3.咸臨丸、ハワイに寄港-4

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現在、下記に掲載中の作品が書籍になり発刊されました!

書籍名「増補改訂版・咸臨丸の絆」
「サブタイトル・木村摂津守と福沢諭吉」
著者 宗像善樹
発刊・海文堂
価格・本体1300円+税

村長の推薦

花見 正樹

 このたび「歴史の舘」内「歴史こぼればなし」で「咸臨丸物語」を執筆中の宗像善樹講師が「咸臨丸の絆」の増補訂版を上梓されました。サブタイトルも前作と同じ「軍艦奉行・木村摂津守と福沢諭吉」です。
幕府の軍艦奉行だった木村喜毅に懇願して咸臨丸で渡米した福沢諭吉は、その恩を忘れず生涯を通じて木村家に尽くします。
木村喜毅もまた福沢の能力と才能を認め「福沢先生」と敬って交流を続けます。福沢諭吉は木村喜毅の知遇を得て海外の政治経済や社会事情など海外の文化文明を学び、やがて慶応義塾を創設し日本の教育行政に一石を投じ、以降国を背負って立つ人材の育成に一翼を担うことになります。
本書は、その木村と福沢が、太平洋を往復する日本初の渡米のため軍艦・咸臨丸に乗った徳川の幕臣と水夫らのエピソードを交えての人間模様を克明に描いた読み物の傑作です。
とくに、咸臨丸が寄港したサンフランシスコでの木村摂津守のサンフランシスコ訪問時の威風堂々とした態度はアメリカの人々の賞賛の的でした。さらに、その木村喜毅は、この渡米のために私財を投げ打って3千両という大金を船に積み、部下の報奨金や土産用に使い果たします。著者は、この木村喜毅を尊敬する福沢諭吉が、この航海を通じて成長してゆく姿も余すところなく浮き彫りに描いていますが、前作に載っていた余分な文章を削除した分、読みやすく理解しやすくなっています。
なお、著書は全国有名書店かアマゾンにて購入できます。
近日中に、開運村トップページの「開運道・出版案内」からも購入できるように準備中です。

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「咸臨丸物語」

宗像 善樹

第二部 咸臨丸、帰還す

3.咸臨丸、ハワイに寄港-4

 福沢が続けた。
「父の想いを知った私は、坊主になる代わりに、学問で身を立てようと心に決めました。
父の想いを知るまでは、勉学が嫌いで、本も読まなければ、手習いもしないという始末でしたが、十四、五歳の頃から本気になって勉学に励みました。まず、白石照山塾で漢学を習い、次いで、兄三之助の勧めに従い蘭学を志し、長崎に行きました」
福沢は、話す相手が長崎の事情に明るい長崎海軍伝習所の二代目所長の木村摂津守であることから、長崎での行動については具体的な地名、場所名を交えて説明した。
「まず、長崎桶屋町の光永寺にしばらく下宿し、次に、砲術を学んでいた中津藩家老の子息奥平十学殿の持ち家に移り、さらに、奥平家の斡旋で砲術家の山本物次郎殿の家に移りました。
長崎での生活は約一年近くでしたが、その間死んだ気になって禁酒をして、勉学に励みました」
酒が大好物の福沢が軽く笑って付け足した。
「もちろん、丸山には行きませんでしたし、女を囲うこともしませんでした」
福沢は生涯、結婚前にも後にも妻以外の女性に一度も接したことがないといわれている。
木村は、福沢の含み笑いの意味を察して苦笑いした。
長崎の丸山遊郭は、江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町、伊勢の古市と並んで日本の大きな花街として知られ、長崎海軍伝習所の生徒も頻繁に丸山に出入りして、風紀の粛清を図かった当時の伝習所所長の木村図書は、随分と頭を悩まされたことがあったからだ。
福沢が、真剣な顔に戻って話を続けた。
「二十一歳になった安政二年(1855)、江戸遊学を決心し、その年の二月中旬に長崎を発ち、諫早に入り、諫早から船で佐賀へ、そして長崎街道を経て下関、瀬戸内を通り、十五日目に大阪の兄三之助宅(蔵屋敷)に着きました。そのまま江戸へ向かおうとしたところ、家督を継いで亡父と同じ役についていた兄に説得され江戸行きを断念し、大阪の適塾(緒方洪庵塾)に入門
しました。私は328人目の適塾の門下生となりました。
このときが私の本格的な蘭学修行の始まりで、初めて規則正しく書物を教えてもらいました。私は一心不乱に勉学に励みましたので、自分自身、学業の進歩がずいぶん速くて、書生がいる中でも成績はよい方であったと思います」
懐かしそうに言った。
「私が適塾で修学したのは安政二年(1855)3月の入門から安政五年(1858)10月の江戸に出るまでの足かけ四年間でしたが、その間、兄の死などで中津に帰りましたので、正味2年9ヵ月の在塾でした。非常に充実した期間でした」