幸福を売る男
芦野 宏
Ⅲ 新たな旅立ち
2、お茶の間にシャンソンを
創作シャンソンとフランス版『くらしの窓』-3
(注)
日本民謡と服部良香叩の仏訳者フランス、リヨン育ちの薮内宏氏は、芦野宏のフランス語の先生、 リヨン生まれの令弟(薮内久・故人)は毎日出版文化賞受賞『シャンソン写与イストたち』の著者 である。服部作品の和製ポップスは、「東京の雨」「東京の空の↑隅毘流れる」「絵描と詩人」「東京のブルース」の四曲。
私の音楽人生のなかで大きな力になってくださった石坂範一郎氏も、名マネージャーといわれた菊池維城氏もすでにこの世にいない。東芝EMIとの専属契約も切れて、一度クラウン・レコードに移籍してレコード、CDを出したが、そのあと私はフリーになり、どこでCDを出してもかまわない立場になっていた。石坂氏の長男である石坂敬一氏が東芝EMIの取締役本
部長の要職にあることを知ったのは、そのころである。私はちょうど歌手生活四〇周年を迎えて、どこかでCDを出すことを考えていた。なにか因縁めいた話だが、これは石坂氏のお導きであるような気がする。私は白い花を持って石坂夫人のお宅を訪ね、ご主人にたいへんお世話になった時代のことを懐かしくお話しした。そして、今またご長男のお世話になることをご報告して帰ってきた。
東芝EMIから発売された一三〇曲入りのCD『芦野宏のすべて』は敬一氏のお計らいで敏腕ディレクター、仙波知司課長プロデューサー(現・部長)に一任された。五枚組のCDは、一枚目に古い東芝レコードのデビュー曲から、ア~ゼンチンやパリで吹き込んだ「カミ丁ト」1ラ・メール」、思い出の懐かしいシャンソン、そして五枚目は四〇周年記念リサイタルの
ライヴ盤で、最後にリーヌ・~ノーと二人で歌った「知りすぎたのね」「いつの日かパリに」が収録されている。四十数年前からお世話になり、リーヌ・~ノーと引き合わせてくださった石坂氏。言葉に尽くせぬほど感謝している。だから、このCDが出来上がったとき、いちばんに石坂夫人のお手元に届くよう取り計らっていただいた。そして平成六年(一九九嬰、「日本シャンソン館」設立発表の記念に発売していただいた。『くらしの窓』では、この全集CDの曲のうち一〇〇曲は歌っている。なにしろ一か月に三〇曲としても、一年に三〇〇曲は用意しなければならないからたいへんであった。
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2020年 22月ライブスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時 開演時間 出 演
2月23日(日) 11時~/14時~ MIKAKO ピアノ:中野宏美
2月24日(月) 11時~/14時~ 山添恵子 ピアノ:大美賀彰代
※ピアニストの変更がありました(2020. 1. 25)
2月29日(土) 11時~/14時~ 江口純子 ピアノ弾き語りライヴ
(2017年内幸町ホールアワードシャンソンコンクール最優秀賞 受賞)
3月ライブスケジュール
※変更になる場合がございます。ご了承ください。
日 時 開演時間 出 演
3月1日(日) 11時~/14時~ 岩崎桃子 ピアノ:大美賀彰代
3月7日(土) 11時~/14時~ 山添恵子 ピアノ:江口純子
3月8日(日) 11時~/14時~ あみ ピアノ:今野勝晴
3月14日(土) 11時~/14時~ 小林美恵子 ピアノ:大美賀彰代
3月15日(日) 11時~/14時~ 宮崎名緒子 ピアノ弾き語りライヴ
(日本シャンソンコンクール2018グランプリ受賞者)
3月20日(金) 14時~ のど自慢vol.26 ピアノ:大美賀彰代
3月21日(土) 11時~/14時~ 桜井ハルコ ピアノ:日野香織
