徳川慶喜にみる武士道-1

徳川慶喜にみる武士道-1

花見 正樹

私が新渡戸稲造の「武士道」現代版を呼んで半世紀、本物の復刻版を見て2年目、もっとも「武士道」と遠い幕末の著名人がこの方です。
義という面では自分に尽した松平容保を見捨てて自己保身に走った時点でアウトですし、仁としては多くの武将を捨てて大坂から夜逃げしたことで人情の機微も人の道も捨てたと解釈されても仕方ありません。しかも、その時はまだ征夷大将軍で武士の頂点にいたのですから武士道らしき言動が全くないとしたら余りにも惨め過ぎます。
そこで、鎌倉時代は三浦一族の神官であったわが先祖が徳川政権下ではしがない会津の郷士でしかなかった現実を踏まえると、神様のような存在の徳川様の論評などとんでもないことで打ち首どころか獄門張りつけですが、弁護なら100叩き程度で許されるはずです。
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府において第15代将軍として在職約1年で日本の武家政治の幕を閉じます。
天保8年(1837)9月29日、江戸小石川の水戸藩江戸屋敷において水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれます。
幼名は松平七郎麻呂で生後すぐ水戸に送られ、藩校・弘道館で学問・武術を学び、11歳で請われてを御三卿の一橋家の世嗣として家督を相続、名を慶喜とします。
嘉永6年(1853)に黒船来航、将軍・家慶の病死と混乱が続き、その跡を継いだ第13代将軍・家定が病弱のため、将軍継嗣問題が揉めますが、水戸の徳川斉昭と共に慶喜を推した薩摩の島津斉彬や老中・阿部正弘が急死したため、紀州藩の徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直が大老就任を機に将軍継嗣は南紀派の推す慶福(家茂)と決定します。
その井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、水戸藩の徳川斉昭、福井藩主・松平慶永、慶喜らの詰問を受けます。
それに対して直弼は、斉昭への隠居謹慎処分などいわゆる安政の大獄で反撃し多くの人命も奪います。
その結果。安政7年(1860)3月3日、水戸浪士らに桜田門外で殺され、慶喜は謹慎を解かれます。
文久2年(1862)、島津久が薩摩藩兵を伴って江戸に入って幕政に介入、松平春嶽を政事総裁職にした上に慶喜を将軍後見職に推し、久光自身も幕府と朝廷側との協力体制側にも力を貸すことに成功します。
これを機に幕閣内で力を得た一ツ橋慶喜と松平春嶽は、京都守護職の設置など幕政改革を積極的に進めます。
慶喜は将軍後見職の立場で上京し、朝廷側と攘夷の実行について協議した折に、従来通りに国政を江戸幕府に任せなければ、政権を朝廷に返上するがどうか? と無理難題のつもりで脅しますが朝廷側は素知らぬ振りで幕府側に攘夷の実行を迫ります。
元々勤皇思想の強い慶喜ですから天皇には逆らえません。朝廷側は慶喜の弱腰を見て、これを機に幕府に対して攻勢を強めます。
異国嫌いの孝明天皇から攘夷の実行を迫られた慶喜が江戸に戻って横浜鎖港を図ると、これに反発した開国派の松平春嶽が政事総裁お職を辞すなど、幕閣内の足並みも乱れます。
それでも慶喜は攘夷実行の方策として横浜鎖港方針を確定させます。
その後の政変で長州藩ら尊皇攘夷派が排斥され、公武合体派諸候と幕閣による参預会議のため再び上洛した慶喜は、横浜鎖港に反対する島津久光、松平春嶽、伊達宗城らを罵倒する暴挙に出て会議をも崩壊させる強硬手段に出ます。
その後、慶喜は将軍後見職を辞任、朝臣側に近い禁裏御守衛総督に就任して周囲を驚かせます。
しかし、慶喜が進めた横浜鎖港は、慶喜の後ろ盾になるべき水戸藩が天狗党の乱をめぐる幕閣内の対立に巻き込まれて慶喜の兄・直克も失脚し、慶喜が図った横浜鎖港は頓挫します。
その慶喜の勤皇攘夷思想を根本から変える事件が起こります。
元治元年(1864)7月に起きた長州藩によるクーデターです。この戦いで御所の守備軍を指揮した慶喜は、鷹司邸を占領していた長州藩軍を果敢に攻撃して、自ら抜刀して長州兵と地上での白兵戦を行っています。
この戦いで慶喜は勤皇攘夷派への融和的態度を棄て、一緒に戦った会津藩や桑名藩への信頼関係が深まることになります。
聡明で変わり身の早い慶喜は、自分の後ろ盾でもあった水戸藩天狗党の武田耕雲斎らも切り捨て、勤皇派の長州征伐を蹴った薬させ、幕府にとり長年の懸案事項であった諸外国に対する安政五カ国条約の勅許を得るために奔走し、慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、それを認めない場合は慶喜自らの切腹と幕軍の強硬暴発に言及し、遂に勅許を得ることに成功します。
ここにおいて、京都に近い兵庫港を除く主要港の開港への道筋はつきます。
慶応2年(1866)に幕府は第二次長州征伐戦を行いますが、坂本龍馬の仲介で結ばれた薩長同盟で薩摩軍の参加がない幕府軍は連戦連敗、その最中に将軍・家茂が大坂城で急死します。すかさず慶喜は休戦を決意、朝廷や会津藩の休戦反対の声を押し切って休戦の詔勅を得て長州藩と休戦協定を締結します。長州藩としてもこれ以上の国力の疲弊は免れたかったのです。
家茂の後継として将軍に幕閣や諸大名から推された慶喜は、これを何度も固辞し、徳川宗家は相続したが将軍職就任は拒み続けます。
かつて実父の水戸藩藩主・徳川斉昭にも「将軍には成らない。幕閣にあって国を支えるのが自分には向いている」と手紙で述べています。
しかし、他に人材のいないことから12月に入って将軍に就任したことから、周囲からは散々辞退した将軍職を受諾したのは、恩を売った形への「政略」とみる人も多く、慶喜の先を見通す聡明さがしばしば策士の策にとられているようです。
こうして将軍になった慶喜は、迷うことなく幕閣を開国体制へと本格的に移行させてゆきます。
慶喜は、会津藩と桑名藩を重く用い、朝廷との密接な連携を保ちながら、慶喜は京都と大阪を拠点に、多くの閣僚や幕臣を上洛させて、実質的には機内で幕府を開いているかのようでもありました。
また、将軍職に就いた慶喜は、これまで長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣ともよく話し合い連携して改革を推進しました。
慶喜は、フランス公使・レオン・ロッシュと強い信頼関係を結び、彼を通じてフランスから240万ドルの援助を受けて、横須賀製鉄所や造船所、修船所を建設します。
さらに、ジュール・ブリュネら軍事顧問団を招いて幕軍の軍制改革を行い、古い慣習を棄て、老中の月番制を廃止、陸軍総裁、海軍総裁、会計総裁、国内事務総裁、外国事務総裁の役職を設置して国政の近代化にも乗り出します。
また、実弟を含めて幕臣の子弟らをパリの万国博覧会に派遣、欧州留学なども奨励して日本の国際社会への参加を急ぎます。
この慶喜主導の開国政策を嫌った薩長が、武力倒幕路線に進むことになり、それを危ぶむ坂本龍馬の船中八策の建策により、慶喜は薩長討幕派の行動に先手を打って慶応3年(1867)10月14日、政権返上を奏上、翌日に勅許されて大政奉還が成立します。

つづく