山岡鉄太郎にみる武士道-1


山岡鉄太郎にみる武士道-1

花見 正樹

戊辰戦争における江戸城無血開城と江戸を戦火から守ったのは間違いなく山岡鉄太郎です。
鉄太郎は天保7年6月10日(1836年7月23日)に江戸本所に蔵奉行で木呂子村知行主・小野朝右衛門高福の四男として生まれました。母の磯は、常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女で、ご先祖に鹿島新当流の祖・塚原卜伝を持つという出自です。
その血を受けたのか鉄太郎は、幼少時より剣の道に目覚め、9歳にして久須美閑適斎より直心影流を学び、10歳の弘化2年(1845)に、父が飛騨郡代となって飛騨高山に転居、岩佐一亭に書を学び、井上清虎より北辰一刀流剣術を学びます。
嘉永5年(1852)に父の死で江戸に戻り、20歳の安政2年(1855)に講武所に入り、千葉周作に剣術、山岡静山に槍術を学びます。山岡静山の急死で、静山の実弟・高橋謙三郎(泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚して山岡家に入り、山岡鉄太郎となります。
安政3年(1856)に講武所の世話役となり、安政4年(1857年)、清河八郎、高橋謙三郎ら15人と尊王攘夷を旨とする「虎尾(こび)の会」を結成します。
文久2年(1862)、清河八郎の建策で幕府により浪士組が結成されると、取締役に命じられ、文久3年(1863)年明け早々に、将軍・徳川家茂(いえもち)の護衛の先供として、浪士組を率いて上洛します。
ところが、浪士組結成の立役者である清河八郎が「尊皇攘夷こそ我らが本意である」と宣言して朝廷からの勅諚を得てしまいます。
その清河の動きに気づいた幕閣は、横浜寄留の外国兵隊に不穏な動きがあり警備のために、と称して浪士組の江戸帰還を命じます。
江戸に呼び戻された清河八郎は、同行の浪士組世話役・佐々木只三郎らによって暗殺され、虎尾の会の仲間であった山岡鉄太郎は、短い期間ではありますが謹慎処分を受けます。
その後、質実剛健で剛毅な性格の山岡鉄太郎は、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見のい戦勃発後も、精鋭隊歩兵頭格として幕府軍隊強化のために力を尽します。

慶応3年(1867)10月の大政奉還以来、将軍・徳川慶喜の立場は微妙に揺れ動きます。
新設予定の諸侯会議の議長にとの案も、討幕派の公家・岩倉具視や大久保利通と西郷隆盛らの薩摩組の主導で潰され、12月に入っての王政復古の大号令と小御所会議の決定で、慶喜の官職と領土の返上が命じられます。
思いもかけない事態に追い込まれた慶喜は、大坂城に退き対策を練ります。
公武合体・公議政体派の前土佐藩主・山内容堂、前越前藩主・松平春嶽、前尾張藩主・徳川慶勝らの巻き返しで、慶喜の立場はかなり回復しますが、すでに、討幕の密勅が薩摩と長州に下されていて、江戸薩摩邸の江戸市中破壊工作も活発化していました。
薩摩藩は、この破壊工作を江戸薩摩藩邸駐在の益満休之助と伊牟田尚平に命じます。この二人は、山岡鉄太郎の「虎尾の会」仲間です。
さらに薩摩藩は、相楽総三ら浪士を集めて江戸市内の商家や裕福な町民などを狙って強盗押し込み放火などの破壊工作を始めます。
しかも白昼堂々と群れを為して悪事を働いた浪人達は大手を振って薩摩藩邸に逃げ込むのですから放置は出来ません。
これに怒った江戸市中警備の庄内藩が、相手の挑発に負けて12月25日、ついに我慢できずに薩摩藩邸に砲弾を撃ち込みます。
これを待っていた薩摩藩の西郷隆盛は、直ちに同盟を結んだ長州藩や朝廷側と思われる西国諸藩に檄を飛ばし、朝廷の許しなく作った偽の錦の御旗を前面に押し出して、「討薩表」を携えて京の制圧を目指して進軍する幕府の大軍を迎え討ちます。
ここに戊辰戦争の火ぶたは切って落とされ、錦旗を飾す西軍は官軍、それに歯向かう幕府軍は賊軍、この図式が出来上がります。
戦況は早くから戦闘態勢を整えて満を持していた薩摩・長州軍の圧勝に終わります。
幕府軍が朝敵となったことと、脆くも敗退したことで、淀藩や津藩などが離反し、まだ初戦に敗れただけの6日、幕府軍の総大将でもあるべき将軍・慶喜は、味方の将兵を見捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へと逃走してしまいます。この慶喜の不甲斐ない遁走によって、鳥羽・伏見の戦いは終りました。      つづく