柏木総蔵にみる武士道

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柏木総蔵(左)と江川太郎左衛門英龍(右)

柏木総蔵にみる武士道

花見 正樹

私の幕末史は、まず伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)から始まります。
この江川英龍抜きでは幕末内乱は語れないのです。
徳川家の民政を代行する代官として相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領を任され、最終的には約26万石にも及ぶ広大な地域を任されています。
江川家の歴史は古く、千年以上も遡るとその祖が清和天皇の皇孫で臣籍降下した源経基(みなもとのつねもと)で、そこから分家した大和源氏の祖とされる源頼親(みなもとのよりちか)が初代であることまで確かめることが出来、幕末に名を馳せた「世直し大明神こと江川太郎左衛門英龍は36世孫になります。
平安時代、江川家の祖先は大和国(奈良県)に一大勢力を築き、大和守(やまとのかみ)を名乗り、現在でも直系ご子孫は「大和将軍四十X世孫」という印を持っているそうです。
と同時に、太郎左衛門を世襲名としました。したがって、英龍の父は太郎左衛門英毅(ひでたけ)、英龍の子も太郎左衛門英敏、太郎左衛門英武となります。
その江川家の旧姓は宇野、平安時代に奈良から伊豆に移住した折に江川と改姓しています。
その後、源頼朝の伊豆旗揚げに参加し、鎌倉・室町幕府に仕えて、イ伊豆ヤマキの豪族として勢力を伸ばします。
16代江川英親(ひでちか)は、突如として世に現れた日蓮に帰依し、江川家は今日に至るまで日蓮宗の熱烈な支持者になっています。
室町幕府崩壊後の江川家は。北条早雲の伊豆入りに呼応して、23代英住(ひでずみ)が早雲の重臣となり、以後、後北条氏に仕えて韮山の地で代官を任されました。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原攻め際、北条方代官の江川家28代英長が徳川家康の軍門に下って従来通りに韮山での代官および領地を安堵されます。
それ以降の江川家は、享保8年からの35年間を除いて幕末までの間、徳川家を代行して相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領の代官として民政に当たることになります。
伊豆を拠点とした江川家は、酒造り、農地の改良、新たな作物の栽培、人材の発掘など天領の発展に尽くします。
とくに、36代江川英龍は、江戸3剣聖の一人、斎藤弥九郎と並ぶ神道無念流の達人の上に海外事情に詳しい文化人で、洋学の導入、民政・海防の整備に実績を残し、日本で最初にパンの製造に成功した人物としても知られています。
さらに、幕末期の江川家は、伊豆韮山の屋敷だけでなく、江戸屋敷も解放して「江川太郎左衛門鉄砲調練所」として諸藩の武士の軍事調練にあて、各藩から預かった弟子の総数は4千人を上回ったとする説もあります。
万延元年(1860)に咸臨丸(木村摂津守喜毅提督)で渡米した江川家手代、江川塾関係者は、中浜万次郎、小野友五郎、肥田浜五郎、松岡磐吉、吉岡勇平、根津欽次郎、福沢諭吉(桂家推薦・木村喜毅従者、江川家とも縁あり)、齋藤留蔵(鼓手・江川家が木村喜毅に従者に委託)などです。
なお、江川英龍が解放した韮山の軍事訓練所は、通称「韮山塾」として世に知られ、日本の近代に欠かせない多くの人材を輩出したのです。佐久間象山は英龍の弟子で、その門下生に吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎などがいます。
黒田清隆、大山巌、久坂玄瑞らも名を連ねています。
また、江川家の手代として剣友の斉藤弥九郎、アメリカ帰りのジョン万次郎などがいて、武術、砲学、語学などの学習に加えて、大砲(青銅製)や小銃製造なども本格的に学べるとあって東西各藩から選ばれた人材が集まって大変な賑わいでした。
その江川英龍を補佐して東翻西走、超多忙な陰の人物がいます。
それが、表題の柏木総蔵(忠俊・文政7年3月25日(1824年4月24日)~明治11年(1878年)11月29日)です。
柏木家は代々、江川太郎左衛門家の手代を務めてきた家柄です。
総蔵は父・柏木平太郎の三男として生まれ、14歳のときに江川英龍の中小姓兼書役見習となり、4年後の18歳で手代(公事方に進んで江戸詰となり、英龍の秘書的存在となって陰で活躍し、英龍に替わって諸方との折衝に当たったり、砲術・航海術・蒸気船製造、医学の習得までも目的とする長崎遊学をして、江川家のために働いています。当然ながら韮山反射炉や品川台場の築造に従事したり、江戸屋敷でパン製造を行ったり、と英龍の手足となって働き、その温厚で寡黙な人柄と並外れた実行力は、英龍の子等をも支えます。
代官・江川家に尽す柏木総蔵の隠れた名声はその人望と共に誰もが認めるところです。
その柏木総蔵が鳥羽伏見の戦いが勃発した直後、38代江川英武の出席も得て手代番頭を招集し緊急会議を開きます。
各藩を巻き込む内乱が勃発した今、江川家はどうすべきか議論は沸騰、手代の大半は幕閣に参加した先代英龍の義を守って幕府に殉ずるべきである、との説が過半数を占め、若い英武が亡き父の片腕でもある総蔵に決を仰ぎます。
それまで、瞑目して夫々の意見を聞いていた総蔵が決然として言い放ちます。
「江川家は新政府側に付く。徳川家に恩義はあれど、将軍が敗走して謹慎蟄居された今、幕府に利あらず」
総蔵は断腸の思いで江川家存続の道を選び、それに猛反発して激怒する齋藤新九郎らと決別を宣言します。
「江川家は戦いには出ぬ。双方に江川家に学んだ將がいての戦場に人は出さぬ」
その上で総蔵は、幕閣や各地各藩の資金力や士気、武器、意欲、信念、改革への意気込みなどを分析し、彼我の差から天朝を表面にして官軍を装う薩長連合に義はなけれど勝利への執念あり、準備整わず足並みの揃わぬ幕府軍に粘り抜く力なし、と分析し勝敗の行方を読み、江川家への義を守って主家の没落を防ぐ策を選んだのです。
その背信行為に対して、当然ながら手代、手付から怒りが爆発します。それを宥めたのが若い江川家当主・英武です。
「総蔵の言は、父の言葉と思え、これが父の遺言です。私は異論はありません」
江川家はいかなる逆境にも耐えて「生き残る」、これが文字にない家訓として伝わるからこそ千年の歴史があるのです。
これに反発して江川家を去って幕府軍に合流した手代もいますが、江川家の方針は総蔵の決断で決まりました。
坦庵の死後、江川英敏・江川英武を補佐し、維新時にはこうして素早く朝廷に帰属して江川家を守り、芝新銭座の大小砲習練場(江川塾)の土地は、幕府瓦解と共に、総蔵が長崎遊学時から親しくする福沢諭吉に払い下げて慶應義塾の教場に提供します。


その後も総蔵は江川家と地元のために尽し、足柄県設置後は参事から権令、県令へと進み、学制頒布に伴う教員養成のため講習所を設置、現在の静岡県立韮山高等学校の基礎を築きます。
総蔵は、旧門人の木戸孝允(桂小五郎)らの勧めを断って終生新政府に出仕することなく、福澤諭吉、木村喜毅ら旧幕臣との交遊を深め、主家の江川家を援けて伊豆の民業育成に尽くします。
柏木総蔵もまた神道無念流を学んだ武人として江川家への「義」に生きた傑物の一人です。