岩瀬忠震(ただなり)にみる武士道

岩瀬忠震(ただなり)にみる武士道

花見 正樹

岩瀬 忠震(ただなり)の知名度は一般的に地味ですが、水野忠徳(ただのり)、小栗忠順(ただまさ)と共に徳川幕府の要職にあって「幕末三俊」といわれ、優れた外交手腕を発揮して列強各国との折衝に尽力した幕臣で、島崎藤村の小説「夜明け前」にも登場します。
忠震(ただなり)は、文政元年11月21日(1818年12月18日)に旗本・設楽家の三男として江戸芝愛宕下の設楽邸に生まれ、称は設楽篤三郎(とくさぶろう)です。
設楽家は、宇和島藩主伊達村年の直系で、伊達政宗の子孫にもあたり、篤三郎の母は林述斎の娘で、おじに悪名高い鳥居耀蔵がいます。
設楽篤三郎は、若くして学問に優れ、天保11年(1840年)に岩瀬忠正に請われて家禄8百石の岩瀬家に婿養子に入り岩瀬忠震となります。
天保14年(1843)には優秀な成績で昌平坂学問所大試乙科に合格し表彰され、徐々に頭角を現します。
嘉永2年(1849)2月に幕閣に召し出され、西丸小姓番士(切米300俵)から始まって、徽典館学頭(30人扶持)、昌平坂学問所教授と一気にその才能を大きく開花させます。
その才能を認めた老中首座・阿部正弘は、忠震を目付に抜擢します。
それに応えた忠震は、講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所の開設や、軍艦や品川の砲台の築造などに力を尽します。
その功績によって外国奉行に任じられ、安政2年(1885)に来航したロシアのプチャーチンとの交渉に井上清直と共に臨み、日露和親条約を締結します。
さらに、安政5年(1858)には、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスとの条約締結に臨み、日米修好通商条約に署名するなど、積極的に阿部正弘の進める開国策に尽力して成果を上げます。
岩瀬忠震がいかに優秀な外交官であったかは、その交渉相手のタウンゼント・ハリスが遺した手記にも記されています。
「岩瀬、井上は、綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめることありき。懸かる優れた全権を得たりしは日本の幸福なりき」
全権等は日本の為に偉功ある人々なりき」と、後に当時の交渉のことを書き残している。
だが、岩瀬忠震の運命は、阿部正弘の死後に暗転します。
将軍継嗣問題で徳川慶喜(一橋徳川家当主)を支持する一橋派に属した忠震は、大老となった紀伊派の井伊直弼によって排斥され、安政6年(1859)のいわゆる安政の大獄で作事奉行に左遷された後、蟄居を命じられて江戸向島の岐雲園に籠もり、その2年後の文久元年(1861)に失意のうちに44歳の人生を病死で閉じます。
その心を支え続けたのが、生涯の友として死ぬまで交流を続けた木村喜毅(よしたけ)で、その交流の書簡には日常のことから国防に関する想いまで幕府への諫言をも交えて事細かに書き残されていて、忠震がいかに木村喜毅の友情に感謝していたかが窺えます。
岩瀬忠震が政治の表舞台に居たのはほんの僅かな期間ですが、日本の開国のために全力で尽したその足跡は偉大です。
例え、不遇の死であったとしても、岩瀬忠震の生きざまは立派、その大義において武士道を貫いています。