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世に出てきた新選組の冊子、史料集-2

 大出俊幸講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

謹賀新年
本年も宜しくお願いします。
2019年元旦

大出俊幸

新選組友の会ニュースでは、新選組に関する記事や会員の投稿文などを掲載しています。
その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
新選組に興味のある方、友の会入会希望者は下記をご覧ください。
http://tomonokai.bakufu.org/
今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

世に出てきた新選組の冊子、史料集-2

伊藤 哲也

前に記した『土方歳三遺聞』も大河ブーム前であるが「荒井治良右衛門慶応日記」「若松記草稿」「戊辰十月賊将卜応接ノ始末」など新史料が掲載されていたことを抜いて史料紹介は進められないであろう。
そして、「新選組!」バブルに突入すると日本各地の博物館で新選組、幕末期の特別展が開催され初公開の史料も数多く出てきた。流山市立博物館の特別展では、あらたに見つかった古文書を展示するなど日本各地で新選組関連の催し物が行なわれた。
土方歳三記念館では、古文書や古写真を『子孫が語る土方歳三』にまとめられている。史料として新選組隊士や縁者の古写真とかも新たに、世に出てきたものも数少なくはない。
新選組の年からか、日野高幡不動において新選組忌という子孫、関係者が集まった催し物が行なわれた。この時、佐藤俊宣が晩年に記した「佐藤家の記事」と土方歳三写真の原本が展示された。現在、日野市役所は『佐藤彦五郎日記』を活字化して二冊にまとめたものを販売している。「新選組-」放送時に新選組関連の所のみ抜粋して販売したが、今は絶版となった。現在の所有者は、公開する意図が全くない。前に述べた「佐藤家の記事」こと「今昔備忘記」が間もなく書籍に掲載されることを心待ちにしていくしかない。土方家の「中島登覚書き」と同時に写したか、土方家から写したか明確ではないが「新選組英名併日記」を日野高幡不動が所有している。


世に出てきた新選組の冊子、史料集-1

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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

世に出てきた新選組の冊子、史料集-1

伊藤 哲也

維新時に書き残された史料、維新から数十年後の伝承や聞きがきなどにより伝わる資料、ともに活字化されていないのが多い。
新選組の史料が含まれている文献であるが、日本史籍協会の『維新日乗纂輯』を始め数多くの史料が掲載されている史料集が
ある。商業誌としての出版だと、大出さんの永倉新八『新撰組顛末記』に始まった言っても過言ではない。永倉新八のみでも「浪士文久報告記事』が発見された時は、マスコミや書き手たちでも大騒ぎになったことがある。今までの新選組史を変えていくわけだから。
その後、多くの方々が単行本などに新選組の史・資料を執筆紹介されていった。後年に記された資料も含めてである。『新選
組覚え書』『新選組再掘記』などが出版され、色々な史料が世に紹介されていった。
そして、『土方歳三、沖田総司全書簡集』や『新選親日誌』が出されて、新選組資料紹介全盛期ともいうべき時がくる。近年で
注目すべき史料が掲載されている『土方歳三遺開』『新選組全史』が世に出て間もない。そして、大河ドラマ「新選組!」ブー
ムに便乗した多くの出版社が数多くの流行本を世に出した。残念なことに全ての読者が史料本と小説本の区別がつくわけでもな
い。大河期で良い史料本となると『新選組!展』であろうか。箱館戦争以来、原本初公開となった『戊辰戦争見聞略記』も史料としては貴重だ。
大河ドラマというと「徳川慶喜」も脳裏に浮かぶ。この時、日野の古文書を読む会によって、日野の千人同心井上松五郎が将軍家茂の御上洛御供の時に書き残した旅記録を「文久三年御上洛御供旅記録」として一冊の冊子にまとめられた。現在は、井上源三郎資料館で販売をしている。「日野新選組展」が行なわれた時も数多くの史料が冊子に写真紹介された。地方誌だと、会津藩出身の新選組隊士が書き残した「戊辰己巳心中書置書」が発表されている。他の地方誌にも未発掘の資料が掲載されているこ
ともあろう。
土方の日記の「土方歳三の手記」が、『土方歳三の日記』に紹介されたのもこの頃のこととなる。土方の日記原本となる史料が失われたのは残念であるが、写本として現世に残ったのは良かった。富沢忠右衛門の在京中の日記である『旅硯九重日記』も大河ブームに入る前に出た冊子であり、内容的にも貴重なものである。


