芹沢鴨にみる武士道

芹沢鴨にみる武士道

花見 正樹

芹沢鴨(せりざわ かも)は、天保3年(1832年)に真壁郡芹沢村に生れました。
前名は下村嗣次(継次なども)、出自には諸説あり、どれもが明らかになっていません。
一説によれば、芹沢家の先祖は室町時代に常陸国行方郡芹沢村(現茨城県行方市芹沢)に定着した豪族で、関ケ原の戦いの戦功によって行方郡富田村(現行方市富田)に知行百石で定住、水戸藩上席郷士(士分)となります。
嗣次は、その芹沢家の出身で、多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官・下村祐の婿養子になったとの説もあります。
安政5年(1858年)の戊午の密勅返納阻止事件に関り、万延元年(1860年)には玉造勢に入って暗躍します。
玉造勢は、玉造村の文武館(現茨城県行方市玉造)に拠点を置き、横浜で攘夷を決行するために近郊の豪商から資金調達を始め、嗣次は弟分の新家粂太郎(後の新見錦か?)と共に資金集めに奔走します。
この強引な資金集めが代官から幕府訴えられ、首謀者の武田耕雲斎が江戸に呼び寄せられて調べられた結果、文久元年(1861年)2月、「不法の者召し捕り」の命が出て、玉造勢の下村嗣次、新家粂太郎らも捕縛され入牢となります。
ところが、水戸藩内の政変で力関係が逆転し、恩赦による特典で入牢していた嗣次らは釈放され、武田耕雲斎も藩政に復帰します。
下村嗣次は芹沢鴨と名を改め、出牢して約一か月後に清河八郎の周旋で、将軍警護の名の元に集められた浪士組に、弟分の新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助等を引き連れて参加します。
そこで、試衛館の近藤勇や土方歳三。沖田総司や山南敬助らと知り合い京都へと行動をともにします。

ところが、浪士組発案者の清河八郎が、将軍警固役から一転して、勤皇攘夷への転向を表明、上奏文を朝廷に提出したところ何とそれが受け入れられため、浪士組は朝廷直属の武術集団となってしまいます。
それを知った幕府は、攘夷決行を餌に浪士組を江戸に戻すように命じます。
文久3年(1863年)2月13日のことでした。
清河八郎は幕府までも自分の存在を認めたことに満足して得意満面であったことと思います。
清河八郎は直ちに新徳寺に浪士組全員を集め、攘夷決行のために江戸帰還を宣言します。
これに反対して京都残留を決めて清河八郎と決別したのは、芹沢派5人と近藤派8人の他に殿内義雄や根岸友山らだけです。
京都に残った残留組は、芹沢の口利きで会津藩に嘆願書を提出し、会津藩「御預かり」となることに成功します。
京都残留組は、八木家、前川家、南部家などに分散して寄宿し「壬生浪士」と称しますが、すぐ内部抗争が始まります。
殿内義雄が何者かに暗殺されたのを機に根岸友山仲間と離脱し、壬生浪士は芹沢派と近藤派だけになります。
その後の話し合で、芹沢鴨が筆頭局長、近藤と新見が平局長となります。
芹沢鴨は酒癖女癖の悪さでの悪行三昧で、会津藩から暗殺の命が降って自滅します。
しかし、酒さえ飲まなければ明るく豪胆で剣技も強く礼節もわきまえたひとかどの武士でした。
その死は、武士にあるまじき惨めな死にざまで、殺されてなお汚点を残しました。
秋雨の冷たい夜、島原の角屋での宴会から平山五郎、平間重助らと早めに宿舎の八木家へ戻って、待たせてあった女達(芹沢はお梅、平山は芸妓・桔梗屋吉栄、平間は輪違屋糸里)と飲み直してれ酔ったままそれぞれが同衾します。それを待っていたかのような覆面に黒装束の数人の刺客が、白刃をかざして斬り込み、平山を殺害し、芹沢に斬りつけました。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取りますが、戦う間もなく斬り立てられて裸同然の姿のまま、八木家親子が寝ている隣室に逃れますが、文机につまづいて転び、そこで惨殺されます。
事件は長州藩士の仕業とされ、数日後、芹沢と平山の葬儀(平間は遁走)が盛大に執り行われました。
武士とは思えぬ卑劣で無謀な悪行ばかりが遺されている芹沢鴨・・・武士道からは逸脱していますが、そこに漂う人間の弱さや人間らしさ、そこに共感を感じているのは、私だけなのでしょうか? 芹沢鴨よもって瞑すべし・・・。