投稿者「花見 正樹」のアーカイブ

新選組友の会のご案内

 

謹賀新年
    本年も宜しくお願いします。
       大出 俊幸

新選組友の会 代表者ご挨拶

代表挨拶三島由紀夫が自決した翌年(1971年)の2月、私は縁あって新人物往来社の書籍編集部へ入りました。
その年の秋、以前から懇意にしていただいていた評論家の尾崎秀樹先生の書棚から、『永倉新八』と題された本をお借りしたのが、私と新選組の出遭いになります。
私は大学生の4年間を京都で過ごしましたが、その頃は新選組には目もくれず、木屋町の安酒場で白い濁酒(ドブロク・とっても安かったのです)を飲んでは、友人達と遊泳する日々でした。
永倉新八がるろうに剣心と銀魂に登場!77年の生涯と驚きの逸話について ...倉新八という新選組の隊士が三条小橋西詰の池田屋(大学生当時は修学旅行宿・佐々木旅館)に突入し、乱刃をふるい何人かを斬った。
その本人が大正年間まで生き残り、体験談を残した。
自分の記憶にある京都の町並みが鮮やかに蘇り、そこを歩き、そこで戦った永倉新八という存在が、とてもリアルで身近に感じられたのです。
夢中になって読みました。
私の中で血がたぎり始め、感慨が大波のように押し寄せて、いてもたってもいられません。
そんな気持に突き動かされ、永倉新八の体験談を『新選組顛末記』と改題して発行。
以後は新選組にどっぷりつかり、新選組の書籍156冊を世に送り出しました。
そして今も、新選組が大好きです。
新選組ファンの皆様と、楽しく賑やかに新選組に関わっていかれる事に、何より大きな喜びを感じております。

    主宰・大出 俊幸

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 新選組友の会の主な行事

第24回「近藤勇や土方歳三はいつ農民から武士になったのか?」【歴史 ...🔴近藤勇忌。
  新選組局長・近藤勇の法要と講演会を中心とした催し、千葉県流山市で毎年4月前半に開催。

 

 

 

新撰組局長 近藤勇と副長の土方歳三が仲良く眠る | リタイア男の暇つぶし 

🔴土方歳三忌。
 新選組副長・土方歳三の墓前法要と講演会。東京都日野市で毎年5月前半に開催。

 

 

🔴沖田総司忌。
 新選組副長助勤・沖田総司の墓参ならびに講演会。東京都港区と渋谷区で毎年6月後半に開催。

 

東軍慰霊祭 新選組友の会公式サイト

🔴東軍慰霊祭(戊辰役東軍殉難者慰霊)祭。
 戊辰戦争で命を落とした旧幕府方の人々を悼む催し。開催地は毎年変ります。十月に開催。

 下記は過去に開催された東軍慰霊祭の1例です。
第27回戊辰役東軍殉難者慰霊祭(終了しています)
司馬遼太郎氏は「会津若松」と聞いただけで涙が出る思いと書かれています。
ひたすら政権奪取のためのみに過酷な戦いを挑んできた西軍の前にけなげに戦った会津若松の戦士の霊に合掌いたします。
どなたでも参加できる会です。
たくさんのお出でをお待ちしております。
日時:令和元年(2019年)10月12日(土)
慰霊祭 14:00~
懇親会 18:00~
場所:慰霊祭 天寧寺
   福島県会津若松市東山町石山字天寧208
     TEL:0242-26-3906
内容
 読経  神田良紘氏(曹洞宗徳昌寺住職)
焼香  
祭文奉読 佐藤 功武氏
記念講演 好川之範氏(歴史作家・札幌市在住)
『白虎隊と愛犬クマの会津戦争-天寧寺に眠る酒井伊佐美-』
懇親会 居酒屋ばんげ屋
福島県会津若松市栄町1-38 TEL:0242-32-9112 (準備の都合上 必ず事前に申込をしてください)
会費
慰霊祭 おひとり 3000円 (記念品を含む) 
懇親会 おひとり 5000円
準備の都合上、9月25日までにお申し込みください
参加申込
戊辰役東軍殉難者慰霊祭は、友の会会員はもちろん、会員でない方もご参加いただけます。
申込み方法は、こちらをご覧ください。
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因島自由大学発足ストーリー跡探訪ツアー
日時:令和元年10月13日(日)
8:00 会津若松駅集合  時間厳守
費用:おひとり 12000円(昼食付)
定員:先着20名にて締め切らせて頂きます。
 

