坂本龍馬にみる武士道-1

坂本龍馬にみる武士道-1

花見 正樹

この同じ歴史の館で「坂本龍馬」コーナーを担当する友人の小美濃清明講師は間違いなく龍馬研究の第一人者です。
ここで私が坂本龍馬について書くのは少々気がひけますが、これも成り行き、遠慮しても仕方ありません。。
私も「小説・坂本龍馬異聞」を上梓しているのですから坂本龍馬に興味があるのは確かです。
私は若い頃、「龍馬とおりょう」という短編小説を雑誌に載せたことがあります。
後年、坂本龍馬本家のご子孫にお聞きした「お龍認めず」の私見には驚きました。
私の「坂本龍馬異聞」でも、お龍の末路は悲惨でただただ哀れですが、死してまだ評価されないのです。
ところで、私の龍馬評が他の人と違うのは、龍馬は幕府方にも好意的だった、からです。
龍馬は幕府は不要としましたが、あの時すでに幕閣内でも幕府を解体しての公武合体論が出ていました。
したがって、武力討幕をしなくても島津も毛利も鍋島も岩倉も参政できたのです。
ただ、その場合、大久保一蔵、西郷吉之助などの下士が参政できた保証は何もありません。
やはり、彼らにとっては武力クーデターが必要だった。
それには一番の障害が、公武合体政治の頭領に「徳川慶喜もあり」とした坂本龍馬だったのです。
したがって、坂本龍馬暗殺は、武力討幕側の邪魔者排除工作とみることも出来ます。
だとすると、龍馬が考えていた案は、日本の将来には役立っても、西郷、大久保の名コンビには嫌われたことになります。

龍馬は裕福な土佐藩郷士・坂本家の次男として生まれ、兄と3人の姉がいました。
幼少時は、軟弱、甘えっ子で塾もいじめられて退塾、姉の乙女に文武両道を仕込まれます。
12歳で母が死去、父の後妻に養育されます。
13歳の頃、後妻の前夫の実家に出入して外国の品や知識に触れ海外雄飛の夢を持ちます。
14歳で日根野道場に入門して剣術を熱心に稽古して学び、19歳で小栗流和兵法事目録を得ます。
この頃の龍馬は、前向きで積極的な性格に変っています。
19歳の龍馬は剣術修行のため江戸に自費遊学を許され、北辰一刀流千葉道場、千葉定吉に入門します。
ここで、貞吉の娘・千葉佐那と知り合い恋に落ちます。
姉の乙女にべったりだった龍馬は女性との接触に慣れていて、佐那とはすぐ馴染んだものと推測できます。龍馬の江戸修行中にアメリカのペリー率いる黒船艦隊が浦賀沖に来航、龍馬も品川の土佐藩下屋敷警備を命じられます。
20歳の龍馬は「異国人の首を打ち取る」との手紙を乙女姉に書き送っています。
龍馬は剣術修行と併せて佐久間象山塾に入学して、砲術、漢学、蘭学も学びます。
土佐に帰国した龍馬は日根野道場の師範代を務め、国際情勢や海運、オランダ語も学びます。
子供の頃は泣き虫だった龍馬も徐々に逞しくなり、男らしく武士らしくなりつつありました。
21歳の時に父が他界、兄が家督を継いだのを機に、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して許されます。
いよいよ独り立ちしての武者修行の旅が始ります。

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