から米沢に養子に入って米沢藩第九代藩主になったのが、上杉治憲(はるのり)こと後の鷹山(ようざん)公です。
幼くして上杉家に養子入りした治憲は上屋敷(千代田区霞が関)で過ごし、藩主として初の米沢入りは19歳の時でした。
治憲が藩主になった時の米澤潘は借財が約20万両(約160億円)で破産寸前、その理由は禄高15万石で家臣千人が妥当なのに、昔の120万石の大大名だった時代の6千人の家臣を抱えていたのと度重なる奥羽地方の天災による農作物壊滅と飢饉、それに加えて江戸屋敷での贅沢な暮らしぶりなど、過去の藩主の中には領地返上寸前だった者もいるほどの窮状でした。
その米沢藩の危機を救い、莫大な負債を完済に導いたのが、新たな藩主の治憲です。
治憲はまず江戸屋敷の改革から始め、奥女中50人を9人に減らし、年間経費を1500両から209両に切り詰めます。
その治憲が米沢入りしてからの藩主としての行動は、領民にとって思いがけず衝撃的なものでした。
まず率先して着衣を木綿として華美を戒め、一汁一菜の粗食、家来と共に領民の手助けに田に入って働いた記録もあります。
さらに、領民の飢餓対策に、食せる野草や山菜を求めて山谷を駆け巡って書物に載せて配布したり、垣根に食用となるウコギを用いるよう奨励したり、と倹約と勤労の実践と奨励を藩是として進めます。
かくして巨額な借財もいつしか完済するに至ります。
昭和の時代、軍神と呼ばれた山本五十六の訓に、「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」という有名な一文があります。
その文は、かつて上杉鷹山が伝えた「してみせて 言ってきかせて させてみる」から採った言葉と言われています。
上杉鷹山が遺した言葉に「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり(上杉文書)」があります。
これは、中国の古典「書経」からの引用で武田信玄が遺した「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」から、と言われています。
と、すれば、上杉鷹山は、藩祖・謙信の宿敵の座右の銘を用いていたことになります。
さらに、甲斐・武田軍団の軍師・山本勘助の子孫の養子である山本五十六も、祖先を戦死させた敵の子孫の言葉を借りていたことになります。
アメリカの元大統領のジョン・F・ケネディが、一番尊敬する日本人に挙げたのは上杉鷹山です。
これは、ケネディ元大統領が、新渡戸稲造の「武士道」を愛読していたからです。
さらに、私(花見)は「ケネディ会」の会員でした。
だからといって私とケネディ元大統領が直接の知り合いではありません。
米沢との関りは私が「米沢新聞」の元東京支社長で現・顧問ゆえ、ケネディ元大統領とは一族の因縁からです。
上杉鷹山の質実剛健を貫いた武士道も立派ですが、ここに登場した人物、上杉謙信、武田信玄、山本勘助、山本五十六、ケネディ、荒川長実、直江兼続とそれぞれが立派に武士道を貫いています。
あと一人、花見が抜けていますが、これは今すぐ「花見とケネディ」で検索願います。これで花見一族の武士道の一端に代えて頂けますと幸いです。


荒川伊豆守長実にみる武士道

 

 

 

 

 

 

荒川伊豆守長実にみる武士道

花見 正樹

 

 

