北条時政にみる武士道

北条時政にみる武士道

花見 正樹

北条時政は、平安時代末期の平氏一族の武将として伊豆守護の任にあった在庁官人説もある地元の豪族です。
北条氏は、第50代桓武(かんむ)天皇の末裔で、臣籍降下により平姓を賜った一族で、平将門、平清盛と同門の名家です。
時政の父は北条時方、母は伊豆掾伴為房の娘で、妻は伊東祐親の娘他となっていて子沢山、宗時、政子、時子、義時など15人がいます。
その伊豆の在地豪族でしかなかった時政に、天から降って湧いたような大きな転機が訪れます。
永暦元年(1160)3月、平治の乱で敗死した源義朝の嫡男・頼朝が、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の嘆願などによって斬首を免れ、伊豆蛭が小島(ひるがこじま)に流刑となり、時政が監視役に任じられます。頼朝は13歳でした。
頼朝の伊豆国での流人生活は、監視役の北条時政の庇護の下、殆ど自由で、三浦半島から房総半島までを行き来していました。
やがて、時政の娘・政子が頼朝と恋仲にあるのを知った時政は、一時は反対しますが、二人の婚姻を認め、その時から、頼朝を留罪人としてではなく、北条一族への天下取りへの手駒と考えて暗躍します。
治承4年(1180)、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が栄華を極める平氏の追討を命ずる令旨を、諸国に隠棲する源氏一族に発します。当然ながら、伊豆国に琉人となって成長した頼朝の元にも、叔父の源行家を通じて密かに届けられます。
それを知った時政は、「いまだ機至らず」と、逸る頼朝を諫めて挙兵を断念させます。
案の定、時政の見込み通り、以仁王は、決起した源頼政らと共に宇治で敗死します。
しかし、勝ち誇った平氏軍は、以仁王の令旨を受けた諸国の源氏一族の掃討を企て、伊豆の頼朝にも追討の気配を見せます。
それをいち早く知った時政は、頼朝の危機を救うと同時に自分の野望への好機とみて、平氏一族ながら身内を招集して、頼朝の挙兵に協力します。
挙兵を決めた頼朝も、直ちに縁故のある坂東の豪族に平家討伐の挙兵を呼びかけます。
挙兵して最初の戦いは、治承4年(1180)8月の伊豆国目代・山木兼隆の韮山屋敷襲撃です。
、この戦いは、北条時政率いる頼朝軍の完勝でした。
伊豆を制圧した頼朝軍300騎は、三浦義澄、和田義盛軍と合流すべく相模国土肥郷へ向かって進みます。
しかし、三浦・和田軍と合流する前に、待ち伏せした平氏方大庭景親、熊谷直実、伊東祐親軍ら三千余騎に襲撃され、多勢に無勢で敗北して、頼朝は僅かな家来と箱根山中に逃げ、箱根権現社に匿われ、数日後に真鶴岬から船で安房国へ脱出します。これが石橋山の戦いです。
北条時政父子も他の伊豆国武士らと共に闘いますが、時政の嫡男・宗時が伊東祐親の軍勢に囲まれて戦死、時政は、頼朝と別れて甲斐に逃げます。
安房国に脱出した頼朝は、房総の豪族・上総広常と千葉常胤に加勢を求め、その大軍を率いて再び挙兵します。
さらに、武蔵の豪族・葛西清重と足立遠元軍の参加を得た上に、かつては敵対していた畠山重忠や河越重頼らの寝返りもあって、軍勢は強大になります。
一方、甲斐に逃れた北条時政は、甲斐の豪族・武田信義らの支援を得て2万の軍勢を率いて、頼朝軍との合流に向けて出発します。
同年10月、平維盛率いる平氏側追討軍と、甲斐から馳せ参じた時政と武田信義軍と合流した頼朝軍が富士川を挟んで対峙します。
この時、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った平家軍が潰走し、頼朝軍は闘わずして勝利を収めます。
再挙兵した頼朝軍が、平家との闘いに勝利したとの報は全国を駆け巡り、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏の殆どが挙兵して頼朝の旗の下に集まり、全国各地は平氏と源氏の衝突で動乱状態となったのです。
平氏も、福原に移した都を京都に都を戻して反撃に転じ、近江源氏や南都の寺社勢力を制圧して軍勢の強化を図ります。
しかし、平家打倒の声は高く、養和元年(1181)には肥後国の菊池隆直、尾張国の源行家、美濃の美濃源氏一党なども挙兵し、頼朝軍に加勢します。
その動乱のさ中に、平清盛が熱病で世を去ります。
その後、一進一退の膠着状態が続き、頼朝から後白河法皇に「朝廷に対する謀反の心はなく、平氏と和睦しても構いません」との和睦案を出すが、清盛の後継者である平宗盛はこれを拒絶します。
それは、清盛の遺言に「わが墓前に頼朝の首を供えよ」とあるからです。
中略
平家を倒した功労者は二人、源義仲と源義経ですが、その二人共頼朝に倒されます。
木曽の中原一族を率いて戦った義仲軍は連戦連勝でしたが、頼朝に追われていた叔父の源義広・行家を匿ったことで頼朝に睨まれ、義仲の嫡子・義高を頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に差し出すことで和議を成立させますが、結局は頼朝軍に討たれます。
一方の義経も、壇ノ浦の戦いなどで抜群の働きをしますが、結局、謀反の疑いありとして頼朝の追討軍に追い詰められて自殺します。
頼朝はさらに、過去に義経を匿った藤原泰衡を反逆の罪に問い、朝廷の勅許を得られないままに奥州征伐を成し遂げます。
建久3年(1192)3月に後白河法皇が崩御、同年7月に頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに鎌倉幕府が認められます。

