安倍晋三総理にみる武士道

安倍晋三総理にみる武士道

花見 正樹

上杉謙倍は武田信玄と14年間、お互いに好敵手として戦っていますが、 その信玄の死を知った謙信は「敵ながらもっとも優れた將だった」と人目も憚らず働巽したといいます。 その謙信と信玄は、お互いに通じ合うものを感じていたのは間違いなさそうです。
信玄の領地・甲斐の国は、海から遠く離れた山国で塩が取れず、それまでは東海の覇者・北条(氏康)氏から供給を受けていました。ところが、この頃は西の織田信長も勢力拡大を図っていて、北条も余力がありません。一説によると信玄の勢力を弱めたい、と願って塩の供給を拒絶したとも伝えられています。
それを知った越後の上杉謙信は、敵である信玄の窮状を間諜から聞き、自領で取れた多量の塩に書状を添えて送ります。
「我、公と争ふ所は弓箭にありて米塩にあらず。請、今より以往塩を我国に取られ候へ」
その後、越後の塩商人も決して暴利をむさぼることなく甲斐に塩を運んだそうです。
この例をとった新渡戸稲造は、ローマの將・カミラスの言葉を添えています。
「われらは金をもって戦わず。鉄をもって戦う」
ニーチェは「おのれの敵を誇れ。されば汝の敵の成功は汝自身の成功となる」
との言葉に重ねて新渡戸稲造は、武士の心情にも触れています。
この例からみて、「よき敵、よき友」と戦ってこそ勇気と名誉に価値があることに気づきます。
となれば、平時においても共に友人として価値ある人物のみを友としてこそ「仁」も「義」も知ることが出来るのです。
それに引き換え、一国の長である安倍晋三総理の人間関係の希薄さは哀れなほど惨めです。
森友学園の理事長で国粋主義仲間の籠池泰典氏などもその一例で、右翼仲間の旧友ながら今や友情の欠片も見えません。
これからも国会や検察を巻き込み、衆人監視の下で戦うのですが、これは聖戦など意義ある戦いではなく、限りなく醜い泥仕合です。
森友事件の闇は、これからが本番で、双方から汚い膿が流れ出します。
学園側からも財務省(総理側)からも死者はすでに2名づつ出ていますが、財務省の女性職員が一人自殺未遂ですから総理側がスキャンダルで一歩リードです。ただし、学園側の土砂搬入業者は殺されたのではないか? との疑いも出ています。
安倍総理が是非開校をと切望していた「瑞穂(みずほ)の国記念小学院(一部では安倍小学校と呼びます)」は、ついに籠池理事長が設置認可申請を取り下げた上で学園理事長も退任するそうです。
しかも、真相を語るどころか、メディアと右翼に対しては籠池氏の長男・佳茂氏が「全保守の皆さん、日本を愛する皆さん、安倍晋三総理以下、皆様方、森友学園の今後の行く末をどうぞよろしくお願いします」と頭を下げて幕引きを宣言して戦いを放棄しました。
これは、固唾を飲んで成り行きを見守っていた国民の期待は裏切りましたが、保身(命乞い)と考えると納得です。もはや経済的にも破たんしている籠池一家が生き伸びるには、この戦いから身を引く以外に道はありません。
したがって、この幕引き宣言は賢明だったとも言えます。
ただし、検察に武士の情けが通用するのか? これは疑問です。
さて、誰が見てもこの事件の本丸は安倍総理夫妻、それを疑う者など誰もいません。
怜悧で冷酷な安倍総理は、周囲の人間が総理を庇って自殺し始めたのにも動じず、盟友で親類の麻生財務相切りも厭いません。ここで、さらに自分の妻の証人喚問まで認めてまで保身を図ろうとするなら「武士道」の風上にも風下にも置けません。
国民にも国会議員にも「武士の情け」はあります。
安倍総理は、新渡戸稲造の「武士道」に学び、潔く真実を語って妻の分も謝罪して直ちに引退されることを勧めます。
それでもなお検察が追及するとは思えません。
安倍総理がなお私欲に拘って逃げ切りを図ると、やがて底なし沼に引きずり込まれて身動きがとれなくなります。
次の死者が出る前に真実を述べて引退を・・・です。