上杉謙信といえば越後の龍、武田信玄といえば甲斐の虎。
この二人の名が出れば、川中島の一騎打ち・・・どちらも常識です。
これを、上杉謙信を米沢の龍と言い直してもピンときませんが、山形県米沢市では謙信は米沢の人なのです。
平成7年(1995年)の1月初旬、私は雪深い山形県米沢市を訪れた際、謙信公の墓前に訪れました。
それ以前、昭和の頃から私の事務所の一隅を米沢新聞社東京事務所に貸してはいましたが、私が推薦して東京支社長に推薦していた釣友が突然辞職、そこで仕方なく私が東京支社長をやらざるを得なかったのです。
新年の挨拶で米沢をれた私は、赤湯温泉(南陽市)での新年宴会の翌日、故清野社長に米沢市内を案内して頂きました。
米沢城址、米沢に伝わる著名な工芸品「笹野一刀彫り」の名人宅を訪れて土産を頂いたり米沢牛の店などを歴訪した最後の仕上が上杉神社でした。
社務所で求めた線香に火を点けて墓前に供えながら故清野社長が言います。
「ここは上杉家の菩提寺で代々の藩祖が眠っている、謙信公も鷹山公も合祀されていますでな」
これは間違い、上杉鷹山は、明治35年(1902年)に建てた摂社「松岬神社」に移ってここにはいません。
謙信公の霊に合掌してご冥福を祈ったあと、沢山ある寺宝の中のほんの数点を特別に拝観させて頂きました。
長巻、刀剣、甲冑、装飾品の一部ですが、中には家老・直江兼続所用の浅葱糸威二枚胴具足や兜がありました。
帰路、また故清野社長が自慢げに言うのです。
「いま見せて貰えなかったが、川中島の戦いで信玄と一騎打ちで斬りつけたとき謙信公が被っていた白頭巾も遺されてますよ」
ここでまた口には出しませんが、「えっ?」と疑問符です。
上杉謙信と武田信玄が5度も戦った千曲川の「川中島」で、二人の一騎打ちが著名になるのは4度目の合戦です。
私の手元にある「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)(武田方の史料)」の控えでは、謙信が馬上から幾度となく激しく太刀を振るうのを信玄が鉄製の軍配で防ぎ切った、と記述れてされています。
ところが、知人から見せて頂いた「上杉家御年譜・第一巻、謙信公(米沢温故会著)によると、信玄に一騎討ちを挑んだのは、謙信の奉行で直江兼続と肩を並べる「荒川伊豆守長実(あらかわいずのかみながざね)」らしいとなっています。
となると。荒川伊豆守は服装からして、謙信(当時は政虎)の影武者だったことになります。
荒川伊豆守は、永禄4年(1561)の「第4次川中島の戦い」で、謙信(政虎)軍1万3千と共に、武田軍が立て籠る海津城を眼下に見下ろす妻女山(西条山とも)に布陣します。
武田信玄はすかさず2万の兵を率いて妻女山を囲んで上杉軍の退路を断ち、自らの本陣は川中島を挟んで設営します。
両軍が睨み合って約半月後の9月9日の夕、謙信から「今宵、山を下る」の命が出ます。
謙信は、海津城の炊煙が異様に多いのを見て、武田軍が夜陰から早朝にかけてに妻女山に攻め登るとみて、その前に山を降りて下で待ち受ける武田軍を壊滅させる策に出たのです。
武田軍としては、妻女山を奇襲すれば、上杉軍は慌てふためいて敗走して山を下る、それを待ち伏せて殲滅する策ですから余裕があります。
晴れた日の夜明けの川辺は霧が出ます。この日(9月10日)の夜明けも濃霧でした。
その霧が夜が明けてゆくにしたがって晴れて見通しがよくなっています。
武田軍の軍師・山本勘助にとって一生一代の過ちがこの「きつつき戦法」です。
武田軍が間近に迫った上杉軍を眼にして陣形を立て直す間に、上杉方の先鋒・旗本騎馬隊が迎え討つ武田の将兵を蹴散らしてまっしぐらに本陣めがけて襲い掛かって来ます。
その真っ先で長刀を振るっている甲冑に白頭巾姿の武将が、荒川伊豆守だったのです。
伊豆守ら精鋭部隊は必死の形相で刀を振るい、まっしぐらに武田軍の本陣めがけて激しく攻め進みます。
夜中の奇襲を掛けたつもりが、逆に不意を突かれる形となった武田軍は、大混乱となりました。
この時の激しい戦闘で武田軍の山本勘助、信玄の実弟・武田信繁ら主だった武将が次々に討ち死にします。
戦況不利とみた信玄は、八幡原の本陣を撤退し、下流から川を渉るべく移動を始めます。
それに気づいた伊豆守らは一団となって武田軍の本陣に襲い掛かりました。
信玄を守る親衛隊も懸命に反撃に出ますが、その厚い壁を突き破って伊豆守が信玄めがけて太刀を振るいます。
信玄が刀を抜く間もない鋭い太刀先に、思わず信玄は手にした鉄製の軍配で防ぎます。
伊豆守が三太刀振るったところに邪魔が入って防戦となり、信玄をとり逃した上、自分も手傷を負ったのでその場から脱出しますが、その悔しさもまた想像できます。
その川中島での一騎打ちは、謙信と信玄の一騎打ちとして語り継がれましたが、伊豆守は一言もそれに反駁(はんばく)していません。
主君・謙信の命に従い敵中で命がけで戦い、凱旋後も名を捨てて「義」を守った荒川伊豆守長実もまた武士道の鑑(かがみ)と讃えることが出来ます。
しかし、歴史の世界は表に出ているのが真実、この現実を最近ではイヤというほど実感しています。
荒川和泉守長実殿、以て安らかに瞑すべし・・・