頼朝の鎌倉幕府開設の陰の立役者である義父の北条時政は多忙でした。
時政は、京の治安維持、平氏残党の捜索逮捕、義経問題の処理、朝廷との政治折衝、など頼朝の政治的行動の多くの部分を多岐に渡って引き受けていました。その施策は実直で誠実との評価で全体として好評でした。
時政は京都守護を4ケ月間だけ勤め、鎌倉に帰還してからは、表舞台から姿を消します。
しかし、時政は眠っていたわけではありません。
頼朝の死後は、時政は積極的に頼朝派を弾圧してゆきます。
頼朝の嫡子・頼家が跡を継ぎますが、頼朝在世中に抑えていた不満が噴出、それまで御家人統制を任されていた頼朝ご贔屓の侍所別当・梶原景時を弾劾して失脚させ、鎌倉から追放します。
この時、時政は弾劾の連判状に署名していませんが、景時が失脚して広大な支配地を得るのは時政だけに、誰もが時政が仕掛けた事件とみています。
建仁3年(1203)9月には、時政は、頼家と共に時政暗殺を企てたとされる比企能員を自邸に招いて謀殺し、頼家の将軍職を廃して伊豆国修善寺へ追放します。
時政は、頼家の弟の実朝(13歳)を3代将軍に擁立して、初代執権として幕府の実権を掌握します。
こうして、頼朝在世中には裏方に徹していた時政が表舞台に姿を現し、幼い実朝に替わって政務を行ったのです。
しかも、小豪族だった北条家は、どこの豪族にも対抗し得る強大な軍事力をも擁するようになっていたのです。
さらに時政は、牧の方と共謀して幼い将軍・実朝をも殺害しようと図るが、娘の政子や義時らに策を見破られ、結城朝光や三浦義村らを遣わして、時政邸にいた将軍・実朝を救出して義時邸に迎え入れます。
この事件で、今まで時政側についていた御家人達の大半が、義時に味方したことで時政の陰謀は完全に失敗し、時政は幕府内で完全に孤立して、その立場を失います。孤立した時政は出家しますが鎌倉から追放され、伊豆国の北条で隠居し、建保3年(1215)1月6日に、長年過ごした伊豆で死去します。享年78歳でした。
娘の政子可愛さと天下取りに加担して、自分が属する平家一門を壊滅させた罪を負って、源氏を滅ぼし平家の世を取り戻そうと図った北条時政は、まさしく平家一門の本筋である平清盛と同じ桓武天皇の流れで、武士道からは遠い存在えすが気になります。。
その時政の野望は政子に引き継がれ、時政の死後4年を経て、将軍・実朝が身内の公暁に殺されるに及んで達せられます。
完全に滅びたとされる平氏の天下が、そこから甦るのです。
北条時政の執念は、その名は晩節を汚したことで悪名だけが歴史に残ったとしても「凄い!」のです。
これは是非、アンチ「武士道」として書いておきたいと思ったのです。
私は、きっとどこかで時政の裏表がある生き様が好きなのかも知れません。