真に勇気ある者は死に際しても平静である。

真に勇気ある者は死に際しても平静である。

花見 正樹

勇気を精神面で表現すれば、冷静沈着さ、すなわち、いざという時の落ち着きです。
そのために日頃から心を鍛えるために禅の修行などで、緊急時でも平静さを保てるように努力します。
平静さとは、緊急時における勇気の証拠であり、勇敢な行為の表現でもあります。
勇気ある者は、常に落ち着いていて、いざという時にも冷静に最善の判断ができます。
勇気ある者は戦場の修羅場でも、最悪の状態で死に瀕した破滅的状況でも心の平静さを保っているのです。
新渡戸稲造の「武士道」にも載っている逸話があります。
初期の江戸城を築城した太田道濯は文武両道の達人でしたが、北条早雲の陰謀によって。風呂から出たところを刺客の曽我兵庫に襲われ槍で急所を刺されます。
道濯が歌の道において達人であることを知る刺客は、止めを刺す前に上の句を発します。
「かかる時こそ生命の惜しからめ」
道灌は致命傷にもひるまず息絶え絶えながら下の句を続けます。
「かねてなき身と思い知らずば」
これは「小田原北条記・巻一」に記述されている逸話で、それを新渡戸稲造は引用したのです。
そのやりとりの意味は、「このような時、どんなに命が惜しいだろう」「前もって元から存在しない自分と悟っていなかったならば」と伝えられています。
真に勇気ある者は、死に臨んでも「余裕がある」一例ですが、天災人災でいつ災難に襲われるか分からない私達も学ぶべき価値があるはずです。


「心身の鍛錬」も武士道の根源です。

「心身の鍛錬」も武士道の根源です。

花見 正樹

勇気だけで武士道を全うできると考えると、誤った義理のために命を落とす場合があり得ます。
義理は、しばしば偽善と知りながらも従来のしがらみから抜け出せずに、本意ではない行動をとらざるを得なくします。
「武士道」を正しく理解すれば、いざという時に鋭敏な感性が果敢な勇気を呼び覚まし、理性と忍耐力で窮地を脱して義理掛けによる犬死の愚を免れることも出来ます。
孔子の論語の中に、「義をみてせざるは勇なきなり」という一言があります。
勇気は、義によって発動される。これでなければ、武士道による徳行の価値はありません。
孔子は論語の中で、命題をあきらかにする方法で勇気の意義を示しています。
この格言を肯定的に受け止めると、「勇気とは正しいことをすることである」となり、正しくないことにまで命を投げ出すのは「勇気」の本意ではないことになるのです。
武士道では、「大義の勇」と「匹夫の勇」を区別しています。
勇猛果敢、忍耐強さ、豪胆などを含む「勇気」こそがいざという時に真の正義を守るものとなるのです。
武士道に関する武士の家庭教育は、母からも容易におしえられています。
幼な子が転んだり争いごとで怪我の痛さに耐えかねて泣いた時、母は「これくらいで泣くなんて何という臆病者ですか! 戦さ場で腕を切られたり、切腹を命じられたらどうするのです? いちいち泣くのですか?」と子を叱ります。
歌舞伎の[先代萩]の中で、まだいたいけな幼君・千松が、小鳥が餌を突くのを見てひもじさに「われも早う飯が食べたいわい」と口にすると、実母の政岡が我が子の餓えに悲しんで心の中では泣きながら強く叱る場面があります。
「小鳥を羨むなど何とはしたない。小さうても侍ぢや」
こうして、幼少期から忍耐の精神と勇敢さは教育されてゆきます。
時には、親の所業は残酷ともみえますが、このような苛烈な手段も子供達の胆力の錬磨には必要だったのです。
食物を与えられなかったり、朝食前に冬の寒い中を薄着に素足で寺小屋に通い、素読の稽古をしたり、しばしば、少人数で集まって、処刑場、墓場などをめぐることもありました。
さらに、斬首が公衆の前で行われる時は、幼い少年にもその光景を見せ、真夜中、そのさらし首に自分の印をつけた布を巻いて来るという度胸試しも行われています。
ともあれ「胆を練る」ことが武士には必要なことで、その反面、人に対する優しさも育てないと真の武士にはなれません。
これらは現代では無用なのでしょうか?
新渡戸稲造が触れていない現代でも、この胆力鍛錬は、いざという時に役立つのは間違いありません。
形は変わりますが、私は若い時から渓流釣りで夜中から山奥での独り歩きには慣れていて、物音に対する警戒心や恐怖心が他人とは少々違うような気もします。それがいいのか悪いのか、これから結論がでるような気がします。