楠木正成にみる武士道

楠木正成にみる武士道

花見 正樹

楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武士です。
生誕は永仁2年(1294年)で死没は延元元年(建武3年)5月25日(1336年7月4日)が定説になっています。
幼名は多聞丸、長じて兵衛尉から正成となっています、
官位は、従五位上、検非違使、左衛門少尉、河内国・和泉国・摂津国の守護、贈正一位などです。
生涯を後醍醐天皇に仕え、兄弟子供ら楠木一族を上げて後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献します。
建武の新政では、足利尊氏らと共に後醍醐天皇を助けますが、尊氏が北朝を奉じて反抗した後は、新田義貞、北畠顕家と共に
南朝側の武将として後醍醐天皇軍の一翼を担いますが、湊川の戦いで尊氏の大軍に敗れて自害して果てます。
単純にいえば、以上の通りですが、悪党と呼ばれる河内の土豪(大阪府南河内郡千早赤阪村)の家に生まれて、歴史の表舞台に登場し、死後は「大楠公」とも称されて忠臣の鑑とされ、かつては教科書にも登場していました。
「太平記」によると、正成は河内金剛山の西にある、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとあります。
楠木正成の初戦は、元亨2年(1322年)、北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党との闘いで、渡辺党を壊滅し、次いで紀伊国安田庄司の湯浅氏を討ち、さらに南大和の越智氏をも撃滅して連戦連勝の戦功を挙げています。
湯浅氏とは領地問題、越智氏は六波羅役人殺害で幕府に所領没収で対立、北条高時は斎藤利行らを派遣しますが、毎回、越智氏らのゲリラ戦法に敗れていました。
そのため、六波羅は正成を起用し、正成は越智氏を討つことに成功します。
無名だった楠木正成が、幕府が手こずっていた渡辺党、湯浅氏、越智氏を討幕したことで幕府内、六波羅、世間の間に強烈な印象を持たれ一躍有名になります。
その後、正成は幕府被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担することになります。
正成は河内に戻り、赤坂城(下赤坂城)で挙兵します。
倒幕に集まった有力武将は正成を除くと少数で、大軍を擁する幕府軍は一日で決着がつくと考え、直ちに攻撃を開始します。
笠置山に籠もった後醍醐天皇の本陣はたちまち陥落、後醍醐天皇らは捕えられますが、赤坂城に籠もった正成軍は幕府軍と戦って、少数で多勢の幕府軍を再三再四撃破します。敵が山頂に近ずけば弓矢や大石で応戦し、城壁に吊るした偽の塀を切って落とすなどで敵を退け、敵が楯を用意して攻めれば熱湯をかけて追い払うなど奇策を用いて幕府軍を翻弄します。
しかし、難攻不落と思われた赤坂城も急造の山城ですから、食料や水の備蓄にも限度があり、長期戦には適しません。そこで、正成は夜陰に紛れて敵兵の死体を集めさせ、大きな穴を掘って死体と薪を積み、城諸共火を放って裏山伝いに全員で逃げます。
赤坂城が炎に包まれたのは元弘元年(1331年)10月21日の夜です。
翌朝、幕府軍が山に登ると、焼け落ちた大穴に見分けのつかない焼死体が数十体、正成以下の楠木軍が「もはやこれまで」と一族全員で死を選んだ、とみて意気洋々撤退、同年の11月はに関東へ凱旋します。
赤坂城および正成の旧領は、正成と因縁深い湯浅宗藤が幕府によって派遣され、城を守ることになります。
元弘2年(正慶元年・1332年)4月3日、正成軍は湯浅宗藤軍の兵糧運搬集団(約500人)を襲って蹴散らし、食料を奪って隠し、その集団に化けて武器を食料に見せかけて隘路に入って蜂起、、城外の軍勢も同時に木戸を破って雪崩れ込み、湯浅軍は成すすべもなく降参、正成は戦うことなく赤坂城を奪還しました。
楠木軍は湯浅氏の軍勢も自軍に引き入れ、勢いづいて和泉・河内を制圧、5月には摂津の住吉・天王寺に進攻し、正成の奇略も生かして六波羅探題軍を打ち破ります。
その状況を知った北条高時は9月下旬、30万以上の幕府軍を派遣します。
これを知った正成は、赤坂城の背後に千早城を築き、さらに、金剛山一帯に点々と要塞を築きます。
元弘3年(1333年)2月以降、幕府軍と正成軍は激しい戦いを繰り広げている間に、後醍醐天皇が隠岐を脱出します。
