厩戸皇子(聖徳太子)にみる武士道


厩戸皇子(聖徳太子)にみる武士道

花見 正樹

武士(もののふ)という概念でいえば、王族・貴族の下で働く戦闘を業とする身分の低い家来を武士といいます。
その戦闘集団を律するのが武士道と考えれば、用明天皇の第二皇子である厩戸皇子(うまやどのみこ)を武士の座に加えるのはあまりにも失礼な気もします。
しかも、武士道を書いた新渡戸稲造先生が5千円札で、厩戸王(聖徳太子)は、昭和5年の超高額紙幣百円に登場して以来、千円、五千円、一万円紙幣と7度にわたって紙幣の肖像画になり、五百円の収入印紙にもなってお金の代名詞、格が違います。
なのに、武士道全集の第八巻に、物部守屋大連(ものべのもりやおおむらじ)との戦いに、蘇我馬子軍の武将として活躍したことが載っているのですから、皇族でありながら武士(もののふ)とみられても仕方ありません。この戦闘は、日本書紀の巻二十一にも載っています。
なにしろ厩戸皇子(聖徳太子)といえば、574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)に生まれ、622年4月8日(推古天皇30年2月22日)に逝去しますが、その業績は立派なもので、さまざまな偉業も成し遂げています。
ただし、この業績は厩戸皇子としてではなく、聖徳太子の実績です。

日本で初めての女帝・推古天皇(すいこてんのう)の摂政で天皇を補佐して国政を取り仕切った。
「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」をつくり、能力があれば身分に関係なく出世できる道を開いた。
日本で最初の成文法「十七条の憲法」を制定した。
日本の将来を考え、国威を示すために遣隋使(けんずいし)」を中国に派遣した。
世界最古の木造建築「法隆寺(ほうりゅうじ)」を建てます。
一度に10人の陳情を聞き分けて明確に解答した。
日本書紀では、聖徳太子に「兼知未然」、予知能力があったと記されている。
聖徳太子は京都千年の繫栄を予言、自分の死後二百年内に皇族がここに都を作ると述べた。
聖徳太子は、当時全盛の中国の煬帝に「日出ずる国の天子より、日没する国の天子に書を贈る」として激怒させた。

かくも突出した偉人・聖徳太子も現代の冷徹怜悧な歴史学者には敵いません。
「聖徳太子は存在しない」と、無情にも教科書からもその名が消えることになりました。
学説では、聖徳太子が実在した史料は皆無、「厩戸王の死後に創られた伝説」となったのです。
その主論は、
1、推古王朝は、摂政一人では何も出来ず、身内の蘇我一族の力を借りた共同体で運営とされていた。
2、冠位十二階制定は、多くの協力者の意見を取り入れた合作である。
3、憲法十七条は、厩戸王(聖徳太子)死後になって作成された。
4、遣隋使は、厩戸王(聖徳太子)が派遣した小野妹子ら以前から、派遣されていた。

それにしても変ですね。拾遺和歌集には聖徳太子作と称する次の歌が載っています、
「しなてるや 片岡山に飯に飢ゑて 臥せる旅人あはれ親なし」
人情味溢れる歌ですが、どなたかの偽作でしょうか?
厩戸皇子は、推古天皇のもとで叔父の蘇我馬子ら一族と協力して政治を行いつつ、国際的には遣隋使を派遣して中国の文化や制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定めて国政の安定を図り、天皇中心の中央集権国家体制を確立します。
その厩戸皇子が命がけで戦ったのは14歳の伸び盛りでした。
遣隋使や僧侶の持ち込んだ中国伝来の仏教を国政に取り入れて、神道とともに厚く信仰し興隆につとめようとした蘇我馬子と、それに反対して仏像を片っ端から破壊したのが強大な軍事力を抱える物部守屋大連だったから大変です。
大連(おおむらじ)とは、古墳時代からヤマト王朝の軍事担当役職で、軍を率いて外部の敵と戦うのが仕事ですから、いわば武士のはしりで、武士(もののふ)という呼称も、「物部の歩」からとったとする説もあるぐらい強大な力を誇っていて、戦いでは蘇我一族は勝ち目はなかったのです。
それが、仏教問題と皇位継承が絡んで激しく対立し、厩戸皇子などの活躍でついに守屋一族は攻め滅ぼされます。
用明天皇2年(586年)、前年に敏達天皇崩御に次ぎ、その父・橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこと)が用明天皇として即位していたが、突然死去、その後の皇位を巡って仏教崇仏派の蘇我馬子と仏教排除派の物部守屋が激しく対立します。
その皇位を巡る争いが戦いになると、すかさず蘇我馬子は、守屋が次期天皇に推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺し、諸豪族や諸皇子を集めて守屋討伐の戦いを挑みます。
14歳の厩戸皇子も自分の家来を率いてこの軍に加わります。
蘇我軍は、河内国渋川郡の守屋屋敷を攻めますが、さすがに軍事役が主業である物部一族の将兵は精強で手強く、いくら攻めても頑強に抵抗して蘇我軍を撃退します。
これを見た厩戸皇子が決戦を挑む決心をし、白膠(ぬるで)の木を切って小刀で仏像を彫り、勝利すれば各地に仏塔を建てて仏教を広めると誓い、軍を鼓舞して守部砦に攻め込みます。その勢いに圧されて守部軍は散りじりになって山に逃げます。
その隠れ場所を突き止めた厩戸皇子は、部下の迹見赤檮(とみのいちい)に祈りを籠めた矢を与えて、大木の茂みに隠れた守部を射るよう命じ、矢は見事に守部を射抜きます。こうして栄華を誇った守部一族は壊滅します。
その後、厩戸皇子は戦いに際して祈った誓願を守り、難波に四天王寺を建立しました。
蘇我一族が推した推古天皇の御世は36年の長きに渉り、厩戸皇子は推古30年に斑鳩(いかるが)の里で数奇な生涯を終えます。
行年49歳、その半生を政務を執り行う摂政として君臨した厩戸皇子は、聖徳太子の名を借りずとも強い信念を秘めて武士道を貫いた偉大な人物とみて、ここに取上げました。
(実は、私が大好きだったのにご縁が薄かった聖徳太子の肖像画入り紙幣を懐かしんでの個人的回想です)