「正義」こそ武士道の根源を為すものである。

「正義」こそ武士道の根源を為すものである。

花見 正樹

新渡戸稲造の武士道が世に出たのは幕末の戦乱が収まった明治33年(1900)のことです。
いくら維新とか美辞麗句で飾ろうとも、あの錦の御旗の偽造から始まる悪らつな陰謀が軍事的策略として罷り通る戦乱の中においては、「勝てば官軍」、これだけが唯一無二の真実であって、いくら敗軍の将が「義」を叫ぼうと負け犬の遠吠えなど、勝ち組からみれば痛くも痒くもなく、勝利の美酒からみれば負け犬の喚く「正義」などゴマメの歯ぎしり程度にしか感じないはずです。
戦争とは残酷なもので、いくら武士道の義を主張しようと、優れた武器と訓練された軍隊と勝つための策謀に長けた戦争指導者がいて、天の声というべき大義名分をでっち上げて官を標榜して表となして勝ち進み、正義を叫ぶ負け組を裏とし賊とし悪しき者として排斥すれば、必然的に勝ち組が「正義」を声高く誇ることになります。
しかし、歴史は時代と共に変遷し、その仮面を剥がされて醜い素顔を晒すこともあり、勝者といえども油断は出来ません。
新渡戸稲造は、世の中が「嘘と策謀」のまかり通る醜い時代だからこそ、素直で正直な男らしい徳行としての{正義」がもっとも光り輝く珠玉として人々の尊敬と羨望を得て絶大な賞賛を勝ち得る、と断言します。
正義は、勇敢というもう一つの徳行と並んで武士道の双璧にほかならず、この二つがあればこそ命を賭ける価値があるのです。
新渡戸稲造のいう「正義の道理」は、世論が期待する漠然とした義務感などではなく、もっと純粋かつ単純な自己への無条件の絶対命令であり、父母、家族、尊敬する目上の者、大きくは自己を含む社会全般に負う「義」に対して、自分自身が要求し、かつ命じている義務感そのものです。
私達は、この武士道における正義のためなら、いつの世でも命を投げ出すことを惜しまないのです。


「義」と「勇」は武士道の双璧である。

「義」と「勇」は武士道の双璧である。

花見 正樹

新渡戸稲造の武士道では、武士の規範の中でもっとも厳しい教えとして義の観念について触れています。
林子平の言葉を借りて、義を決断する力と定義して次のように述べている。
「勇は義の相手にて裁断の事也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也」
さらに、真木和泉守の言葉を借りていう。
「士の重んずることは節義なり。節義はたとへてけはば人の体に骨ある如し。骨がなければ首も正しく上に在ることを得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。
節義あれば、武骨不調法にても武士たるだけのことには事かかぬなり」と。
孟子は「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」といった。
孟子によれば、義とは、人が失われた楽園を再び手中にするために必ず通過しなければならぬ、直なる、狭い道である。
封建制の末期、長く続いた泰平が武士階級の生活に余暇をもたらした。あらゆる種類の遊興や、上品な技芸のたしなみを生んだこの時代でさえ、義士というよび名は、学問や技芸の道をきわめたことを意味するいかなる名前よりもすぐれたものと考えられた。四十七人の忠臣は、私たちが受けた大衆教育では義のために死を恐れぬ四十七人の義士として知られている。
義を貫くには、義のために命を惜しまぬ覚悟があらねばならぬ。そのためにgは死を恐れぬ勇気もまた必要になる。これらがあってこその武士道なのだ。


