6.サンフランシスコにて-11

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第1章 咸臨丸、アメリカへ往く

6.サンフランシスコにて-11

こうした公式行事の合間を見て福沢諭吉は単独行動を取り、アメリカ訪問の目的を遂げるために、毎日精力的にサンフランシスコ市内の主要な場所や施設を訪ね歩いた。
福沢は、アメリカの国家体制や社会制度についてじっくり観察、理解に努めた。
ある日、サンフランシスコの街中から戻ってきた福沢が、非常に驚いた様子で木村に報告した。
「木村様、この国の人たちは、自国の大統領の子孫のことには、まったく関心がないようです。びっくりしました」
福沢は、このときの驚きの気持ちを、後年、『福翁自伝』の中で具体的に述べている。
『ところで私不図(ふと)胸に浮かんで或る人に聞いてみたの外(ほか)でない、今ワシントンの子孫は如何(どう)なっているかと尋ねたところが、その人の言うに、ワシントンの子孫には女がある筈(はず)だ、今如何(どう)しているか知らないが何(なん)でも誰かの内室になっている様子(ようす)だと如何(いか)にも冷淡な答で何(なん)とも思って居(お)らぬ。これは不思議だ勿論(もちろん)私もアメリカは共和国、大統領は四年交代ということは百も承知のことながら、ワシントンの子孫といえば大変な者に違いないと想うたのは此方(こつち)の脳中には、源頼朝、徳川家康というような考えがあって、ソレから割出して聞いたところが、今の通りの答に驚いて、これは不思議と思うたことは今能(よ)く覚えている。理学上のことについては少しも肝を潰すということはなかったが、一方の社会上のことについては全く方角が付かなかった』

一方、咸臨丸の乗組員がそれぞれのスケジュールをこなしている間、咸臨丸はメア・アイランド(メーア島)にある海軍造船所でアメリカ側の手によって、急ピッチで修理工事が行われていた。
咸臨丸の船体は、往路の荒波にもまれて著しく破損したため、修理が必要となっており、さらに、ブルック大尉が実際に咸臨丸を操船してみて、船の構造上の改善点を発見した。ブルック大尉は、提督の木村摂津守や日本人仕官に対して改善点を具体的に指摘して、修理工事についての助言や指導を行った。
ブルックの助言を受けた木村摂津守は、ブルック大尉を通してアメリカ側に咸臨丸の早期の修繕と改造の依頼を申し出た。木村の希望は、台風が日本に来襲する秋までには日本に帰り着きたいというものだった。
ブルック大尉は、木村の願いを尤もだと思った。