安部貞任と源義家にみる武士道


安部貞任と源義家にみる武士道

花見 正樹

安倍貞任(あべ のさだとう)は、平安時代中期の奥州安倍一族の武将で、六尺をゆうに超す2メートル近い巨漢だったようです。
父の安倍頼時は、奥州六郡を支配する豪族の頭領で、貞任は、砦とも城ともいえる厨川柵(くりやがわのさく)の守護を任されています。
それゆえに、通称は安倍厨川次郎貞任と呼ばれていました。厨川柵は、岩手県盛岡市の西に位置し、栗谷川とも記されていて、10メートルを超す断崖絶壁の自然の要塞の地に砦が築かれ、見るからに難攻不落の構えを見せていたようです。
その支配範囲は広範囲で、現在の盛岡市天昌寺町付近を中心に南は紫波町方面までの距離で円を描くほど広かった様子です。
貞任の妹聟に、藤原経清がいて、その子・藤原清衡が、安倍家滅亡のあと、奥州藤原氏を名乗ることになります。
当時は、京都の朝廷から送り込まれた奥州討伐の藤原登任(なりとう)軍と小競り合いを長年にわたって戦い続け、ついに奥羽鎮圧軍が安倍軍に壊滅的な敗北を喫します。
この悲観的な状況に苛立った朝廷側が奥州討伐軍の後任に陸奥守として選んだのが源頼義です。
源頼義が、息子の八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人を引き連れて奥州の騒乱平定に、鎮守府将軍として奥州入りしたのは永承6年(1051年)のことでした。それまでの陸奥守であった藤原登任(のぶとう)が奥州六郡を支配する安倍一族と戦って敗れたための後任としての赴任でした。
頼義一行が陸奥守として陸奥の政庁・多賀城に着任すると、その無敵の武名のを恐れた安倍一族の首領の安倍頼時(頼良より改名)が、早くも恭順の意を示して降伏します。
しかも、その翌年には、後冷泉天皇の祖母・上東門院・藤原彰子の病気快癒祈願で大赦が行われ、安倍一族の朝廷への反逆罪も赦されます。
これで両軍とも完全に戦いを止め、奥州に平和な時代が戻りました。
こうして、頼義の陸奥守在任中は何事もなく過ぎ、任期満了の天喜4年(1056年)には、安倍頼時の主催で惜別の饗応も受け、一族揃って無事に帰路に着きます。
その帰路のことでした。
阿久利川河畔にて野営の陣を敷いての一夜、夜陰に乗じて小人数の暴徒が陣を襲って乱暴狼藉におよび重軽症者が出たのです。
この阿久利川事件を境に状況は一変します。
これに「犯人は頼時の嫡男・貞任」と讒言をしたのが安倍側と思われていた陸奥権守の藤原説貞(ときさだ)の子・藤原光貞でした。
この言葉を真に受けた源頼義は、頼時に貞任を引き渡すように求めます。頼時は当然「濡れ衣である」と断じて拒否した上に、いつでも戦えるように軍備を整え、頼義の軍と対峙します。
怒った頼義は軍勢を衣川の関へと進め、いよいよ戦いが始り一進一退の攻防が続きます。
やがて朝廷からも頼時追討の宣旨が下り、戦いは激しさを増します。
この間のあれこれは省略・・・
戦いのさ中、安倍頼時が戦死し、貞任が跡を継いで安倍一族の首領となり、ますます猛攻を仕掛けてきます。
そのうち頼家軍は、安倍軍に惨敗します。
冬が近づいた寒い季節、頼義は貞任討伐を焦って、将兵約2千で安倍軍の拠点とする河崎柵に攻め込みます。ところが、対する貞任軍は精兵4千人を隠していて、一気に迎え討ち包み込んで相手を殲滅する策に出ます。
この歴史に残る黄海(きのみ)の戦いで、安倍軍に散々に打ち破られ死者累々の大敗で、大将の頼義も危ういところでしたが、わが子・義家の活躍で九死に一生を得てほうほうの態で脱出します。
黄海の戦いで受けた損害は甚大であったが、数年の準備期間を経て軍備を整え、頼家は軍を七つに分け、敵から寝返った将兵も交えて総勢1万3千の大軍で、再び安倍軍討伐に向って総攻撃を開始した。
その後は、頼義軍が優位に戦って・・・いきなり衣川です。

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古今著聞集「衣のたて」原文より。

伊予守源頼義の朝臣、貞任・宗任らを攻むる間、陸奥に十二年の春秋を送りけり。鎮守府を発ちて、秋田の城に移りけるに、雪、はだれに降りて、 軍の男どもの鎧みな白妙になりにけり。 衣川の館、岸高く川ありければ、盾をいただきて甲に重ね、筏を組みて攻め戦ふに、貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、
きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」
と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、
衣のたてはほころびにけり
と言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、
年を経し糸の乱れの苦しさに
と付けたりけり。そのとき義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。
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義家が衣川の館(たち)に、着衣の縦糸のほつれをかけて「衣のたちはほころびにけり」と詠んでいます。
それに対して貞任は、身内の裏切りを察して、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と詠み返します。
これは、「何年も同じ衣を着ていると糸も弱るように、組織も統率が乱れる」とされます。

義家は、河内源氏出身で七歳で元服、若年時から武勇に秀でて強弓を引き、藤原道長の四天王となり、八幡太郎義家と呼ばれていました。
これは、元服したのが石清水八幡宮だったからという説もあります。
その後、貞任は敗死しますが、この時の連歌は、命がけの戦いでの中だけに凄い余裕です。
どちらも立派な武士(もののふ)として、これからも語り継がれることでしょう。