楠木正成にみる武士道

楠木正成にみる武士道

花見 正樹

楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武士です。
生誕は永仁2年(1294年)で死没は延元元年(建武3年)5月25日(1336年7月4日)が定説になっています。
幼名は多聞丸、長じて兵衛尉から正成となっています、
官位は、従五位上、検非違使、左衛門少尉、河内国・和泉国・摂津国の守護、贈正一位などです。
生涯を後醍醐天皇に仕え、兄弟子供ら楠木一族を上げて後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献します。
建武の新政では、足利尊氏らと共に後醍醐天皇を助けますが、尊氏が北朝を奉じて反抗した後は、新田義貞、北畠顕家と共に
南朝側の武将として後醍醐天皇軍の一翼を担いますが、湊川の戦いで尊氏の大軍に敗れて自害して果てます。
単純にいえば、以上の通りですが、悪党と呼ばれる河内の土豪(大阪府南河内郡千早赤阪村)の家に生まれて、歴史の表舞台に登場し、死後は「大楠公」とも称されて忠臣の鑑とされ、かつては教科書にも登場していました。
「太平記」によると、正成は河内金剛山の西にある、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとあります。
楠木正成の初戦は、元亨2年(1322年)、北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党との闘いで、渡辺党を壊滅し、次いで紀伊国安田庄司の湯浅氏を討ち、さらに南大和の越智氏をも撃滅して連戦連勝の戦功を挙げています。
湯浅氏とは領地問題、越智氏は六波羅役人殺害で幕府に所領没収で対立、北条高時は斎藤利行らを派遣しますが、毎回、越智氏らのゲリラ戦法に敗れていました。
そのため、六波羅は正成を起用し、正成は越智氏を討つことに成功します。
無名だった楠木正成が、幕府が手こずっていた渡辺党、湯浅氏、越智氏を討幕したことで幕府内、六波羅、世間の間に強烈な印象を持たれ一躍有名になります。
その後、正成は幕府被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担することになります。
正成は河内に戻り、赤坂城(下赤坂城)で挙兵します。
倒幕に集まった有力武将は正成を除くと少数で、大軍を擁する幕府軍は一日で決着がつくと考え、直ちに攻撃を開始します。
笠置山に籠もった後醍醐天皇の本陣はたちまち陥落、後醍醐天皇らは捕えられますが、赤坂城に籠もった正成軍は幕府軍と戦って、少数で多勢の幕府軍を再三再四撃破します。敵が山頂に近ずけば弓矢や大石で応戦し、城壁に吊るした偽の塀を切って落とすなどで敵を退け、敵が楯を用意して攻めれば熱湯をかけて追い払うなど奇策を用いて幕府軍を翻弄します。
しかし、難攻不落と思われた赤坂城も急造の山城ですから、食料や水の備蓄にも限度があり、長期戦には適しません。そこで、正成は夜陰に紛れて敵兵の死体を集めさせ、大きな穴を掘って死体と薪を積み、城諸共火を放って裏山伝いに全員で逃げます。
赤坂城が炎に包まれたのは元弘元年(1331年)10月21日の夜です。
翌朝、幕府軍が山に登ると、焼け落ちた大穴に見分けのつかない焼死体が数十体、正成以下の楠木軍が「もはやこれまで」と一族全員で死を選んだ、とみて意気洋々撤退、同年の11月はに関東へ凱旋します。
赤坂城および正成の旧領は、正成と因縁深い湯浅宗藤が幕府によって派遣され、城を守ることになります。
元弘2年(正慶元年・1332年)4月3日、正成軍は湯浅宗藤軍の兵糧運搬集団(約500人)を襲って蹴散らし、食料を奪って隠し、その集団に化けて武器を食料に見せかけて隘路に入って蜂起、、城外の軍勢も同時に木戸を破って雪崩れ込み、湯浅軍は成すすべもなく降参、正成は戦うことなく赤坂城を奪還しました。
楠木軍は湯浅氏の軍勢も自軍に引き入れ、勢いづいて和泉・河内を制圧、5月には摂津の住吉・天王寺に進攻し、正成の奇略も生かして六波羅探題軍を打ち破ります。
その状況を知った北条高時は9月下旬、30万以上の幕府軍を派遣します。
これを知った正成は、赤坂城の背後に千早城を築き、さらに、金剛山一帯に点々と要塞を築きます。
元弘3年(1333年)2月以降、幕府軍と正成軍は激しい戦いを繰り広げている間に、後醍醐天皇が隠岐を脱出します。
