第二部 木村摂津守の家族-3

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第二部 木村摂津守の家族-3

 特筆すべきは、明治三十八年(1905)年五月二十七日未明、哨戒艦信濃丸から「敵艦見ユ」との無線電信が旗艦三笠に届き、ただちに聯合艦隊が対馬沖に出動し、ロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海海戦の勝利についてである。
即ち、ロシア・バルチック艦隊が対馬海峡に向首した五月二十七日午前四時四十五分、哨戒艦信濃丸がこれを発見し「敵艦見ユ456地点信濃丸」との無線電信を旗艦三笠に発信した。
信濃丸に続き和泉丸がバルチック艦隊を追尾し、敵艦隊の総数、艦種、隊列、進行方向、速力などすべての必要な情報を旗艦三笠へ送信した。
これを受けた東郷平八郎司令長官は、同五時五分に全軍に向けて出動を命じるとともに、
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出撃之ヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と大本営に打電した。
旗艦三笠の司令部では秋山真之参謀以下、敵艦隊に関する完璧な情報を得て、戦わずしてすでに勝算を得たと歓喜した。
このときの情報送信に使用されたのが、海軍技師木村駿吉がリーダーになって完成し、世界でもっとも性能のよい無線機といわれた三六式無線電信機であり、その送信距離は八十海里に及んだ。
秋山真之参謀や聯合艦隊の歓喜の様子は、秋山中佐より木村駿吉に送られた次の書簡に如実に表れている。
「日本海の大捷は天佑神助によると雖も、無我無心なる兵器の効能の亦頗る著しく就中(なかんずく)無線電信機の武功抜群なりしについては、小生深く貴下に感謝するところに御座候。
旅順の難鎖これがために遂行、対馬海峡の哨戒監視もこれありて成立す。五月二十七日夜『敵艦見ゆ』との信濃丸の電信を感受したる吾々の歓喜たとうるものなく、即ちこの警報の達したる午前五時半、皇軍大捷の決定したる千金一刻とも申すべし。(中略)
吾々司令部員がこの海戦において奉公の応分を尽し得たりとせば、その用いし武器は無線電信と鉛筆とコンパスにて、特に貴下に対して深厚なる謝意を所以(ゆえん)に御座候。
六月十日        旗艦三笠にて                                                           秋山真之

木村駿吉様 」