1.福沢諭吉の激怒-1

Pocket

「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉

1.福沢諭吉の激怒-1

「何を思い違いされておられるのか。私は何も貴方に金子を差し上げているのではない。徳川様に殉じられた御尊父様に対する私の心を尽くしているまでのこと。あなたからとやかく言われる筋合いはない」
日本が日清戦争に勝利してから三年後の明治三十一年(1898)十二月の末、東京府芝区三田二丁目十三番地の慶応義塾大学部の敷地内にある福沢諭吉の邸内から、六十四歳の諭吉翁の凄まじい怒鳴り声が漏れて響いた。
咸臨丸で渡米してから三十八年が経っていた。
福沢は常にない大層不機嫌な態度で、顔色を変じて目の前にいる軍人の顔を睨みつけた。そして、険しい目を軍人の顔から背けると、相手を無視するかのように、不自由な手で傍らの書物を取り上げ、読み始めた。
福沢邸の中に緊張が走り、別室で控える家人たちは福沢の体を気遣って心配げに顔を見合わせ、恐る恐る奥の間の様子を窺った。
家族の心配は、福沢がその年の九月に突然脳溢血を発症して意識混濁に陥ったが、十二月に入ってようやく病魔を乗りこえ、どうにか健康を取り戻すことができたという事情にあった。
一方の福沢の前で顔面蒼白になって立ち尽くす相手は、福沢と同様に目や鼻、口が大きく、眉毛も濃い骨太の海軍軍人だった。
そのいかり肩の大男こそ、福沢諭吉が終生の恩人として敬う元幕府軍艦咸臨丸の提督を務めた木村摂津守喜毅の長男、海軍中佐木村浩吉だった。
その日、福沢は、暖を満たした寝間の布団の上で、六十四歳の老躯を静かに慰めていた。
そこへ、くだんの軍人が訪問してきたのだった。
福沢は、家の者から木村浩吉の来訪を告げられるや満面に笑みを浮かべ、麻痺が残る右手をあげて、嬉しそうに家人に指図した。
「奥の間へお通しなさい」
奥の間とは、書斎と私的な応接室を兼ねた部屋で、福沢が特に心を許した人だけを招き入れる特別の個室だった。
つい数日前にも、木村浩吉の父木村芥舟が福沢を見舞いに福沢邸を訪れ、その個室で日本の海防について論じ合ったばかりだった。