武士道の源泉をさぐる

武士道の源泉をさぐる

花見 正樹

武士道には、仏教と神道の陰が大きく影響しています。
新渡戸稲造は、仏教が武士道に与えたもについて、次のように語っています。
仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、穏やかな服従、危険や災難に際しての禁欲的な平静心、生への侮蔑と死への親近感などを列挙します。
新渡戸稲造は、柳生宗矩が、弟子の一人に自分の技を全て教えたあと、こう伝えます。
「私の指南はこれまで。あとは禅の教えに譲らねばならぬ」
禅とは、沈思黙考によって言語表現を超えた思考領域で、禅を究めることは仏の道を探求することでもある。その方法は黙想にあり、のめざすところは世の中の全てに横たわっている原理で、これは絶対である」
その上で「絶対」と、自分自身を調和させることが出来れば、禅の教えるところは死生観を超えたものpになり、この「絶対」を認識した時点から世俗的な事柄から自己を脱落させ、いざという時の心構えができるもの、とします。
以上から、武士道に仏教が与え阿多ものは大きいのですが、仏教が武士道に与えられなかったものは、神道が十分に与えています。例えば、仏教では教え足りない主君に対する忠誠心や、父母への孝心、先祖への崇敬などは神道の教義によって教えらます。
以上から、武士道には仏教と神道の影響が大きく投影されているのは間違いありません。


義について考える   花見正樹

義について考える

花見 正樹

新渡戸稲造の著書「武士道の第三章において「義」についての著述があります。
そこには、「義」とは武士道の光り輝く最高の柱であり、「勇」と並ぶ武士道の双璧である、と書かれています。
確かに、義と勇は、武士として男として最も誇り高きものであるように感じます。
ここからは、新渡戸稲造の語りです。

私たちは、武士の規範の中で尤も厳しい教えを明らかにしなければならない。武士にとって不正な行いほど忌まわしいものはない。義に拘るのは狭きにすぎるかも知れない。
林子平は、次のように述べている。
「勇は義の相手にて裁断の事也。道理に任せて決定して猶予せざる心をいふ也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也」
また真木和泉守は、こう言っている。
「武士の重んずることは節義なり。節義はたとへていけば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることを得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」
孟子は言う。
「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」
さらに・・・
「その路をすてて由らず。哀しいかな。その心を放ちて求むるを知らず。哀しいかな。人鶏犬(けいけん)の放つことあれば、すなわちこれを求むるを知るも、心を放つことあるも求むるを知らず」と。
そして、孟子に遅れること三百年にしてイエス・キリストが現れて語る。
「義とはそれを見失いし者が見出すべき義の道そのものなり」と。
私たちはそれと同じく「鏡の中のごとくおぼろげ」ながら、その対象とすべきものをここに認めることができるではないか。
孟子によれば、義とは、人が失われた楽園を取り戻すために必ず通過しなければならぬ、直(すぐ)なる、狭い道である。
封建制が長く続いた泰平の世に、武士階級の余暇に、あらゆる娯楽や遊興や技芸のたしなみを生んだこの時代でさえ、義士という言葉の響きは、学問や技芸の道を究めた以上に、優れたものと考えられた。
四十七人の忠臣は、これぞ義士なり、として誰にでも知られている。

以上の新渡戸稲造の義に対する考え方から、武士道とは「命を賭して義を貫く」とも解釈できます。
この考え方は現代でも生きていて、私達はいざとなれば、義のために死ねるような気がします。
これは、私自身が要人警護専門の警備会社顧問として、ボデイガードの最前線を体験しているからかも知れません。