 新選組に関心のある方は下記のURLより「友の会情報」をご覧ください。
🔴https://tomonokai.bakufu.org/main/irei.htm

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新選租銘々伝』郷里での啓之助-13

大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

 新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/
今回は2018年6月1日発行の160号からの掲載です。

信州松代市 道中記
『新選租銘々伝』郷里での啓之助-13

稲葉春義 満里子

三浦啓之助・佐久間格の正妻静枝-1

 明治時代の三田二丁目の常教寺の借地商のむめで、啓之助(恰)との結婚生活はみじかく、の佐久間家未亡人の人生がながく、略の後継のことでも苦労をしたようである。明治三十四年十月五日死亡。そのような事情から、これらの資料(近山-仮目録) は勝海舟がほとんど集め、海舟によって松代にのこされたとおもわれる。
この未亡人静枝によって、亡父、亡夫の法事が行われたことは、一前述どおり。後日われわれは平成十五年十一月二十八日、現地両寺をおとずれた。両寺は隣接、新宿区若葉二丁目九。説明版によると、西念寺-徳川家の長子〝信康″家の菩提をとむらって幕臣、服部半蔵が家康のめいにより開山。〝徳川信康〃の立派な供養塔があり、うしろに服部半蔵の墓もある。この供養塔、墓はともに新宿区指定史跡とある。旧幕臣の墓が多いとのことであった。
信寿院-西念寺の寮舎として創建され西念寺と隣接し寺内にもおおくの墓があった。これらの寺社で、佐久間家の法事回忌がおこなわれた関係はわからず、われわれの調べもこのあたりが限度とおもい、終わりにした。
ここで〝略妻の静枝〃 について、(87)亡父(象山)十七回法事についてのべる。明治十三年八月十六旦泉都にて亡父、佐久間象山十七回忌を名義人でおこない、のちに亡夫松山の墓参りをした、とある。この象山十七回忌には、勝海舟日記に明治十三年四月七日-北村元象山門人に佐久間象山墓碑へ五十円 同六月八日-象山墓碑銘相談 象山十七回忌相談などのきさいがあり、勝海舟が、師象山のためにいろいろとたずさわり、静枝に対しても良き相談相手となり、烙正妻としての面目をたもたせ、渡辺撰、元門人、岩村元県令などと、協力をおしまなかったことがわかる。また、この亡父の墓碑建立の
あと、静枝が四国松山へ、はじめて亡夫の墓参りをした。それについて、東京曙新聞につぎのような投書がある。


『新選租銘々伝』郷里での啓之助-12

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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
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新選組友の会主宰・大出俊幸
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信州松代市 道中記
『新選租銘々伝』郷里での啓之助-12