後醍醐天皇の活躍と、後醍醐天皇の皇子・護良(もりなが)親王と組んだ正成らの活躍に各地に倒幕の機運が各地に広がり、赤松円心らに次い、で5月には足利高氏(のち尊氏)が後醍醐側に寝返って六波羅を攻め落とします。
さらに、幕府から多額の献金を求められた新田義貞の反逆で、ついに鎌倉幕府は壊滅、北条一族は舘に火を放って自刃します。
こうして醍醐天皇が京に凱旋、建武の新政が始まり、戦功第一の正成は、記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)と重要な職務を兼ねた上に、河内の他にも土佐安芸の荘、出羽、常陸など多くの所領を与えられます。
正成は、建武の新政までは後醍醐天皇の絶大な信任を受けていたのです。
その後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛されたのを機に、護良親王側近の正成は建武政権の役職を辞しています。
さらに、足利尊氏が、鎌倉で後醍醐新政に離反して反抗ののろしを上げま、それを追討すべく派遣された新田義貞が箱根・竹ノ下の戦いで敗れて京へと逃げ戻り、これを追う尊氏は京へと迫り、それを迎え討つ後醍醐軍に楠木正成は、北畠顕家や新田義貞軍と合流します。
この合戦で、尊氏に一度は京都を制圧しますが、義貞、顕家、名和長年、千種忠顕らの総攻撃に加えて、正成の策略と奇襲によるって尊氏軍の大軍を撃退し京都奪還に成功、その後の戦いで、尊氏の軍を九州へと駆逐します。
この合戦後、尊氏に好意をもつ正成は、後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しますが、一笑に付されて拒絶されます。
この時、正成は、尊氏と義貞の私憤が争いの元とみて、義貞の首を以て尊氏と和睦との説を提言します。
後醍醐天皇側近の公家達の意見を重視する天皇は、反旗を翻した護良親王側近の正成の意見を重用しなくなっていたのです。 そして、正成に最期の時が迫ります。
足利尊氏が九州を出て各地の有力武将を集めて大軍で再び京に迫まります。
それを迎え討った義貞軍が、大軍に一蹴されて兵庫に退却したという早馬が届くと、後醍醐天皇は直ちに正成を呼び出して、一刻も早く義貞軍と合流して尊氏軍を迎え撃つように命じます。
正成は冷静に、勢いづいた尊氏の大軍に対して、新田と楠木両軍を合わせた小勢では確実に負け戦になる、新田軍を京に呼び戻して総力を結集して淀川口で迎え討てば勝機はある、と進言します。
この正成の必勝の策も後醍醐天皇には容れられず、「即刻兵庫に急ぎ義貞軍に合流せよ」との命が降りました。
これは、後醍醐天皇が側近の古参の公卿・坊門清忠の意見を尊重したからです。
この絶望的な状況下で死を覚悟した正成は、息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日限り」と、再起を図るように言い含めて桜井の宿から河内へと息子を帰します。
湊川の戦いでは、多勢に無勢で正成と義貞の軍はたちまち敵軍に包み込まれて引き離され、あったため、正成は弟の正季(まさすえ)に「もはやこれまで」と言い、菊水の旗を翻して700余騎の軍勢で、足利軍の主力・足利直義の大軍に突撃して奮戦し、足利方の大軍を蹴散らして退却させ、直義をも敗走させます。
それを見た尊氏は、新手な軍を投入、吉良、高、上杉、石堂軍の総勢6千余騎が湊川の東に駆けつけて、楠木軍と戦うことになります。その後も3刻(6時間)の合戦で楠木軍は100騎にも満たない少数に激減、しかも全員が満身創痍、これ以上は無理とみた政面の合図で、楠木軍は囲いを破って疾駆して戦場を離脱、一軒の農家を見つけ無人なのを確かめてて馬を捨てて香駆け込み、正成は鎧を脱ぎ捨て、同行70余の部下に正成が死出の挨拶、弟の正季が兄の気持を代弁し「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼさん」と述べて家に火を点け、正成と刺し違えて自害して果てます。続いて橋本、宇佐美、神宮寺、和田ら一族郎党が差し違えて炎の中に倒れ込みます。
やがて南北朝の争いが、足利尊氏が率いた北朝側の勝利に終わると、南朝側武将の正成は朝敵とされます。
しkし、永禄2年(1559年)に正成の子孫・楠木正虎の赦免嘆願が認められ、正親町天皇の勅免が出て正成は朝敵ではなくなります。楠木正成はその生涯を後醍醐天皇のために「義」を貫きます。
これもまた武士道の鑑として讃えるべきと私も信じます。


