孔子にみる武士道


孔子にみる武士道

                               花見 正樹

 新渡戸稲造の「武士道」を熟読すると、氏が孔子の教えに傾倒し過ぎるのに戸惑います。
なにしろ、武士道そのものが「孔子の教え」とも説いています。
「武士道の源泉は孔子の教えにあり」
これが、新渡戸稲造の「武士道」の骨子です。
ここまで断言されると、どうしても、孔子そのものと武士道を合せてみる必要に迫られます。
では、新渡戸稲造は、なぜ、そこまで孔子と武士道を結び付けたかを考えてみます。
神道や朝廷、主君や郷土に対しての愛国心や忠誠心、絶対的な服従の心は一体どこから出ているのか?
とくに、命をも惜しまない主君への忠誠心など、そこまで徹底するにはどのような教育がなされたのか?
それらを考えるカギが、新渡戸稲造説の通り、全て孔子にあるのかも知れません。
これらが、宗教の力ではないのは確かです。
なぜなら、日本古来の神道は、中世のキリスト教やアラーの神と違って、信仰上の何の約束事も規定しなかったからです。
武士道の源泉が神道にないとすると、一体どこから仁と義と忠に厚い武士道なるものが形作られたのか、気になります。
なぜ、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となっている、と新渡戸稲造は断言できたのか?
新渡戸説を肯定した上で、孔子を見つめ直すと、確かにその骨格が見えてきます。
孔子はまず、五つの倫理的な関係を述べています。
すなわち、治める者と治められる者との上下差を君臣として孔子は区別し、礼を尽くすように孔子は説きます。
しかし、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、孔子以前から日本人として認知していますので、孔子の教えは確認にすぎません。
冷静沈着で才能豊かな孔子の政治向きで道徳的な格言の数々は、支配階級である武士にとって都合のいいものだった、とも言えます。
さらに、孔子の保守的な語調が、日本の武人統治者にとって、必要不可欠のものとしてピタリと適合したのです。
それだけではありません。孔子についで、弟子の孟子がさらに武士道に大きな権威を及ぼしています。
孟子のいう民衆にも主権を与えるかのような人道的な理論は、思いやりのある武人にはことのほか好まれます。
しかし、この理論は既存の秩序を乱す危険もありますので、為政者からは破壊的な考え方として疎んじられてきました。
しかし、心ある武士の心の中にしっかりと住み着いていたのです。
こうして、孔子と孟子の書物は人々に、議論の余地のある最高の教科書になってゆきました。
武士道に目覚めた人々は、この二人の儒学者の古典を読み解くことで、さらにその意を強くしたのです。

孔子は、紀元前552年9月、古代中国春秋時代の魯の国の昌平郷辺境の村(現在の山東省曲阜(きょくふ)市)の軍人の次男として生まれました。父は70歳を超えていて、母は16歳の身分の低い巫女でした。
その父は、孔子が3歳のときに逝き、若い母も病没、孔子は親類や村人に育てられて成長します。
孔子の履歴を大雑把に列記してみます。

孔子が3歳の時に父が逝き、母とともに曲阜(きょくふ)に移住したが、17歳の時に母も病没、苦学して礼学を修め、やがて礼学の大家となって弟子も増え、一時は弟子3千人とまでいわれています。
孔子の学問は、地方の郷党に学んでいて誰か特定の師について学んではいない。それでいてずば抜けて何でも知っていた。
紀元前534年、19歳のとき、孔子は宋の幵官(けんかん) 氏と結婚し、翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が生まれます。
紀元前525年、28歳のとき、孔子は魯に仕官して、倉庫を管理する委吏になり、次に牧場を管理する乗田という役につきます。
紀元前518年、35歳のとき、孔子がはじめて弟子をとった記録が残っています。この年、孔子は周の都の洛陽に遊学します。
紀元前517年、36歳のとき、身辺多忙で居住地を変えたりしたが魯に戻って弟子をとり教育することに励みます。
紀元前505年、48歳のとき、季桓子に仕えていた陽虎が反旗を翻して魯の実権を握り、孔子を招聘するが、実現しません。
紀元前502年、51歳のとき、陽虎は三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こすが、三桓氏連合軍に敗れて隣国の斉に追放されます。
紀元前501年、52歳のとき、宋・晋を転々とした後、孔子は晋の趙鞅に召抱えられ、定公に中都の宰に取り立てられます。
紀元前500年、53歳のとき、定公は斉の景公と和議の会見時に、斉の舞楽隊が武器を隠し持つのを見破ります。
この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任、さらに外交官も兼ねることになります。
紀元前498年、55歳のとき、孔子を裏切って弟子を奪った弟子の少正卯を誅殺します。
孔子が提案した軍事作戦の城壁破壊作戦がほぼ成功、一部は失敗に終わります。
紀元前497年、56歳のとき、国政に失望して官を辞し、弟子とともに諸国遍歴の旅に出ます。
紀元前484年、69歳のとき、魯に帰国します。
紀元前483年、70歳のとき、孔子は斉の簡公を討伐するよう哀公に進軍を提言しますが実現しません。
紀元前481年、72歳のとき、斉の簡公が宰相の田恒に弑殺されたのを機に、再び斉への進軍を勧めますが哀公は聞き入れません。
紀元前479年、74歳、不遇の中で死去、曲阜(きょくふ)の城北の泗水(いすい)のほとりに葬られました。

前漢の史家・司馬遷(しばせん)は、その功績を讃え「王に匹敵する」と評しています。
孔子が世に出た頃は、各地の有力な諸侯や国が領域国家の形成へと向かってしのぎを削り、農民や兵の予備軍を含む人口の増加や領地の拡大にやっきとなって争い、実力主義が横行して、旧来の都市国家を形成する同系種族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつありました。そのなかにあって、孔子は、周の国本来の秩序ある国家への復古を理想として、身分制秩序の回復と再編を目指します。その先には義と仁による仁道政治があります。3千人におよぶ孔子の弟子たちは、孔子の教えを思想として教団を作り、それぞれが戦国時代に儒家として、諸子百家として自立して一家をなしました。
その中から選ばれた「孔子門下10哲」と師・孔子との語録をまとめたものが「論語」です。
身の丈2メートルを超え、文武両道に優れながらよき主に恵まれなかった孔子の一生は、不遇ではありましたが、歴史から顧みれば多くの学者を輩出した門下生から見ても、その統率のきいた指導力は、一国の宰相と同格かそれ以上とみられます。
ある人は孔子を「義の人」と言い、ある人は「仁の人」とみます。
その全てをみて新渡戸稲造は、孔子の教えこそ武士道である、と断じたものと思われます。