織田信長にみる武士道-2

織田信長にみる武士道-2

花見 正樹

天文20年(1551)、信長の父・信秀が42歳で病死します。
信長が父の葬儀で焼香に立ち会ったときの服装と態度が記録に残っています。
髪を束ねただけのちゃせん髷で、袴なしの着流しに長柄の太刀と脇差を藁縄で腰にくくりつけた姿で信長は現われます。
香をわしづかみにして仏前に投げつけ、一瞥してその場を去ったとあり、誰もが眉をひそめたとあります。
この「大うつけ」ぶりで信長は周囲の敵を欺き続けて力をつけ、徐々に本当の姿を表してゆきます。
ただし、このだらしのない無秩序な性格もまた、信長の本当の姿であるのは間違いありません。
信長が家督を継ぐと、戦う集団として家臣の結束が固くなり、次々に周辺を従属させていきます。
それまでの尾張は織田一族が枝分かれしていましたが、信長が智勇と武力でたちまち統一して国主となります。

永禄3年(1560)5月、駿河の大名・今川義元が4万を超える大軍で上洛の途中、尾張を通ります。
それに抵抗する織田軍の総兵力は5千弱、とても今川軍を阻止できません。
当時人質だった三河国の松平元康(後の徳川家康)軍が先鋒となり、織田軍の城や砦を次々に殲滅させます。
しかし、信長は臆することなく今川の大軍に立ち向かいます。
敵の油断を突いて桶狭間において今川義元を襲い、白兵戦の末にこの強敵を倒しました。
記録では5月19日の正午過ぎ、家来の前で敦盛を舞った信長は、立ったまま湯漬けをかけて食べて出陣します。
熱田神宮に昆布と勝ち栗を備えて参拝した後、2千人の軍勢で、休憩中の今川陣中に強襲をかけます。
この桶狭間の戦いを、世間では奇跡の勝利といいますが、兵力ではるかに劣る織田軍であっても、総大将の信長が先陣を切って敵陣に飛び込み、刀を振るって今川の兵を斬りまくった鬼神のごとき働きが少数の部下を鼓舞して勝利に結びついたのです。
日頃から尾張の内戦で戦いに明け暮れた戦闘集団を率いる信長と、大軍に守られて貴族風に奢った今川義元の差が、明暗を分けたのも自然の理です。
この桶狭間の戦いで前の国主・今川義元を失った今川氏真は、全軍に銘じて本国の駿河に退却して戦いは終わります。
織田信長は、全軍に命じて、戦い破れて帰国の途につく今川軍の追討を止めさせて、静かに見守ります。
冷酷非道に見える信長にも、武士の情けはあったのです。