中岡慎太郎にみる武士道

中岡慎太郎にみる武士道

花見 正樹

中岡慎太郎は天保9(1838)年5月6日に土佐国安芸郡北川郷柏木村の大庄屋・中岡小傳次の長男として生まれます。
17歳で間崎哲馬に学問を学び、18歳で武市半平太に剣術を学びます。
20歳で結婚、24歳のとき武市半平太が結成した土佐勤皇党に参加して本格的に志士活動を始め、長州の久坂玄瑞などと交流します。
文久3年(1863)8月の京都の政変後、土佐藩内の尊王派に対する弾圧から逃れて脱藩して、長州藩に逃げます。
その後、三条実美の衛士となり、各地の志士たちとの連絡役などを引き受けます。
元治元年(1864)から石川誠之助の変名を遣い、薩摩の島津久光暗殺を画るが未遂、禁門の変、下関戦争と長州側で戦います。
やがて、尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に傾倒し、旧友の坂本龍馬と共に長州の桂小五郎、薩摩の西郷吉之助らを説得して薩長同盟を目指し、慶応2年(1866)1月の薩長同盟締結に結実させます。
さらに、薩摩の小松帯刀、大久保一蔵、西郷吉之助らと、土佐の後藤象二郎、福岡藤次、坂本龍馬らと倒幕・王政復古への薩土盟約も締結させ、それに安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大させます。
この中岡・坂本の努力で作り上げた薩摩、長州、安芸、佐賀の軍事同盟は、旧態依然とした土佐藩内の兵制改革をも促し、意識改革や藩政改革をも進めることになります。
中岡慎太郎は、長州の高杉晋作が結成した奇兵隊を参考に、土佐でも陸援隊を組織して自らが隊長となります。
その慎太郎も、慶応3年11月15日(12月10日)、京都四条の近江屋において坂本龍馬と共に何者かに襲われて瀕死の重傷を負い、その二日後に息絶えます。享年30歳、あまりにも若過ぎる死です。
武士道からみた中岡慎太郎の実像は、慎太郎を知る第三者の評価が参考になります。
西郷隆盛は 「ともに語り合える一流の人物にして、節義の士なり」
坂本龍馬は 「中岡と事を謀るが往々にして論旨が異なるを憂う。然れども中岡と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」
板垣退助は 「坂本龍馬よりは、ある面で優れていた。中岡慎太郎は西郷、木戸と肩を並べて参議になるだけの人格を備えていた」
他に、岩倉具視、香川敬三らも激賞するが、これらは信用に足るものではないと判断して割愛します。
拙著「小説・坂本龍馬異聞」では、武力討幕に反対する龍馬を慎太郎が斬りますが、慎太郎の一途さならあり得ることです。
私は、中岡慎太郎は自分の道を真っ直ぐ進んだ武士道に叶う立派な武士であったことを認め、その早い死を惜しみます。