楠木正成の武士道


楠木正成(まさしげ)の武士道

花見 正樹

私は若い頃、南北朝に興味を持ち、北条幕府滅亡後に20日だけの鎌倉奪還を成し遂げて壊滅した亀壽丸(北条時行)の乱を短編小説「戦乱の谷間に」に書きましたが、この時代、これと絡んで楠木正成も歴史の舞台で活躍していたのです。
楠木正成は、大坂に近い千早赤阪村の山里に生まれ、幼名は多聞丸、金剛山一帯を本拠地として土豪として育ちます。
当時の鎌倉幕府は、執権の北条高時が遊興三昧で家臣からも民衆からも見放され、幕府の権威は失墜していました。
民衆は重税に苦しみ、家臣は何の恩賞もなく、国内の秩序は乱れるばかりで無法者の乱暴狼藉を取り締まるべき役人も略奪強姦が日常茶飯という有様です。
このような幕府の状態をみて好機到来とみた後醍醐天皇は、元弘元年(1331)に幕府打倒を目指して挙兵します。
しかし、幕閣内部は崩壊寸前でも幕府の軍事力を恐れる各地の豪族は、倒幕勢力に加わるのをためらい、後醍醐天皇の討幕軍に呼応する者が少なく、後醍醐天皇には幕府の捕吏の手が伸びます。
その時、徒党を組んで後醍醐天皇の元に駆けつけたのが、河内地方で悪党と呼ばれて恐れられていた土豪の楠木正成(37)党でした。
楠木一族は、地元特産品などを売って利益を上げる経済的な利権で幕府と利害関係で対立していたこともあり、後醍醐天皇側に立って幕府と戦う決意を固めて参集したのです。後醍醐天皇は楠木軍の到来を大いに歓迎しました。
後醍醐天皇に謁見した正成は、幕府軍と正面から戦っては勝てないが、策略をもって戦えば充分に勝機はある、と提言します。
後醍醐軍に参加した正成は、地元の山中に築いた赤坂城を拠点に、武具や装備の粗末な農民の地侍約5百を集めて挙兵します。
それを知った幕府は、討幕軍の芽を早く摘むべく万を超す討伐軍を赤坂城に差し向けます。
甲冑(かっちゅう)に身を固めた完全武装の幕府軍は、赤坂城に接近して楠木軍の装備のお粗末さや、城とは名ばかりの砦にしか過ぎない小さな山城に呆れ驚き、すぐさま雨嵐の如く矢を射かけるが、柵の裏に姿が見えるのは藁人形だから、身を隠した楠木軍に被害はない。
恩賞狙いの幕府軍の将兵は、重い甲冑姿のまま我れ勝ちに斜面を攻め登ります。
ところが、幕府の将兵が斜面を埋め尽したのを見て、楠木軍が前面に現れ、奇声を上げて二重に組まれていた城壁の丸太の外柵を切り落とし、大石を転がし、熱湯を柄杓で投げ掛けます。こうなると幕府軍に身を護る手段はなく、悲鳴を上げて丸太や大石に潰されながら斜面を転げ落ちる阿鼻叫喚の地獄絵の世界で死体累々、その数は千に近しといいわれます。
初戦に敗れた幕府軍は、山城を包囲して持久戦に持ち込み兵糧攻めにします。
その後20日間の攻防の末、京都で後醍醐天皇が捕らえられたとの間諜の急報と兵糧が尽きたこともあり、山城に火を放って、抜け道から脱出し行方をくらまします。
幕府軍は、燃え落ちた砦内に投げ込まれた自軍兵士の焼死体を、正成らが武士らしく自刃して果てたと見誤って意気揚々と引き上げます。
その翌年の元弘2年(1332)、正成は再び挙兵、幕府の拠点とする河内や和泉の守護を次々と攻略して味方につけ、摂津の天王寺を占拠して京への進出を図ります。
これに対して幕府側は、強力な部隊を差し向けますが、正成側は「戦わずして勝つ」策に出て、一時的に撤退します。
幕府軍はもぬけの殻の天王寺を戦わずに占拠しますが、夜になると何万という松明のかがり火に包囲され、今にも大軍で襲わんばかりの鬨の声が夜空に響きます。幕府軍の将兵は夜襲に備えて一睡も出来ません。
朝を迎えて偵察を出すと、敵の姿も松明も全く見当たらず、狐につままれたような表情で偵察の兵達が戻ります。
次の日も楠木軍は現れず、また夜になると無数のかがり火と時の声に囲まれて幕府軍は眠れません。こんな日が4日続くと、もう寝不足で精神的にも肉体的にも疲労の極に達した幕府軍の将兵は戦う気力も失せて天王寺から撤退しました。
