平清盛と信西ー1

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今回は、村長の割り込み登場です。
と、言いながらも私も多忙な時期ですから渡りに舟、好都合なのです。
聞くと、武士道用原稿の改ざんだそうです。
ともあれ、歴史こぼれ話は多士済々、候補者多数で安心です。

歴史こぼれ話管理人・宗像善樹

 

平清盛と信西

花見 正樹

平清盛といえば平家物語を出典として、武士から貴族の頂点に立ち栄華を究めた人物として知られています。
一方の信西こと藤原通憲(みちのり)は、なんとなく悪名を残したまま歴史の表舞台から消えてゆきます。
なのに、私は無性に、この信西が気になるのです。
もしかしたら、光と影、この信西あればこそ、清盛はかくも眩く輝いたのではないか? そうも思えてくるのです。
平清盛は、永久6年(1118)1月18日、伊勢平氏頭領・平忠盛の長男として京都で生まれた、とされています。
その母は、祇園女御(ぎおんのじょうご)とされていたのですが、近年ではその妹の白河院女房の母親説が定説になっています。
さらに、清盛の本当の父親は白河上皇だとする説が有力で、上皇の側室だった白河院女房が身籠っていたにも拘らず、ある事件の恩賞として朝廷の警護役に過ぎなかった平忠盛に下賜され、忠盛の嫡男として生まれます。
その母が病で早逝し、清盛は、母の姉で朝廷の愛妾・祇園女御に引きとられ、その庇護を受けて育てられます。
それもあってか、清盛は若くして異例の出世を遂げてゆき、12歳ですでに武士ではなれない官職を与えられ、そこから出世階段を跳ねあがり、やがては最高位の太政大臣にまで登りつめ、宋との貿易などで財を成し権勢を振るい栄華の限りを尽くすようになります。
その清盛も武人の將として、戦いに明け暮れた時代もありました。
父・平忠盛に従って無敵を誇った海賊を退治したり、強大な勢力をもつ僧徒と戦うなど武将としても力を発揮していたのです。

信西こと藤原通憲は嘉承元年(1106)に中級貴族の藤原南家・藤原実兼(さねかね)の子として生まれます。
その父は、通憲が7歳の時に急逝、通憲は親戚であった高階経敏(たかしなのみちとし)の養子として高階通憲を名乗ることになります。
実父の藤原家は学者の家系でしたが、養父の高階家は白河上皇に仕えて受領を歴任して経済的にも裕福な上級官吏でした。
通憲は、実父・藤原の遺志を継いで真面目に学業に励み、その実力は際立っていて、「諸道に達せる才人」と周囲から評されます。
漢文、和文、天文学、帝王学を極め、古典「今鏡」にも「学界無双の俊才」との内容で紹介されるほどです。
しかし、当時の学者の世界は世襲制で、実家の藤原南家の家格なら可能でも、義父の高階家では、大学寮(大学相当の高等教育機関)の大学頭(学長相当)や文章博士(教授相当)などの要職への道は不可能でした。仕方なく、実務官僚の職を得ようと運動しますが、通憲の優秀さを知る先任官僚が既得権益を脅かされるのを恐れて寄ってたかって妨害します。
全ての道を閉ざされ将来に絶望した通憲は出家になることを決意します。
ところが、それを知った学問仲間の藤原頼長が、「国の損失」と通憲の才能を惜しんで周囲に働きかけ、鳥羽上皇もその才能を惜しんで、学問を生かせるように藤原姓を許可し、藤原通憲と改名させます。それによって、息子には大学頭となれる道が出来ましたが、本人には邪魔者達の壁が立ちはだかっていて道を開くのは容易でなく、通憲はついに出家して信西と名乗ったのです。
ところが運命のいたずらで、妻の藤原朝子が、雅仁親王(後白河天皇)の乳母に選ばれていたことがあり、その縁から信西の院近臣への道が開け、同世代で一族の藤原家成の紹介で12歳下の平清盛とも親交が出来、鳥羽上皇も才能ゆたっかな信西を重用して
「本朝世紀」などと世に残る歴史書の編纂を任せたりしています。
運命の歯車は、さらに世の中の動きを狂わせます。
2話に続く