騎士道と武士道

騎士道と武士道
花見 正樹

新渡戸稲造の著書「武士道」の中で、「武士道とは何か?」という項目があります。
その中で、封建制度の所産である武士道は、その母体の封建制度よりも永続して人の道を照らしている、と述べています。
ここからは、新渡戸稲造が、西洋の騎士道以上に日本の武士道は複雑で奥が深い、との私見を述べたものです。

かつては、ジョージ・ミラー博士のような学者でさえ、東洋には騎士道やそれに類する制度は存在しない、と言っている。
当時の日本を含む東洋への間違った情報を悲しむべきである。
そのような無知からくる誤解も、ミラー博士の立派な著作の中にも見受けられる。しかし、その第三版がペリー提督がわが国の鎖国を解こうとした年に出版されたことを思えば、許されるべきことなのだ。
それから十年、わが国が封建制度の存続を巡ってあがいていたとき、「資本論」を書いたカール・マルクスは、生きた封建制の社会政治的諸制度は当時の日本においてのみ、みることができるとしている。
これにならって、私は、西洋の歴史研究者が日本における武士道の研究にもっと意欲をもつことをおすすめしたい。
さて、ヨーロッパの騎士道と日本の武士道の比較史論はたいへん魅力的である。
しかしここでは、そこまで立ち入ることを目的とはしない。
私の試みは、むしろまずわが国の武士道の起源とその特徴と教義を、さらに大衆に及ぼした影響についての考察、そしてその影響の持続性と永続性について述べることである。
これらの項目について、手短かに、急いですませることにする。そうでないと、わが国の歴史の難しい隘路に彷徨いこむことになる。
さらに、国際的な道徳論や民族精神の比較研究の研究者たちに、われわれの思考や行動様式についてもっと興味をもたせるだろうから。そ 私がおおまかに武士道と表現した日本語のことばは、その語源において騎士道よりももっと多くの意味あいをもっている。
高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規制もそれは意味している。

新渡戸稲造は、東洋には西洋における騎士道の精神に匹敵するものはない、との学者の意見に反発して「武士道」を書いたとも思えます。


岩瀬忠震にみる武士道

岩瀬忠震にみる武士道

花見 正樹

岩瀬忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣の中にあって 、卓越した外交手腕を振るって列強との折衝に当たり、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と称されました。
だが岩瀬忠震の晩年は、その華やかな経歴とは裏腹に、不遇でした。
忠震は、宇和島藩主伊達村年の玄孫で、伊達政宗の子孫でもあります。母は林述斎の娘で、おじに鳥居耀蔵がいます。
そんな血縁にある旗本・設楽貞丈の三男として文政元年(1818年)11月 21日、江戸芝愛宕下で生まれた忠震の通称は忠三郎です。
天保11年(1840年)5月に岩瀬忠正の婿養子となって家禄800石の家督を継ぎ、昌平坂学問所に入って成績優秀だったこともあり、嘉永2年(1849年)2月部屋住みより召し出されて西丸小姓番士、昌平坂学問所教授となります。
嘉永7年(1854年)、老中首座の阿部正弘にその才能を見出されて目付に抜擢され、講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造にも拘わり、外国奉行に任命され外交手腕を発揮します。
安政2年(1855年)に来はロシアのプチャーチンとの全権交渉で日露和親条約締結に臨みます。
次いで安政5年(1858年)にはアメリカの総領事タウンゼント・ハリスとの交渉で、井上清直と共に日米修好通商条約に自己責任で署名するなど、開国に積極的な外交官として活躍します。。
しかし、岩瀬忠震を重用した阿部正弘が過労で急死し、井伊直弼が大老に就任したことで情勢は一変します。
忠震は、将軍継嗣問題で徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派に属したため、、反対派の井伊直弼が一橋派の排斥を目論んだ安政の大獄で作事奉行に左遷され、次いで蟄居を命じられ、江戸向島の岐雲園で書画の生活に専念した後、文久元年(1861年)に不遇のまま病死して44歳の人生を終えます。
忠震が生涯の友として尊敬し親しんだのはその書簡からみて木村摂津守喜毅(よしたけ)ただ一人でした。
共に開国派であった忠震と木村喜毅は、外国の侵略に負けない強力な海軍の創設を目指していました。
幕府が強力な海軍を創るために日米修好通商条約特使に随伴派遣させた咸臨提督・木村喜毅と共通の国を守り民を守り家族を守るための国力高揚のための武士の意地が歴然としていて、武士道のあるべき姿を垣間見ることが出来ます。
岩瀬忠寛の墓所は、文京区の蓮華寺から豊島区の雑司ヶ谷霊園に改葬されています。
さらに、明治16年(1883年)に忠震の旧臣・白野夏雲によって墨田区東向島の白鬚神社に墓碑が建立されました。私(花見)はそこから徒歩数分の近くに住んでいたこともあり、岩瀬忠震の名にはごく自然に馴染んでいて、今でもアメリカと国交を開いたのは岩瀬忠震と記憶しています。