3月22日(日) 11時~/14時~ MIKAKO ピアノ:大美賀彰代
3月28日(土) 11時~/14時~ 秋山美保 ピアノ:大美賀彰代
3月29日(日) 11時~/14時~ 山添恵子 ピアノ:日野敦子
2020年3月21日(土)
桜井ハルコ
バースデイ・ライヴ
ピアノ:日野香織
時間:第1回公演/11:00~、第2回公演14:00~
会場:日本シャンソン館2Fシャンソニエ「ヴェルメイユ」
料金:入館料 大人1,000円、小人(中学生以下)500円
ライヴ料 500円
どなたでもお聴きいただけます。どうぞお出かけください♪
2020年3月20日(金・祝)
日本シャンソン館
のど自慢 vol.26
参加者募集中
ご案内:日本シャンソン館館長 羽鳥功二
ピアノ:大美賀彰代
司会:飯塚裕美
時間:14:00開演
参加費:一般4,000円/友の会会員価格3,000円
会場:日本シャンソン館2F シャンソニエ「ヴェルメイユ」
主催:日本シャンソン館
★どなたでもご参加いただけます。
★歌唱曲はシャンソンに限らせていただきます。
★楽譜をご持参ください(お一人一曲)。
★当日の午前中に譜面合わせを行います。
★最後まで思う存分歌って頂けます。
<お問い合せ・お申込み>
日本シャンソン館事務局
TEL:0279-24-8686 FAX:0279-24-1919
営業時間 9:30~17:00(水曜日休館)
*クレジットカードのご利用はできません。
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NHKの教養番組だったからである。
2020年3月20日(金・祝)
松井八郎先生は素晴らしい才能に恵まれたジャズ・ピアニストであり、作曲家であり、アイデアマンである。『くらしの窓』以来、すっかり仲良しにさせていただくようになり、私は自分で書いたいくつかの詩を先生にお見せすると、先生はその場で詩にメロディーを付けてくださった。まず私の旅の印象を歌にした「南国薩摩の白餅」1鳥取の砂丘」から始まり、「僕の日記帳」「水戸の梅」と続いた。これらは『くらしの窓』のなかで発表し、自主リサイタルでも歌い、地方公演でも歌った。『くらしの窓』でいちばん投書の多かったのは「水戸の梅」である。祖父の転勤先、水戸で生まれたと聞く私の母を歌ったものである。
一
さて、フランスでは外国の良い歌はすぐにフランス語に直して歌い、シャンソンとして流行させてしまう傾向がある。古くはイタリアのカンツォーネ、たとえば 「ルナ・ロッサ」 がある。
あの日歩いた道を 今も忘れはしない
なかにし礼さんは、その後、作詞分野でもめきめきと頭角を現し、歌謡界の寵児となり一世を風摩した。レコード大賞も何度か受賞し、そうした活躍で日本一収入の多い作詞家として話題を集めているころ、週刊誌のなかで私はこんな記事を見つけたことがある。「振り返ってみると、一時期、ぼくの歌に色気ぬきの訳詞の時代があった。いまそれを集めてみたら、ほとんど声野宏のために書いたものであった」という談話である。なるほど、なかにし礼さんの膨大なヒット曲、それらはすべて男女の愛がテーマのものばかりである。あのころ、私がNHKテレビでお茶の間向けの番組のなかで歌うことを意識されて、次々と書いてくれた歌を思い起こすと、うなずけるものがある。「ワルソーのピアニスト」「旅芸人のバラード」 のような名曲にも男女の影は見えない。
なかにし礼さんはシャンソンの訳詞から始まり、流行作詞家としてナンバーワンの栄誉を勝ちとると、しばらくして流行歌はいっさい書かないと宣言した。そして自費を投じてパルコ劇場を五日間借り切ってシャンソン・コンサートを開き、そのライヴCDの制作に踏み切った。