稲葉春義 満里子

 たぶんこれらの蔵書は、象山が勝海舟に買うよう頼んだものと思われる。海舟がもつ長崎ルートや財力をみれぼ、当時このような本は海舟ぐらいしか手にできないと思われるからである。今日のわれわれには、「ナポレオンのワーテルローの戦い」は、いろいろな著書などで知られているが、幕末期に象山は読破していたとは(びっくり)。また、別のはなしになるが、親子(妻、海舟の妹、むすこ烙)の写真や啓之助の子供時代に種痘したはなしなど(新選組隊士の中で啓之助ぐらいだろう)がある。われわれが注目したのは、番号71男略二郎書長歌一軸 83 渡辺才太郎書簡一通格二郎宛(あだうちをすすめる手紙)餌~90亡父、略(啓之助) の法事に未亡人静枝が喪主として名があ
る。これらの資料の質問にご協力いただいたのが、真田宝物館学芸員北村典子氏で、まえに、平成十三年十月十一日、管理事務所の利根川氏から、田中誠三郎『真田一族と家臣団-』の烙二郎の墓について、FAXでコピー六枚をいただいたが、この時点では、史跡事典の執筆はおわっていたがFAXにより、前述した参考資料のもとを知ることができた。そして銘々伝を執筆することから、改めて略二郎などの資料の必要をかんじて、ふたたび宝物館に電話をいれた。
平成十四年九月二十一日、応対してくださったのが北村氏であった。烙二郎の松山での話から、松山市の象山関係の資料が必要であることをのべると、資料のもちだしはできないので宝物館に来ていただくようにとのことで、同年十月二日付で、「長野市教育委員会様宛松代藩文化施設資料特別利用許可申請書」をおくつてくださった。十月四日に平成十四年十月三十日AM9‥30~12‥00の予約をする。そして利用許可をえる。平成十四年十月二十九日~三十日 松代道中記の始まりである。松代真田宝物館訪問からの帰宅後、資料の整理にといただいた「六連銭」誌から、「近山輿士郎氏旧蔵資料」の次の個所の調査をお願するべく同年十二月三日電話をし、参観希同様の申請書をそえてFAXした。FAXで返事をいただく。(71)男格二郎署 長歌一軸について 返答 当館で紛失したらしく不明とのこと(83)渡辺才太郎書簡の内容について 返答 書簡を見ますと、どうも   すすむ「渡辺駿」 のことかと存じます。別紙のコピーを同封しました。(渡辺旗の手紙は35、、、り写真ネガ三枚分で同封されていた)同年十二月九日であった。この渡辺撰の (烙二郎宛あだうちをすすめる)手紙の内容を知るべく奮闘努力が翌年一月末までつづく。なんとかよみとり、その一部は銘々伝に。同年一月末に、FAXで再度北村氏に質問する。佐久間静枝名義の法事について。(86)亡父・烙一周忌法事配り物・香典帳 明治十一年一冊※ (87)亡父(象山)十七回法事執行控 明治十三年一冊 静枝(88)亡夫佐久間恰十七回忌法事控 明治十六年一冊 佐久間静枝 (89)清光院仁啓守心居士二十三回法事控 明治十九年一冊 佐久間静枝 ※一周忌法要は、長男継述名義である。
法事をおこなった場所については、「とくに場所の記載はありませんでした。ただ寺の名前に「西念寺」「信寿院」とあり、それと「はな屋」かかれていました。また当時の出席者はほとんどが東京の住所のようでした。不明な点がありましたら、ど連絡くださいませ」との返信FAXをいただいた。以上までがわれわれの調査限界だとおもい、北村氏にお礼の手紙で終わりとした。後日出版された『新選組銘々伝・第三巻』を謹呈させていただいた。


『新選租銘々伝』郷里での啓之助-11

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信州松代市 道中記
『新選租銘々伝』郷里での啓之助-11

稲葉春義 満里子

真田宝物館蔵
近山輿士郎氏旧資料について

松代真田宝物館かえりぎわに、担当の北村氏からいただいた、松代藩文化施設管理事務所だより 第9号「六連銭(むつれんせん)平成十三年三月三十一日発行)。これはA4、2枚つづりの佐久間象山関係資料であった。帰宅後、改めてこの資料が特筆すべき象山関係資料であることを知った。とくに「近山輿士郎氏旧蔵資料仮目録」は、番号1~95に分けられ、われわれがおねがいした資料をふくめ当館に、昭和五十七年調査目録として収蔵されていた。佐久間家伝来のこの資料群は、佐久間象山の嗣子、略(格二郎=三浦啓之助)の未亡人、静枝からゆずられたもので、明治二十二-二十三年どろに、松本市の窪田畔夫氏(旧松代藩士子孫?)から近山興輿士郎氏が入手された。のちに、長野市教育委員会が、近山輿士郎氏から購入したとある。当時の東大史料編さん所の山本武夫氏が、烙二郎の本妻の静枝によると所見をしめされていること、また、明治年間著書 日下寛『犀北館記』にすでに確認されている、との説明がある。また、この資料が注目すべきは、蘭書の稀こう本(めずらしい本)であると同時に、象山が所持していたことが重要。また、象山暗殺時の「斬奸状」があるが、その真偽は、今後の検討が必要とのことと、真田宝物館資料に説明がある。
この近山輿士郎氏仮目録から、特に(3)「マリン編、蘭仏新辞典」が八代真田革質より買い与えられた。また、(7)の「ワーテルロー戦記一八十五年、ヘーグ刊」などをはじめ、ほかの蔵書も、象山がすでに当時読破していたとはおどろきである。


