二、土方歳三、榎本武揚の出会いについての検証-1

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新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い

永吉治美

後年、平拙三氏は同家に保存されていたそのガラス乾板を、日野市の㈱コニカに依頼して復元された。その写真(資料参照)
の中で、忠次郎の後に写っているのが榎本の書いた漢詩である。現在は、前述したように日野市の高幡不動尊で展示されてい
る。コニカでもこのガラス乾板を、貴重な写真研究資料として評価しているそうである。
さて、拙三氏から代々伝わる貴重な話を教えて頂いたので、二人の出会いについて検証してみたい。

二、土方歳三、榎本武揚の出会いについての検証-1

前述のように、負傷した近藤に代わって鳥羽伏見の戦いの指揮を執ったのは土方歳三である。慶応三年十二月十六日、新選組
は京を出て伏見奉行所に入った。続く慶応四年一月三日夕刻、鳥羽街道に続き伏見でも戦端が開かれ、伏見奉行所は高台の御香
宮に陣を敷いた新政府軍から激しく攻撃された。新選組と会津藩兵は、苦戦を強いられ、午後十時頃、多くの犠牲者を出して退
却した。
翌四日、午前七時頃より伏見で再び戦いが始まった。しかし幕府軍は組織的な戦いが出来ず撤退。夕刻、幕府軍は淀藩に城に
入る許可を求めるも拒否される。翌五日朝から、富の森、淀の千両松で激戦となつた。
六日になると淀藩に続き、それまで中立の立場をとっていた伊勢津藩、藤堂家までも薩長側につき、ついに幕府軍は全面撤退に
追い込まれた。
『島田魁日記』に拠ると、「六日暁天に敵亦進来す。我軍橋本口に胸壁を築き置き互いに砲撃す。然るに山寄りの関門、藤堂藩
返して大小銃を烈しう放つ。故に我軍大瓦解、遂に大坂迄退く。当局八軒家に降す」
とあり、その後島田は尾関と共に隊長(註・土方)から、兵糧焚き出しの手配を申し付けられている。
『復古外記、伏水口戦記』によると、「(前略)さて橋本の台場は至って堅固広大にして、容易に攻め抜き難し、実に難事の処な
り、素より備付けの大銃かつ野戦砲数十挺打ち出して、賊徒の兵勢盛んなり、薩長の軍兵、是が為に庇つく者多し、されど官軍、
一手は田のあぜ川堤を楯にとり、一手は山手の方より攻め立て、砲戦なるに、兼ねて賊徒に組みせし、藤堂の軍勢ち心を変じ、
官軍となって、淀川を隔て双方より台場合戦数刻に及ぶ。此時薩長の兵もいよいよ大小砲手繁く打立てれば、賊、三方の敵にこ
らえ兼ね、また台場を捨て敗走、(中略)時に日すでに夕べに迫り(中略)賊大坂城楯込る」とあり、新選組が勇猛果敢に戦っ
たこと、.そのため官軍が苦戦したこと、味方の寝返りで三方敵に囲まれ撤退せざるを得なかったこと、戦いが夕方まで続いたこ
とが分かる。