『くらしの窓』は主人を勤めに送り出した家庭の主婦たちの評判をとり、二、三か月もすると、視聴率がぐんぐん上昇し、全国どこへ行っても皆さんに、朝のさわやかな番組として知られるようになった。ところが本人にとっては、収録が夜中でもテーマソング「あかるい朝です。
ヒトリデ過ゴスオ正月
開演時間 出 演
「紅葉残る伊香保~もつ煮の聖地まで!100日まいたけの絶品バター炒め&赤の魅力の河鹿橋で焼きアユを堪能!行列もつ煮・名店の味そのままの自販機も必見!」
平成八年(1998)、パリ市長シラク氏がフランス大統領に就任されて初めて来日の折、赤坂離宮の迎賓館における迎賓会に招待を受けた。私はその日のうちに群馬の「日本シャセン館」に行かをければをらなかったので、少し早めに赤坂の会場に到着した。夜の迎賓館はまだ人影もまばらで、やたらと警備のSPや警官の姿が目立ったが、私の少し前を黒いドレス
『くらしの窓』は午前九時から三〇分間、家庭の主婦向けの番組で、料理と食事マナー、おしゃれのポイント、来客のためのテーブル・セッティングなど、毎日の生活を豊かにするさまざまなコーナーが作られており、一つのコーナーが終わるごとの合間に私の歌が挿入される、という構成であった。
薩摩忠は第四回室生犀星詩人賞、第九回翻訳出版文化賞など受賞。NHKラジオの深夜番組『夢のハーモニー』で朗読される詩を長年担当された。また、教科書や教育テレビに採用された「まっかな秋」「冬の行進」など、童謡や創作歌曲、外国歌曲の訳詞も数多い。こうした活動に関連の深い『波の会』(現「新・波の会」 の前身) の重鎮である。
NHKテレビに『黄金(きん)のいす』という木曜夜八時からの三〇分番組があった。ポピュラーな音楽界の第一人者が登場する、ドキュメンタルなバラエティショーである。カラー放送も始まって五年、昭和四十年十二月九日「みんなのシャンソン」というタイトルで、芦野宏がその椅子に迎えられた。当日の案内には、次のように記されている。
アンドレ・クラヴォー(魅惑的な歌声の歌手) の歌う心温まるシャンソン「パパと踊ろうよ」。こんな歌が流行歌として通用するフランスはいいなと思っていた。
昭和三十五年(一九六〇)五月に私がパリでのレコーディングを終えてからちょうど1年たった昭和三十六年五月八日、私は羽鳥房江(由希子)と結婚式を挙げた。遅い結婚であったが、ようやくたどり着いたという感じである。なぜならば、デビュー以来仕事の忙しさは論外で、母などはマネージャーをうらみ、「うちの息子を働かせすぎないでください」と電話までしたほどである。とても結婚生活など考えられない毎日であった。1年に250回もの地方公演と、テレビが多いときで週に五本、ラジオのレギュラーが週に三本といった調子である。このまま結婚したら、うまくゆかないのは目に見そいる。私が世界旅行をして三か月間、日本を留守にしても、音楽事務所がなんとかやっていけそうなので、結婚を機に少し仕事を減らそうと考ぇて菊池維城氏にもそのように伝えた。
カイロの土産屋で買ったときは、それほど感じなかったのに、パリに持帰ったら、まったく私には合わないように思われたのだ。
五月に入ってまもなく、ある日、NHKの磯村氏からお電話をいただき、ご夫妻に連れられて、モンマルトルへ行くことになった。リユシエンヌ・ポワイエが自分の店ヘアシノさんをぜひ連れて釆てほしいと言われたとのことであった。彼女はたまたま私が出演したテレビ番組のなかで、「ラ・メール」が気に入ったから店でも歌ってほしいとのことである。五月のパリは、一年じゅうでいちばん良い季節、フォブール・サントノーレ祭りの夜だった。高級ブティック