後醍醐天皇の活躍と、後醍醐天皇の皇子・護良(もりなが)親王と組んだ正成らの活躍に各地に倒幕の機運が各地に広がり、赤松円心らに次い、で5月には足利高氏(のち尊氏)が後醍醐側に寝返って六波羅を攻め落とします。
さらに、幕府から多額の献金を求められた新田義貞の反逆で、ついに鎌倉幕府は壊滅、北条一族は舘に火を放って自刃します。
こうして醍醐天皇が京に凱旋、建武の新政が始まり、戦功第一の正成は、記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)と重要な職務を兼ねた上に、河内の他にも土佐安芸の荘、出羽、常陸など多くの所領を与えられます。
正成は、建武の新政までは後醍醐天皇の絶大な信任を受けていたのです。
その後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛されたのを機に、護良親王側近の正成は建武政権の役職を辞しています。
さらに、足利尊氏が、鎌倉で後醍醐新政に離反して反抗ののろしを上げま、それを追討すべく派遣された新田義貞が箱根・竹ノ下の戦いで敗れて京へと逃げ戻り、これを追う尊氏は京へと迫り、それを迎え討つ後醍醐軍に楠木正成は、北畠顕家や新田義貞軍と合流します。
この合戦で、尊氏に一度は京都を制圧しますが、義貞、顕家、名和長年、千種忠顕らの総攻撃に加えて、正成の策略と奇襲によるって尊氏軍の大軍を撃退し京都奪還に成功、その後の戦いで、尊氏の軍を九州へと駆逐します。
この合戦後、尊氏に好意をもつ正成は、後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しますが、一笑に付されて拒絶されます。
この時、正成は、尊氏と義貞の私憤が争いの元とみて、義貞の首を以て尊氏と和睦との説を提言します。
後醍醐天皇側近の公家達の意見を重視する天皇は、反旗を翻した護良親王側近の正成の意見を重用しなくなっていたのです。 そして、正成に最期の時が迫ります。
足利尊氏が九州を出て各地の有力武将を集めて大軍で再び京に迫まります。
それを迎え討った義貞軍が、大軍に一蹴されて兵庫に退却したという早馬が届くと、後醍醐天皇は直ちに正成を呼び出して、一刻も早く義貞軍と合流して尊氏軍を迎え撃つように命じます。
正成は冷静に、勢いづいた尊氏の大軍に対して、新田と楠木両軍を合わせた小勢では確実に負け戦になる、新田軍を京に呼び戻して総力を結集して淀川口で迎え討てば勝機はある、と進言します。
この正成の必勝の策も後醍醐天皇には容れられず、「即刻兵庫に急ぎ義貞軍に合流せよ」との命が降りました。
これは、後醍醐天皇が側近の古参の公卿・坊門清忠の意見を尊重したからです。
この絶望的な状況下で死を覚悟した正成は、息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日限り」と、再起を図るように言い含めて桜井の宿から河内へと息子を帰します。
湊川の戦いでは、多勢に無勢で正成と義貞の軍はたちまち敵軍に包み込まれて引き離され、あったため、正成は弟の正季(まさすえ)に「もはやこれまで」と言い、菊水の旗を翻して700余騎の軍勢で、足利軍の主力・足利直義の大軍に突撃して奮戦し、足利方の大軍を蹴散らして退却させ、直義をも敗走させます。
それを見た尊氏は、新手な軍を投入、吉良、高、上杉、石堂軍の総勢6千余騎が湊川の東に駆けつけて、楠木軍と戦うことになります。その後も3刻(6時間)の合戦で楠木軍は100騎にも満たない少数に激減、しかも全員が満身創痍、これ以上は無理とみた政面の合図で、楠木軍は囲いを破って疾駆して戦場を離脱、一軒の農家を見つけ無人なのを確かめてて馬を捨てて香駆け込み、正成は鎧を脱ぎ捨て、同行70余の部下に正成が死出の挨拶、弟の正季が兄の気持を代弁し「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼさん」と述べて家に火を点け、正成と刺し違えて自害して果てます。続いて橋本、宇佐美、神宮寺、和田ら一族郎党が差し違えて炎の中に倒れ込みます。
やがて南北朝の争いが、足利尊氏が率いた北朝側の勝利に終わると、南朝側武将の正成は朝敵とされます。
しkし、永禄2年(1559年)に正成の子孫・楠木正虎の赦免嘆願が認められ、正親町天皇の勅免が出て正成は朝敵ではなくなります。楠木正成はその生涯を後醍醐天皇のために「義」を貫きます。
これもまた武士道の鑑として讃えるべきと私も信じます。