木村摂津守喜毅(せっつのかみよしたけ)にみる武士道

 

木村喜毅(よしたけ)にみる武士道

花見 正樹

幕末三舟と聞けば歴史好きなら誰もが勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥州の名を挙げます。
では、幕末五舟とは? ここで田邊蓮舟、木村芥舟と出たら完全に歴史通ですが、ほぼ無理なようです。
この幕末期の五人はそれぞれが立派な活躍をした人物ですが、一般的な知名度では、この中で勝海舟だけがずば抜けています。
勝海舟の場合は、文武両道に優れて女好き、自由奔放に生きましたから、人生の楽しみ方でも五人の中では群を抜いているようです。
これに比して木村芥舟の場合はエリート街道まっしぐらですし、山岡高橋の義兄弟は武士の見本のような硬骨漢です。
ましてやここで語る木村芥舟こと木村摂津守喜毅などは謹厳実直ひたすら新しい国家建設に情熱を傾け私財を投じます。
この相反する性格の海舟こと勝義邦と木村喜毅では水と油、全く異質のコンビですが、この二人が約140日間、波高き太平洋上で過ごすのですから世の中、何が起こるか分かりません。勝義邦は、軍艦奉行・木村喜毅提督の下で教授方頭取として幕府軍艦・咸臨丸で初の太平洋横断に成功して歴史に名を刻みます。
木村家の祖は初代・昌高が第3代将軍家光の三男で甲府藩主・徳川綱重に仕えています。
昌高の子・木村家2代目の政繁は、徳川綱重の子で第6代将軍・徳川家宣に従って旗本に列します。
政繁の子で木村家3代目の茂次からは代々浜御殿添奉行・同奉行を務め、代々の将軍と親しい関係を続けることになります。
木村喜毅は文政13年(1830)2月27日に生まれ、幼名を勘助といいます。
幼いころから聡明で体も大きく、老中・水野忠邦に見いだされて12歳時に17歳として父・喜彦に連れられ浜御殿奉行見習として江戸城初出仕を果たしています。
その後は、12代将軍徳川家慶の寵恩を受け、さらに老中・阿部正弘に目を掛けられて西の丸目付に登用されますが、喜毅を陰で支えてくれたのは就学時代の先輩である岩瀬忠震(ただなり)で、老中・阿部正弘の下では岩瀬忠震、大久保忠寛(一翁)、木村喜毅、永井尚志(なおゆき)らがとくに重用され、喜毅は目付のまま長崎表御用取締として、長崎奉行の職務監察に当たることになります。
安政4年(1857)に長崎に赴任した喜毅は長崎海軍伝習所取締に就任、生徒の住環境改善や航海訓練海域の拡大による訓練生の操艦技術向上を図り、伝習所教官のオランダ軍人・ペルス・ライケン、カッテンディーケらの信頼を得ます、
安政6年(1859)5月に海軍伝習所が閉鎖され、江戸に戻った喜毅は目付に復帰、外国御用立合、神奈川開港取調、軍艦奉行並と次々に役職が上がっていきます。
そして迎えた万延元年(1860)、前年に締結された日米修好通商条約の批准のためにアメリカに派遣される正使・新見正興一行が乗る米艦ポーハタン号の護衛として、咸臨丸が派遣されることになり喜毅が軍艦奉行として咸臨丸提督に就任します。
喜毅は海軍伝習所所長時代の訓練生、浦賀奉行所、江川塾から人選し、勝義邦を艦長並の教授方頭取に抜擢、肥田浜五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、山本金次郎、中浜万次郎、鈴藤勇次郎、浜口興右衛門、小野友五郎らに、義兄の御殿医・桂川甫周に頼まれた書生の福沢諭吉を従者に加えています。水夫やアメリカ軍人ら総勢96人を乗せた咸臨丸は、浦賀からサンフランシスコまでを無事に航海し、遅れて到着した正使一行共々、熱烈な歓迎を受けて帰路に就きます。
この間に国内では、安政の大獄と言われる過酷な処罰を行った大老・井伊直弼が水戸浪士らに江戸城桜田門外で襲われて惨死、世情は荒れに荒れていました。
帰国後の木村喜毅は軍艦奉行に復帰し、直ちに列強に劣らぬ幕府海軍の創設のために骨身を惜しまず活動し、軍制改革によって幕府海軍長官となり、軍艦組を創設します。
海軍長官としての木村喜毅は、初の国産蒸気式軍艦「千代田形」の建造を開始、アメリカとオランダにも軍艦を発注、海軍軍人の育成に、
榎本武揚らを海外研修に出します。
さらに喜毅は、日本周辺海域防備のため、大型艦隊を各地に配備するために艦船の大量建造、海兵の募集を幕府に献策しますが、その壮大な構想に驚いた幕府閣僚の猛反対に遭って却下されます。幕閣が恐れたのは、身分に関係なく能力で階級が上がる西洋式軍隊制度によって、士農工商制度の崩壊だったのです。喜毅は自ら望んで軍艦奉行を辞職しますが、幕府に請われて再出仕して開成所頭取、目付、外国御用立合、海陸備向掛などを歴任します。
さらに、兵庫開港問題で老中と対立して罷免されますが、また幕政に復帰し軍艦奉行並となります。
そこで、ようやく小栗忠順や勝海舟の応援を得て、海軍の西洋式・階級俸給制度の導入に成功、海軍の基礎が出来上ったのです。
その後、鳥羽伏見の戦いが勃発、将軍が敵前逃亡して大坂から江戸に逃げ帰っては幕府軍に勝ち目はありません。
薩長土連合軍の江戸城総攻撃は、将軍警護の山岡鉄太郎の命がけの交渉などで避けることが出来、喜毅は勝手方兼任の勘定奉行として、江戸城開城の際には幕府の事務処理を務め、役目を終えて府中に去ります。
この木村喜毅の凄さは、咸臨丸での渡米の際、乗組員たちへの手当てを幕府に要求して容れられず、自分の書画骨董を処分して3千両(約2億円)もの大金を咸臨丸に積み込み、全員に報奨金や服装・土産代に分配し残らず使い切り、幕府から渡された渡航費用の5百両はそっくり返したところにあります。木村喜毅は私財を投げうって人を育て、外国に学んで日本の海軍創設に尽しました。その私欲のない潔い生き方にも感動しますが、将軍・徳川慶喜の進退に合わせた身の処し方にも武骨ながら芯の通った武人の魂を感じます。
この木村喜毅に関しては、同じ「歴史の舘」内「歴史こぼればなし」で連載中の「咸臨丸物語」をご覧ください。
その著者、宗像善樹講師の奥方が木村喜毅のご子孫で、「お休み処」内「史話秘話名所名物・雑学ルーム」担当の宗像信子講師です。

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