木村摂津守の家族-2

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第二部 木村摂津守の家族-2

 明治三十年(1897)、長男浩吉は海軍少佐に進み、父のために麹町区土手三番町に新邸を建て、芥舟と同居した。
浩吉は、明治三十七年(1904)七月に海軍中佐から大佐に進級、次いで明治四十二年(1909)年十二月に海軍少将に進級した。
旧幕臣の子弟ながら木村浩吉は明治海軍の少将まで昇り、父芥舟の遺志を継ぎ近代日本海軍の基礎作りに多大な貢献をした。
次男駿吉は、その後東京帝国大学理学部に入り、卒業後、1893年から1896年までアメリカに留学し、まずハーバード大学院に学び、その後四百ドルの奨学金を得てイェール大学院で二年間学んだ。
帰国後は、明治二十九年(1896)七月に第二高等学校の教授として仙台に赴任したが、明治三十三年(1900)三月、海軍に奉職、海軍教授、海軍無線電信調査委員会の委員を任じた。
この海軍無線調査委員会の設立の経緯について、後年(昭和十年五月十日)、木村駿吉が、『日本海軍初期無線電信思出談』のなかで次のように述べている。
『グリエルモ・マルコーニが無線電信を発明してからしばらくして、明治三十年頃であろうか、逓信技師の松代松之助君が無線電信について研究を始めた。それを見学した外波内蔵吉海軍中佐(後に海軍少将)が山本権兵衛海軍大臣(後に海軍大将)に建言し、移動する海上艦船との通信に必要適切であるから、海軍においても研究を行うべきとなり、明治三十三年に海軍無線電信調査委員会が設けられた。それは一面において、日露戦争が到底免れないことを感得されたが為であろう』
木村駿吉は、兄木村浩吉の仲立ちでこの委員会の委員に任命された。
研究の目標は「三年間の間に、八十海里の到達距離を持つ無線電信機」を開発することで、八十海里という設定は、当時の軍艦の速力や艦隊の行動予定区域から定められたものだった。木村駿吉は、緊迫する東アジア情勢を睨み、寝食を忘れて無線電信機の開発に没頭し、翌三十四年末には目標を達成させた。
木村駿吉も、父芥舟の遺志を継いで、近代日本海軍の戦力強化に大いに貢献した。
奇しくも、海軍一家の長である木村芥舟は、次男駿吉が実施した無線電信機の八十海里通信試験が成功した明治三十四年(1901)年の十二月九日にこの世を去った。