『新選租銘々伝』郷里での啓之助-10

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信州松代市 道中
『新選租銘々伝』郷里での啓之助-10

池田満寿夫美術館~松代城~文武学校~帰宅

 西方に見える北アルプスの新雪を冠した姿に昔の人も見たことであろうと話しながら歩く。夕刻がせまり、止バス停方面に、〝歴史的道すじ〃 の看板と松代藩文武学校跡の看板があり、だいぶ歩き疲れたが入館することに。朝方真田宝物館でもとめた入館券が使える共通券だったので、開館時刻をすぎていたが入館OKとなった。[文武学校] 旧松代藩がもうけた文武併習の学校、即ち、会津藩を参考にして開校した文武学校。(国史跡指定)。定刻過ぎなので、係員の人がわれわれと一緒に歩いてくださった
が、われわれの後ろから部屋の出入口や雨戸を閉めるので、気もそぞろ、なんとか一回りしたところで係員や入口にいた人たちにお礼をいって外へ出た。ここでも、〝明石〃からの旅人にびっくりされ、今夜、深夜バスで帰るということになおびっくりされる始末。そして、このへんは食事できる店などはありませんといわれる。街灯一つのバス停に、まさに田舎のバス待合所で三方トタン張りのベンチ一つだけ、風の冷たさ、明石と違う、コートが必要! だった。二十分ほど待たされ、うやく長野ゆきバスが。われれのほかには、二、三人乗っていた。さすが地元の人か厚手の上着を着ていた。われわれは初秋の姿で土地のちがいを知る。長野駅につき、ちいさな待合室に、大阪梅田行きの22‥33分初の深夜バスは約二時間半まち。駅前の店は善光寺詣りの客めあての店が多く閉店。駅売店でおみやげ用の「まんじゅう」をもとめ夜食がわり腑とする。外よりはあたたかいが、口数もすくなくいねむりとなる。時間どおりのバスに、リクライニングでようやくからだも楽に。暖房がきいて気分もおちついてくると今日一日のできごとをはなしあう。ややあって窓のカーテンのすきまから見えた星空にびっくり!右から左手は谷間の高原らしく、すそのあたりにも大きな星がみえ、われわれには、松代にきた、大きなおざみやげだった。同乗の人々もまわりを気にしたような声をあげていた。どのへんかわからないまま、途中のトイレタイム以外一日の疲れか眠りを楽tむ。運転手のスピードだしすぎじゃない? と気になりつつもやがてまわりがあかるくなり、大阪ビル群の梅田についた。さすが、定刻どおり。やれやれ、やっと明石へ。


『新選租銘々伝』郷里での啓之助-9

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信州松代市 道中
『新選租銘々伝』郷里での啓之助-9

池田満寿夫美術館~松代城~文武学校~帰宅

時間を気にして朝から歩きづめだったので、ここからは観光気分で宝物館の脇道の北の案内図をみて休息所を探すがないの で、お城の方へ行く途中に、池田満寿天美術館。名は多少なりと知ってはいたが松代出身とは知らず、しかし休みたく(美術館には失礼だが)入館。広い室に、内外の版画、油絵、陶彫などでびっくりだが、ガラス戸越しの庭園の広さのなか、点点とする彫刻群を休みながらながめる。立派な椅子もあり、入館者はわれわれふたりだけだ。次の予定などのチェックの打ち合わせ所となった。
今おもえば、アーティストの池田氏に大変失礼なこととの反省の思いが。そこへわれわれのところに受付の方がみえ、作品の説明(なにしろわれわれ以外の入館者はいない) から、われわれの明石からの話などで、「えっ明石から」、お茶などどちそうされ、お城の話では、今は、お城は改修中で参観できないとのこと、しかたないけれど時間もまだ、日も明るいから城まわりでも見にいくことに。この美術館から城まではちかく、なんとか疲れもとれたので行ってみたが、城は想像していたほどではなく、案内書にょると、かつての海津城は、現在は松代城に、しかしたびたびの火災や改修で昔のおもかげは
なく、旧本丸跡とまわりの石垣のみ残すとの説明があり、入口らしきところのたて看坂にそれらしき説明があった。見廻せば田んぼと畠しかみえず、田舎道があるのみで、せっかくだから、そとからのながめをと歩くことにしたが田舎のみちは遠い。このみちを幕末期の象山や息子烙二郎も歩いたかもしれない、しかしきつい道で後悔する。