柏木総蔵にみる武士道

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柏木総蔵(左)と江川太郎左衛門英龍(右)

柏木総蔵にみる武士道

花見 正樹

私の幕末史は、まず伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)から始まります。
この江川英龍抜きでは幕末内乱は語れないのです。
徳川家の民政を代行する代官として相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領を任され、最終的には約26万石にも及ぶ広大な地域を任されています。
江川家の歴史は古く、千年以上も遡るとその祖が清和天皇の皇孫で臣籍降下した源経基(みなもとのつねもと)で、そこから分家した大和源氏の祖とされる源頼親(みなもとのよりちか)が初代であることまで確かめることが出来、幕末に名を馳せた「世直し大明神こと江川太郎左衛門英龍は36世孫になります。
平安時代、江川家の祖先は大和国(奈良県)に一大勢力を築き、大和守(やまとのかみ)を名乗り、現在でも直系ご子孫は「大和将軍四十X世孫」という印を持っているそうです。
と同時に、太郎左衛門を世襲名としました。したがって、英龍の父は太郎左衛門英毅(ひでたけ)、英龍の子も太郎左衛門英敏、太郎左衛門英武となります。
その江川家の旧姓は宇野、平安時代に奈良から伊豆に移住した折に江川と改姓しています。
その後、源頼朝の伊豆旗揚げに参加し、鎌倉・室町幕府に仕えて、イ伊豆ヤマキの豪族として勢力を伸ばします。
16代江川英親(ひでちか)は、突如として世に現れた日蓮に帰依し、江川家は今日に至るまで日蓮宗の熱烈な支持者になっています。
室町幕府崩壊後の江川家は。北条早雲の伊豆入りに呼応して、23代英住(ひでずみ)が早雲の重臣となり、以後、後北条氏に仕えて韮山の地で代官を任されました。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原攻め際、北条方代官の江川家28代英長が徳川家康の軍門に下って従来通りに韮山での代官および領地を安堵されます。
それ以降の江川家は、享保8年からの35年間を除いて幕末までの間、徳川家を代行して相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領の代官として民政に当たることになります。
伊豆を拠点とした江川家は、酒造り、農地の改良、新たな作物の栽培、人材の発掘など天領の発展に尽くします。
とくに、36代江川英龍は、江戸3剣聖の一人、斎藤弥九郎と並ぶ神道無念流の達人の上に海外事情に詳しい文化人で、洋学の導入、民政・海防の整備に実績を残し、日本で最初にパンの製造に成功した人物としても知られています。
さらに、幕末期の江川家は、伊豆韮山の屋敷だけでなく、江戸屋敷も解放して「江川太郎左衛門鉄砲調練所」として諸藩の武士の軍事調練にあて、各藩から預かった弟子の総数は4千人を上回ったとする説もあります。
万延元年(1860)に咸臨丸(木村摂津守喜毅提督)で渡米した江川家手代、江川塾関係者は、中浜万次郎、小野友五郎、肥田浜五郎、松岡磐吉、吉岡勇平、根津欽次郎、福沢諭吉(桂家推薦・木村喜毅従者、江川家とも縁あり)、齋藤留蔵(鼓手・江川家が木村喜毅に従者に委託)などです。
