木村摂津守と福沢諭吉の最後の会話-3

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第3章 その後の木村摂津守と福沢諭吉

3.木村摂津守と福沢諭吉の最後の会話-3

 福沢邸の部屋の中へ戻ろう。
木村芥舟が火鉢に手をかざしながら、懐かしそうに口を開いた。
「以前、我が屋敷の近くで火事騒ぎがあった折りにも、先生にいろいろとご活躍をいただきました」
「あっはっは。そんなこともありました」
福沢が愉快そうに、笑い声を上げた。
ある年の、ぴたっと風が止まった夏の夕暮れ、木村芥舟の屋敷の近くで火の見櫓の半鐘が派手に鳴った。
人の叫び声や走り回る足音など激しい騒ぎのなかを、大柄な福沢が学生数人を従えて着流しのまま、猛烈な勢いで木村の屋敷に駆け込んできた。
「ご免こうむります。散歩の途中で、火元が木村さまのお屋敷の近くらしいと聞き、無我夢中で走ってきました」
福沢は、にわかに木村邸の屋根にはい上がり、大棟に腰を下ろすと、手をかざして火元の方角に目をやった。そして、屋根の上に立ち上がり、右に左にと激しく動き回った。
木村邸の天井がぎしぎしと音を立てて、軋んだ。
木村の妻弥重が、仰天して、慌てて座敷から庭に飛び出した。
福沢は、火の勢いを見定めてから、屋根を見上げている庭先の木村に向かって叫んだ。
「木村さま、ご安心ください。幸い、風もなく、火の回りも遅いので、じきに、収まりそうです」
木村が、屋根の上の福沢に向かって大声をかけた。
「先生、ありがとうございます」
木村は、福沢との交流が始まった当初、咸臨丸の船内においても、それ以外の衆目の中でも、福沢諭吉を「福沢さん」と呼んだ。
ただ、福沢と二人だけのときは、「先生」と呼ぶこともあった。