今泉みねの話-5

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉

2.今泉みねの話-5

 福沢は、念願であったアメリカの地を踏み、初めての外国を見聞することができた。
往路三十七日、復路四十八日の航海で、木村摂津守と福沢諭吉は、サンフランシスコとハワイ滞在期間を含め、延百四十二日間にわたり行動を共にし、同年五月五日に浦賀港に帰り着いた。
そして、福沢諭吉は、アメリカから帰国したその年の十一月に、木村摂津守の推挙によって外国奉行支配翻訳御用御雇となり、外国文書の翻訳に携われるようになった。
さらに、木村の口利きで、元治元年(1864)十月、外国奉行支配翻訳方として幕府に出仕し、禄高百俵取の旗本として登用され、陪臣の中津藩士から幕臣に抜擢された。
このようにして、福沢は木村との出会い、後押しによって幕末から明治維新の時流に乗り、世に出ていくことができた。
木村摂津守喜毅が、大成する福沢諭吉の人生の端緒を開いた。
このことが契機になって、二人は生涯にわたり深い親交を結んだ。
木村は、福沢を生涯の知己として、「先生」と敬称した。
福沢は、木村を終生の恩人として尊重し、礼を尽くし、肉親の兄の如くに慕った。
福沢が抱いていた木村摂津守喜毅(芥舟)への報恩の想いについては、福沢自ら記した文章がある。
これは、木村芥舟が明治二十四年(1891)に著した『三十年史』(幕末の外交史)へ福沢諭吉が序文を贈ったもので、次のように敬意と謝意を表した。
『是れぞ我大日本国の開闢以来、自国人の手を以て自国の軍艦を運転し、遠く外国に渡りたる濫觴(らんしょう)にして、この一挙以て我国の名誉を海外諸国に鳴らし、自ら九鼎大呂(きゅうていたいりょ)の重を成したるは事実に争う可らず。就中(なかんずく)、木村摂津守の名は今なお米国に於て記録に存し、また古老の記憶する処にして、歴史に湮没す可らざるものなり。当時、諭吉は旧中津藩の士族にして、夙に洋学に志し江戸に来て藩邸内に在りしが、軍艦の遠洋航海を聞き、外行の念自ら禁ずる能わず、すなわち紹介を求めて軍艦奉行の邸に伺候し、従僕と為りて随行せんことを懇願せしに、奉行は唯一面識の下に容易(たやす)く之を許して、航海の列に加わるを得たり。
航海中より彼地に至りて滞在僅に数箇月なるも、所見所聞一として新ならざるはなし。多年来西洋の書を読み理を講じて多少に得たるところのその知見も、今や始めて実物に接して、大いに平生の思想齟齬するものあり、また正しく符号するものありて、これを要するに今度の航海は、諭吉が机上の学問を実にしたるものにして、畢竟の利益これより大なるはなし。而してその利益はすなわち木村軍艦奉行知遇の賜物にして、終生忘る可らざる所のものなり』
福沢諭吉は、外国での実地見聞が大きく役立ったことを身をもって感じ、さらにこの後、アメリカへ一度、ヨーロッパへ一度、合計三度の海外渡航体験を得ることができた。