『新選租銘々伝』郷里での啓之助-8

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信州松代市 道中記
『新選租銘々伝』郷里での啓之助-8

稲葉春義 満里子

象山記念館と象山神社

 象山記念館
この寺から西方にだいぶ歩くことになるが、千曲川支流に近いところにある次の予定の象山記念館へ。さきに述べた一本の電話をこの記念館にしたことで松代市におとずれることになった館内は、象山の制作したと伝えられる遺品、遺筆などが、部屋いっぱいに展示され、とくに幕末期の悲劇で知られる人の「及門録」の大きな表示板は非常につよい印象をうける。真田宝物館の収蔵名なども展示されていると聞いていたがわからない。受付も電話をかわした人ともおもえず、ざっと拝観して次へ。

 象山神社
象山記念館からすぐの象山神社。昭和十三年 十一月三日県社(御祭神 佐久間象山)建立、ここでは、象山を「ぞうざん」とよぶ。ひろい神社は、象山生誕地旧邸跡 こうぎてい
「高義亭(こうぎてい)」(安政一年から九年間蟄居自宅)ここで高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎などそううたる人物が訪れた建造物。また「煙雨亭(しゆうえんてい)」は、京都三条木屋町、象山最後の住居の茶室を移築した建物。当日、神社のお札所受付の人と、明石からのわれわれの話と、おたがいに話がはずみ、毎年、佐久間家の子孫のかたも参加の慰霊祭もあり、京都からくる人たちも、土地の人々といろいろな話がでることなどの話、象山の息子〝略″が新選組にいたことなどに〝びっくりした″にわれわれもおどろいて笑いあいー。かえりに前澤英雄『佐久間象山の生涯』を求める。
つぎに、神社内をあしばやにみてまわり、つぎの「松代城」=川中島合戦の海津城跡に。


新選租銘々伝』郷里での啓之助-7

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信州松代市 道中記
『新選租銘々伝』郷里での啓之助-7

稲葉春義 満里子

蓮乗寺ー佐久間家書捷寺

 真田宝物館の次の予定は、宝物館からは東の市のはずれの松代藩関係の寺町へ行く。とくに真田家菩提寺として市の代表的な長国寺があり、ここには歴代藩主の墓、重要文化財の左甚五郎の破風、狩野探幽筆画などで市の史跡寺院とい
われる。しかしわれわれはこの寺にちかい蓮乗寺へ。
さびれた感じのする正門から奥にあるのは本堂と思えたが、人影もないので、次の予定のためお寺にはあいさつは省略。
寺の右一画にくぎられて案内板とともに象山親子の墓所があった。大正十一年京都から象山、四国松山から息子の略の墓がならんで分葬された。墓前の白い菊の花にさす、ななめの太陽のひかりと、風の冷たさが身に感じたことであっ
た。とくに四国松山の無縁真の恰の墓碑と、京都の父の立派な墓碑とは対照的だったがここでは多少の大きさの違いは感じたものの、ともにならんだ親子の墓碑銘を京都、松山を思いながら調べ、カメラにおさめた。親子の墓碑銘。
・佐久間象山塔所(平成十四年九月二十七日詭べ)京都正法山妙心寺大法院(真田家菩提所) 法名 清光院仁啓守心居士 正面 象山佐久間先生墓 石面 孝子格建 左面 元治元年季七月十一日残 昭和三十年六月建立・松代市蓮乗寺(平成十四年十月三十日調べ)・佐久間象山墓 正面 象山佐久間先生墓 石面 大正十一年十月十五日 京都妙心寺内大法院より分葬ス  同墓所象山墓石側に、・息子略墓があり 正面 佐久間略君墓 石両 君誇ハ格幼名ヲ格二郎卜云フ象山佐久間先生ノ嗣子ニテ嘉永元年十一月 十一日松代二生ル明治六年伊預園松山裁判所ノ判事トナリ同十年二月二 十六日任地二於テ没ス享年三十 左面 大正十一年十月十五日 伊預園鷺谷ヨリ合葬ス 激動の幕末時代に、故郷松代から遠く、ともに別々の土地で不慮の死をとげ、-不帰の人となった父と子はようやく、故郷に帰り着いた。
清澄な空気のつめたさを感じっつ、人影もない墓前の菊の花に手をあわせる。そしてお寺の本堂らしき方にむかって一礼してこの寺をあとにした。