正成は近隣の農民5千人に僅かな金品で協力を求め、火を焚いて声を上げさせたものでした。正成軍はこうして一人の兵をも失わずに幕府の精鋭部隊を追い払い、天王寺周辺にも拠点を築きます。
これに怒った幕府は、翌元弘3年(1333)2月、8万の大軍で楠木正成軍討伐に掛かります。
正成は、かつての赤坂城と同様の手で、千人の兵と共にさらに険難な山奥の千早城に篭り、大軍を迎え討ちます。
幕府軍は千早城の麓まで押し寄せたものの、正成の奇策を警戒し、かつての赤坂城同様に兵糧攻めを選びます。
ところが、山奥で8万の兵を抱えた幕府軍が先に兵糧の支援が続かずに餓えたのです。
なぜ幕府軍の兵糧が尽きたかというと、山の地形を知り尽くす地元住民との獲物山分けで協定した正成軍が補給部隊を山道で襲って食糧を奪っていたからです。奪った食料は地元住民と分け合って、間道から砦内にも運び込んでいましたから、楠木軍は食糧法府、幕府軍は険しい山中で雨や風に晒された上に飢餓状態に陥り、幕府軍からは落伍する兵が続出、そこを正成が指揮する楠木軍が夜襲しますから、餓えて体もままならぬ幕府軍は反撃も出来ずに総崩れになって撤退するしか道はありませんでした。
このたった約千人の楠木軍が、8万の幕府軍を破ったという大事件は、たちまち人の噂に乗って諸国の豪族に伝わります。
2年前の赤坂城に続くこの幕府の敗北で、これまで幕府の軍事力を恐れていた各地の豪族が次々と幕府に反旗を翻して蜂起し始め、ついには幕府内部も崩壊、足利尊氏、新田義貞らが幕府を見捨てて楠木軍に呼応して後醍醐天皇側に就きます。
生まれ故郷(現在の綾部市)の丹波で旗揚げした足利尊氏軍は京都を攻めて六波羅軍を倒し、新田義貞は江の島側から海辺沿いに鎌倉に攻め入って執権・北条高時を始めとする一族を集団自害に追い詰めて北条の鎌倉幕府を滅ぼします。
この時、雑兵に身をやつした諏訪三郎が北条の遺児・亀寿丸を伴って鎌倉から脱出します。
この時の挿話が私の短編小説「戦乱の谷間に」です。お暇な折にご一読ください。
(https://www.kaiundou.biz/nichibungakuin/modules/pukiwiki/620.html)です。
戦いに勝った正成は、隠岐へ後醍醐天皇を迎えにあがり、天皇の都への凱旋への先駆けを務めます。
なお、正成は、自分が関係した戦いでは、敵も味方も関係なく双方の戦死者を弔っています。敵と言わずに敵は「寄手(よせて)、身内方は「身方(みかた)」として五輪の供養塔を建立し、法要を行なっています。
しかも、寄手塚の方が身方塚よりひとまわり大きいのですから、その人間の大きさが分かります。
この供養塔は、現在も千早赤阪村の村営墓地にあります。
こうして後醍醐天皇は、楠木正成ら武将の活躍で朝廷政治を復活させることが出来、「建武の新政」が発足します。
正成は、河内・和泉の守護に任命されますが、これは名もない土豪としては異例の出世でした。
ただ、後醍醐天皇は天皇主導の政治を急ぎすぎました。
脆弱な天皇支配の政権に強権が必要と考えた後醍醐天皇は、独裁政治を推し進め、強くなりすぎた武家勢力を弱め、公家の実質的な地位を図り、天皇復活の恩賞も何の功績もない公家に高く、功績のある武士を低く押さえました。
さらに、天皇政治の財政基盤を強固にする必要から、農民を含む庶民に対して鎌倉幕府時代より重い年貢や労役を課します。
これで一気に人心が離れ、武士も後醍醐天皇を見限りました。
まず足利尊氏が反旗を翻し、武家政権復活を叫んで挙兵すると、諸国の豪族や武士がそれに続き、人々もそれを支持します。
京へ攻め上った足利尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇側の有力武将が迎え討ち、激しい合戦になり、戦力で勝った天皇側に敗れた足利尊氏軍は敗走しますが、天皇側の将兵もそれに従って足利軍に参加する者が続出します。