なお、江川英龍が解放した韮山の軍事訓練所は、通称「韮山塾」として世に知られ、日本の近代に欠かせない多くの人材を輩出したのです。佐久間象山は英龍の弟子で、その門下生に吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎などがいます。
黒田清隆、大山巌、久坂玄瑞らも名を連ねています。
また、江川家の手代として剣友の斉藤弥九郎、アメリカ帰りのジョン万次郎などがいて、武術、砲学、語学などの学習に加えて、大砲(青銅製)や小銃製造なども本格的に学べるとあって東西各藩から選ばれた人材が集まって大変な賑わいでした。
その江川英龍を補佐して東翻西走、超多忙な陰の人物がいます。
それが、表題の柏木総蔵(忠俊・文政7年3月25日(1824年4月24日)~明治11年(1878年)11月29日)です。
柏木家は代々、江川太郎左衛門家の手代を務めてきた家柄です。
総蔵は父・柏木平太郎の三男として生まれ、14歳のときに江川英龍の中小姓兼書役見習となり、4年後の18歳で手代(公事方に進んで江戸詰となり、英龍の秘書的存在となって陰で活躍し、英龍に替わって諸方との折衝に当たったり、砲術・航海術・蒸気船製造、医学の習得までも目的とする長崎遊学をして、江川家のために働いています。当然ながら韮山反射炉や品川台場の築造に従事したり、江戸屋敷でパン製造を行ったり、と英龍の手足となって働き、その温厚で寡黙な人柄と並外れた実行力は、英龍の子等をも支えます。
代官・江川家に尽す柏木総蔵の隠れた名声はその人望と共に誰もが認めるところです。
その柏木総蔵が鳥羽伏見の戦いが勃発した直後、38代江川英武の出席も得て手代番頭を招集し緊急会議を開きます。
各藩を巻き込む内乱が勃発した今、江川家はどうすべきか議論は沸騰、手代の大半は幕閣に参加した先代英龍の義を守って幕府に殉ずるべきである、との説が過半数を占め、若い英武が亡き父の片腕でもある総蔵に決を仰ぎます。
それまで、瞑目して夫々の意見を聞いていた総蔵が決然として言い放ちます。
「江川家は新政府側に付く。徳川家に恩義はあれど、将軍が敗走して謹慎蟄居された今、幕府に利あらず」
総蔵は断腸の思いで江川家存続の道を選び、それに猛反発して激怒する齋藤新九郎らと決別を宣言します。
「江川家は戦いには出ぬ。双方に江川家に学んだ將がいての戦場に人は出さぬ」
その上で総蔵は、幕閣や各地各藩の資金力や士気、武器、意欲、信念、改革への意気込みなどを分析し、彼我の差から天朝を表面にして官軍を装う薩長連合に義はなけれど勝利への執念あり、準備整わず足並みの揃わぬ幕府軍に粘り抜く力なし、と分析し勝敗の行方を読み、江川家への義を守って主家の没落を防ぐ策を選んだのです。
その背信行為に対して、当然ながら手代、手付から怒りが爆発します。それを宥めたのが若い江川家当主・英武です。
「総蔵の言は、父の言葉と思え、これが父の遺言です。私は異論はありません」
江川家はいかなる逆境にも耐えて「生き残る」、これが文字にない家訓として伝わるからこそ千年の歴史があるのです。
これに反発して江川家を去って幕府軍に合流した手代もいますが、江川家の方針は総蔵の決断で決まりました。
坦庵の死後、江川英敏・江川英武を補佐し、維新時にはこうして素早く朝廷に帰属して江川家を守り、芝新銭座の大小砲習練場(江川塾)の土地は、幕府瓦解と共に、総蔵が長崎遊学時から親しくする福沢諭吉に払い下げて慶應義塾の教場に提供します。