スタジオに入って、またびっくりした。私のために特別に製作してくれたセットが、まるで中国なのである。担当者は得意げに胸を張って自慢した。1あなたのために特別に注文して作りました」というのである。本番まであと数時間、私は呆然としてしまったが、今さら取り替ぇてもらうこともできず、また取り替えるにも実物があるわけでもなかろう。仕方なく私はその中国風のバックの前で歌わなければならなかったのである。セットは海に向かった中国風の
10日ほどしてから吹き込むことになったが、やはり不安は山ほどあった。アルゼンチンの吹き込みで、私は通訳が一人で右往左往したことを思い出し、大使館に頼んで二人の女子留学生をアルバイトで予約した。また、あのときのように、楽団員にそれぞれ勝手なことを言いだ
舞台から有名スターたちがちょっと挨拶するだけなのに、客席のほうは超満員で熱気に満ちていた。やがて舞台から戻ったペコーと、私は四年ぶりに再会し、今日のご招待のお礼を言う。
昭和三十五年の世竺周旅行は、北米、南米の次は欧州フランスへ飛んだ。四月半ば、パリは初渡仏以来、四年ぶりである。懐かしいパリ、あのときとまったく変わらないパリの街に着いたとき、キザなようだが、パリに帰ってきた、という感激で陶が熱くなった。街角の古びたビこストロも、カフェの椅子でさ、ろも懐かしく、歩きなれた道を通ってホテルに入った。フロントで部屋の鍵を受け取るとき、一過の封書を渡されたが、気にしないで一刻も早くベッドで休みたいと思っていた。
それというのも、日本のテレビ局のように、あと何分、あと何秒という神経質なやり方でなく、いとも大ざっばなディレクターの指示であり、時間のほうは司会者にお任せです、というようなのんきなものであったから、出演するほうもプレッシャーを感じなかったのである。
ちょうどレコーディングが終わるころ、稲塚氏ご夫妻がスタジオに現れた。そして、日立製作所が用意した高級レストランでの慰労会のとき、今度新しくできたブエノスアイレスのテレビ局で私のワンマンショーをする打ち合わせをした。滞在日程の都合で、明後日、夜8時半からの30分、生放送で出演することになったので、ロペス氏を楽団に選定をした。テレビ局からも責任者が参加して意見を出したが、私はその場でプログラムを考えた。
私はロペス氏と英語で話し合って、楽士たちの意見をなるべく受け入れるように頼んだ。「郷入れば郷に従、え」という諺があるから、私はこの国の人に任せようと思ったのである。ロぺス氏は、それじゃ私に任せてくれと言って大きな声で皆を制止し、楽士たちに譜面どおり弾かなくてもよいことを伝えた。
日本からいちばん遠い国、ちょうど地球儀の裏側にあるアルゼンチンは、日本と逆の気候だから、四月といえば秋たけなわである。飛行機は途中ベネズエラのカラカスとパラグアイの首都アスンシオンで給油すると、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには夜中の二時ごろ到着した。深夜のブエノスアイレス空港に着いたとき、日立製作所の稲塚保氏が出迎えてくださった。初めての外国で西も東もわからない私は、稲塚氏の指示に従ってホテルに直行し、すぐにもシャワーを浴びて寝ようとしたが、どうしたことかお湯が出ない。言葉もよく通じないし夜も更けていたので、その日は諦めてベッドに直行した。
幸福を売る男
(注)
2019年3月24日(日)
ところで、昭和三十二年に入ってからはしだいにテレビの仕事が多くなり、日立のスボンサーで日本テレビ制作のミュージカル仕立て連続もの 『東京ロメオ』(脚本・野上彰/音楽・服部良一、共演・中原美紗緒)の主役をすることになった。この模様はパリ祭の夜から毎日曜日の夜、三か月にわたって放映された。挿入歌に「東京の空の下隅田は流れる」などがある。地方公演が多いころで、早朝の一番機で羽田空港に着いてから、すぐにスタジオ入りし、収録後にまた九州へ飛び立つという殺人的スケジュールも平気でやってのけた。