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信州松代市 道中記
『新選租銘々伝』郷里での啓之助-6

稲葉春義 満里子

真田宝物館-2

佐久間象山、妻順、格二郎の各写真(象山が 文久三年どろ撮影したとの説があり、格二郎十五才くらいか、しかしよくかれの人物 評にみる写真)・松山での恰二郎の墓。説明書つき。来館のき ぼうの写真 撮影年月日と撮影者不明。墓石は下半分が草むらのスナップ写真。(銘々伝に記載)説明書があり、〝象山先生嗣子 格の墓、墓碑銘″の説明があった。
・象山暗殺後、門下、親類者たちによって、「口上覚(こうじようおぼえ)」「暗殺事件関係」「格二郎家督相続 書」など当時提出し却下された書。この書の内容はよめず、しかたなく写真のみ。
・佐久間象山の暗殺当日に使用した〝西洋馬具ゼッケ〃 (血痕のついた、とあったがわれわれにほわからず)・象山が外出時に使用した羽織・象山暗殺の際に、京三条小橋にはりつけられたといわれる「斬奸状(ざんかんじょう)」
われわれには内容は読みきれず、ほかにも格二郎の関係資料が用意されてあった。写真の北村氏に連絡、帰りのあいさつのとき〝この際ですから展示場を見ておかえりください〃といわれ、また、  (日)のここの施設事務所たよりの「六連銭(むつれんせん)」第9号/平成十五年三月三十一日発行のパンフレットをいただく。展示所をまわったが、目についたのは、川中島合戟の武田信玄、ほかに秀吉、家康、三成などの戦国武将たちや真田家歴代の古文書、火砲の甲胃武具、刀剣(特に重文の青江の太刀とか、秀吉からの刀剣類)また、全国的に人気の、真田幸村遺品などの展示品があり、もうすこし時間をかけて見ておきたかったと後に思う。
ただこの日、目にとまったのは、壁に有名な真田家家紋の説明板があり。海野・真田家独特の家紋として、ふるくから〝六連銭(むつれんせん)″また〝六文銭(ろくもんせん)″ともよぶ。紋の意義は、戦にのぞむ武士の決死の覚悟をあらわしたものであると説明書にあった。われわれは以後、銘々伝には、六連銭とすることにした。真田宝物館でやはり12‥00を過ぎていた。さいわいに、ちかくにそば名物の「日暮し庵」という店があり、昼食をとる。


真田宝物館-1

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信州松代市 道中記
『新選租銘々伝』郷里での啓之助-4

稲葉春義 満里子

真田宝物館-1

”六文銭(ろくもんせん)”で名高い真田藩十万石城下町、長野県松代市へ、愛媛県松山市同様はじめて行くことになった。松代市は、川中島合戦場跡、真田藩関係と、まちなかは史跡、文化財ありとパンフレットにあるが、われわれの目的は観光ではなく、佐久間象山は真田幸村はどには人気はないようだが、象山の息子への探訪でおもいがけない行程となった。のちの反省でずいぶんと欲のふかい計画すぎのおもいがしたが、今回はH・Mふたりで。松代への行きかたがわからず観光案内所に。
その結論は、平成十四年十月二十九日明石から大阪梅田へ、大阪梅田~松代 長距離バス利用。
この夜、一泊(長野市宿) 二日間の予定。十月三十日 松代市へ長野駅から市内バスで真田宝物館へ。帰宅は松代、長野駅から深夜バスで22‥33分発-大阪梅田翌朝6‥15着となる。
以上が案内所での調べ。

真田宝物館

当日(三十日)は昼間のバスなので途中の景観は観光気分で、とくに木曽駒ヶ岳の雪景色に、若いときのアルプス登山をおもう。しかし
われわれは気候の変化に気がつかず、のちの松代市の夜の寒さにはまいることに。宿泊したホテルのロビーにストーブがあったことに明石と
ほだいぶちがうとびっくりする。翌日、予定どおりの市内バスで、有名な川中島合戦場案内版前をすぎ、約束の9‥00開館の卓異田宝物館学芸
員北村氏に面会する。展示館より別口の展示用品の保管場所らしい一部屋に、われわれ希望の調査資料をおいた机とわずかな場所に案内され。あいさつもはどほどに、今日の予定のせつめいと同時に、われわれのためにお手数いただいたお礼と、四国松山でのこと、無縁墓の佐久間格二郎のことを説明させていただき、北村氏からは、遠く明石からの来館の謝意と資料の説明、写真は自由に、時間Ⅶゎれわれの都合でかまないとのことで退室された。用意いただいた資料は、われわれの気づかいすることのないようにとのど配慮か、われわれがつかいやすそうにおかれてあった。