その後も総蔵は江川家と地元のために尽し、足柄県設置後は参事から権令、県令へと進み、学制頒布に伴う教員養成のため講習所を設置、現在の静岡県立韮山高等学校の基礎を築きます。
総蔵は、旧門人の木戸孝允(桂小五郎)らの勧めを断って終生新政府に出仕することなく、福澤諭吉、木村喜毅ら旧幕臣との交遊を深め、主家の江川家を援けて伊豆の民業育成に尽くします。
柏木総蔵もまた神道無念流を学んだ武人として江川家への「義」に生きた傑物の一人です。


太田道灌にみる武士道ー2

 


太田道灌にみる武士道ー2
(義に生きた漢(おとこ)

花見 正樹

東京都荒川区のJR日暮里駅東口広場には、騎馬姿の堂々たる大田道灌の銅像があります。
銅像の名称は「回転一枝」で、製作は橋本活道氏、企画推進は文芸評論家の村田一夫氏(開運道顧問)です。
ここ日暮里地区には道灌山の地名や小学校名が存在し、太田道灌の勢力拡大の勢いを示しいます。さらに、さいたま市岩槻区にも太田という地名があり、岩槻市の芳林寺にも道灌の騎馬像が建立されています。
さらに、そこから東にある千葉県柏市には太田道灌の名を冠した小字(こあざ)の地名が9ケ所も実在していて、太田道灌が境根原合戦でここまで勢力を拡大していたことも、道灌が人々に好かれていたこともよく分かります。
江戸城を築いたほどの太田道灌ですから一国一城の城持ち大名かと思うとさにあらず、相模国守護大名・扇谷(おうぎやち)上杉定正の家宰(筆頭重臣)です。家臣でありながら主君以上の力量や人気があり、いつでも主家を乗っ取って併合することも可能でしたが、道灌はあくまでも筆頭重臣として主君を支えます。
扇谷上杉家を代表する存在の道灌は、鎌倉公方4代の足利持氏と本家筋の山内上杉家が対立して激しい戦い永享)の乱)でも真っ先に駆けつけて山内上杉家に味方して持氏を滅ぼしています。さらに、その後の享徳3年(1453年)以降は、持氏の遺児である古河公方・足利成氏との長期の戦い(享徳の乱)でも本家・山内上杉家のために一命を賭して戦っています。
その戦功もあって道灌の名声と勢力は、主君・扇谷上杉定正や本家・顕定を遙かに超えるようになっていきます。
その後も戦いは起こりますが、道灌の軍はよく主家の危機を援けて連戦連勝、ますます道灌の名声は大きくなるばかりです。
文明9年(1477年)には、前年に反乱を起こした山内上杉家の重臣・長尾景春が主家と扇谷家同盟軍が籠る五十子陣を急襲、
定正と顕定は完敗で命からがら上野国へ敗走、長尾軍の追撃で上杉同盟軍は最大の危機に陥ります。それを知った道灌は軍を率いて両軍主力と主君の救出に向かって長尾軍を撃破、立ち直った定正も転戦して勝利を収め扇谷家本拠の河越城を守ることが出来ました。
その後、主家の扇谷上杉定政が本家・上杉顕定とが、古河公方との和睦を巡って対立、道灌の仲介で和睦はなりますが、道灌の勢力が主家を遙かに凌いだことで周囲の妬み警戒から周囲の讒言(ざんげん)を買います。
扇谷定正は、本家の策謀に煽られて、山内上杉家重臣・長尾景春反逆の例から道灌の裏切りを恐れて道灌誅殺を決意します。
文明18年(1486年)7月26日、道灌は主君の扇谷定正から、「戦勝を祝う」と相模の糟屋館に招かれ、いて暗殺されます。
死に瀕した道灌が、主命により仕方なく道灌を刺した刺客が詠んだ上の句に、苦しい息の下から上の句に応え、さらに血を吐くように呻いた一言が遺されています。
「当方滅亡!」
命がけで主家の安寧のために戦い続けた道灌が、ついに主家の扇谷・上杉定正を見放した瞬間です。
そのまま道灌は息絶えます。
長期に渉っての冷遇に耐え忍びつつ「義」に生きた太田道灌・・・55歳の人生でした。