新渡戸稲造の武士道

 

新渡戸稲造の武士道

花見 正樹

新渡戸稲造が「武士道」を海外で書いた理由については様々な説があります。
新渡戸稲造著の「BUSHIDO(武士道)」は、明治33(1900)年に「Bushido: The Soul of Japan」の書籍名でアメリカで刊行されました。その後、日本に逆輸入されて普及し、やがて世界的名著となって広まりました。
この書籍を書くきっかけについては、新渡戸稲造がある日、外国の友人と宗教論争をした時にから「日本では学校で宗教教育はあるのか?」と質問されて言葉に詰まり、そこから考えて日本人の精神的支柱である武士道を書いた、とされています。
その著書の中で、武士道は、日本的精神の根幹を成すものである、と定義されています。
したがって、武士道という言葉自体が新渡戸稲造の著書によって海外から逆輸入されたもので、徳川幕府が明確化した士農工商と呼ばれる独特の身分制度の頂点に立つ倫理観に基づくものではありますが、江戸時代にはまだ一般的ではなかったのです。
江戸時代には、むしろ「武道」とか「武術」とか言われていて、文武両道の鍛錬として武士の覚悟を自覚に用いられています。
その自覚とは、仕事上の責任問題の解決方法の一つに切腹という死を以て報いる覚悟のことです。
その武士の厳しい掟や生き方が日本全体に広まって日本人そのものが、死をいさぎよしとする倫理観になったと推測できます。
とはいえ、武士以外には切腹という儀式で責任をとるということはありませんが、そのような覚悟をもたねばならぬ名主など村役人や侠客などそれぞれがそれに準ずる倫理観をもって自らを律していたのは間違いありません。
「武士道」という言葉自体が日本で最初に記された書物はそう古くなく、江戸時代初期に出た武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)の口述記禄「陽軍鑑」とされています。
ここでの武士道は、主君への忠誠とはほど遠く、個人的な生存術であり、武名を高めることが自分および一族の発展に寄与し、出世を有利にすることを主にしていて、武士とは己を髙く評価してくれる主君を求めて何度でも主君を変えてもよく、「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎の遺訓をも肯定していて、後世の「武士は二君にまみえず」とは全く反対阿なのです。
さらに、「武者は、卑怯だの犬畜生と罵られても、勝つことこそ本意」という文言も遺されています。
これで見ると、戦いに明け暮れた乱世時代の武士は、「卑怯と罵られても戦いに勝つことこそ肝要」であると現実的なのです。
それが、徳川幕府の平和で戦いのない時代に入って武術は殺し合いから形式的なものに変わり、道徳大系としての「武士道」となります。
新渡戸稲造の語る「武士道」は、あくまでも江戸時代に入ってからの平和な時代の武術を指すものであることをご承知おきください。