正成は、辛うじて勝ちはしたが、天皇側の武士までが、後醍醐天皇から離れ、尊氏を慕ってその軍門に降ることに脅威と不安を感じます。
後醍醐天皇の新政権から、武士達の心が離れてゆくのを見た正成は、後醍醐天皇に「尊氏との和睦」を直言します。すると、それを聞いた公家達は、勝った朝廷側が敗けた尊氏ごときに和睦を求めるのはおかしいではないか、と正成の案を一蹴します。
延元元年(1336)4月末、九州に逃れて多くの武士や大衆の支持を得た足利尊氏が、移動するたびにその土地の豪族を併合して大軍となって京に向かって進軍を開始します。
総勢10万とも言われる尊氏軍を前に、天皇側の軍勢は、正成軍の700を入れても敵の数十分の一にしか過ぎません。
これでは万が一にも勝ち目はありません。正成は再度訴えます。
「足利の大軍にまともに戦っては勝てません。私は河内で兵を集めて淀の河口を塞ぎ、敵の水軍を止めます。帝は比叡山で僧兵を集め、京に尊氏軍を誘い込み、北から新田軍、南から我が楠木軍が敵を挟み撃ちにすれば勝てます」
しかし、天皇は、都から離れるのは朝廷の権威が落ちる、との公家たちの意見で正成の意見を却下します。
正成の戦いぶりを過信する後醍醐天皇は、兵庫の湊川で新田義貞軍と合流して「尊氏軍を壊滅せよ」と命じます。
しかし、正成の得意とする山岳戦を封じられては正成の奇策も通じません。この時点で正成は死を覚悟します。
失意の中、正成は天皇を諫める遺書を下人に届けさせ、息子には再起を命じて戦場を去らせ、自らは死を決して湊川に向かって出陣します。
5月25日、足利軍3万5千と湊川を挟んで対峙した楠木軍はわずか700、この彼我の差では戦いにもなりません。
だが、足利軍は楠木軍を無視し、海岸側に陣をひいた新田義貞軍を海から軍船で攻め、陸からも総攻撃します。これで新田軍は総崩れとなり、新田軍は楠木軍と合流することなく壊滅し、将・新田義貞も敗走して戦場からすがたを消します。
しかも、新田軍の将兵の多くはその場で足利軍に降って、今度は楠木軍に牙を剝く立場になるおです。
孤立した楠木軍は、激しく足利の大軍に挑みますが、足利軍は一向に戦おうとしません。戦力差は歴然ですから勝敗は半刻内もあれば決着がつくと誰しも思うのですが、尊氏は正成軍に対して戦力を小出しにして戦う真似をするだけで一向に攻撃する気配を見せず、それどころか自らが陣頭に立ち、自軍の武将に命じて、正成を翻意させようと試みます。
尊氏としては、3年前は北条氏打倒を誓って共に戦った親しい仲だけに、死なすのは忍びなかったのです。
、尊氏は、正成が天皇側から離脱さえしてくれれば戦いは中止すると申し入れるが、正成はそれを拒否します。
これによって、両軍の激突は避けられないものとなり、正成軍の鬼気迫る突撃によって両軍入り乱れての白兵戦が3刻(6時間)続き、満身創痍の正成が声を嗄らして生き残った家来を呼び集めると、その声を聞いた尊氏が戦闘の中断を命じます。
正成は、刀や槍を杖によろめき歩く72名の部下と共に、近くの主のいない民家へと粛々と入り、尊氏がそれを追う部下を制して戦闘は終わります。
正成の命で家来が家屋に火を放つと、正座した正成が死出の念仏を唱え、家来全員がそれに唱和しつつ次々に自刃します。
正成は弟の正季(まさすえ)と短刀で刺し違えて抱き合って絶命します。
享年42歳、歴史の表舞台に登場してわずか4年でその数奇な人生を閉じます。
足利尊氏は、正成を称して「誠に賢才武略の勇士」と言い、生涯その死を惜しんだといいます。
この楠木正成が貫いた義の一念こそ、武士道の神髄とも思えます・・合掌。

私の短編小説「戦乱の谷間に」です。お暇な折にご一読ください。
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