土方歳三と榎本武揚の出会い・最終回

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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い
永吉治美

三、史料が語るもの-1

土方は維新の時代を幕末の京のみならず箱館戦争まで駆け抜けた。
流山で縛に就き、その生涯に終止符を打った盟友近藤勇に遅れることおよそ一年、土方もまた箱館で散ったが、その一年は土
方にとって新たな一枚の絵のような観がある。その象徴とも言えるのが、土方が得た新しい人間関係である。彼を評価し、信頼
し共に戦った戦友という新しい人間関係……。
明治になっても多くの人々の思い出の中で、土方歳三が生き続けた所以であろう。
終わりに、史料解読でお世話になりました高幡不動尊貫首、川澄祐勝様、古文書を読む会会員、島内嘉市様。写真の現像にご
協力下さいました殊式会社コニカ様。そして、代々平家に伝わる貴重な史料とお話をご提供下さいました平拙三様に心より感謝
申し上げます。


二、土方歳三、榎本武揚の出会いについての検証-3

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未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い

永吉治美

二、土方歳三、榎本武揚の出会いについての検証-3

慶喜一行は小舟で海上に出て、開隊丸を探すも見つけ出せず、その夜はアメリカの砲艦に乗船させて貰って一夜を明かし、翌
七日、開陽丸に乗船を果たしている。
『復古外記』所収、一月七日付の中村武雄手記に、「(前略)麦に榎本和泉守は初め播州海に於て薩船を打破り、速に上陸して大
坂城に入り大計を論ぜんとせしに、前将軍己に江戸へ走り玉い、(中略)泉州天を仰いで嘆息し……」とあり、榎本が城に入っ
たのは一月七日だったとある。よって榎本が開陽丸から下船したのは六日の早くとも夕方で、恐らく夜にかけてであったと思われる。なぜなら、六日の午前であったり、午後の早い時間であったならば、そのまま登城し慶喜に面会を求めたはずだからであ
る。そうしなかったのは、もう夜になっていて、とても慶喜に面会を求められる時間ではなかったからだろう。

ここでようやく、淀川で土方歳三と榎本武揚が出会う舞台が整った。
一月六日の夕方、橋本から淀川を船で下って八軒家まで退いてきた土方(『島田魁日記』)。かたや、天保山沖に到着した開陽
丸から小舟に乗り換え、八軒家へ落ち着いた榎本。榎本が八軒家へ落ち着いたと考えた根拠は、前述の 『会津戊辰戦史』に、大
坂城から引き上げる際、物資などを八軒家へ運んだとあるからである。
「土方卜淀川ヲ舟ニテ下ル時ニ コン意トナレリ」
二人は淀川の舟中で、榎本が後年語ったように、「懇意な仲」になつたのである。
平忠次郎が訪ねた人々は皆、忠次郎に温かい態度で接してくれたという。榎本始め、大鳥が十本ほど、勝が三本ほど、山岡鉄舟
が三~四本ほど、後藤象二郎、松本良順ともに数本の染筆を忠次郎に与えている。高幡不動に寄贈された数がこれより少ないの
は、形見分けなどで多少数が減ったからだそうである。
しかし忠次郎はこのことを誰にも語っていなかった。そのため、子や孫から「なぜ、このように立派な人々の掛け軸や善が我が
家にあるのか?一体本物なのか?」といつた疑問を投げかけられたのだという。そこで忠次郎は死ぬ前に、その経緯を子孫に
語り残したのである。


一、平家と土方歳三-5

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今回は、平成十七年九月発行115号から抜粋しての掲載です。

未公開資料、平家文書が語る
土方歳三と榎本武揚の出会い

永吉治美

一、平家と土方歳三-5

『島田魁日記』に拠ると、新選組はその前日に負傷者を船で大坂へ後送している。橋本口には、〝渡し″があり船便がある。また、橋本から大坂までおよそ、三十キロあり、歩いて引き上げたのでは、時速五キロ(結構急ぎ足)としても六時聞かかる計算となり、暗くなるまで八軒家(淀川河口、天満橋付近)に着くのは難しい。また、朝早くから夕刻遅くまで戦い続けたうえに、六時間余り歩き通した後で、島田達に兵椴焚き出しの手配をする気力が残っていただろうか? 以上のことから、生き残りの新選組は、六日夕方、橋本から大坂へ淀川を船で下って引き上げたと考えてよいだろう。ここで土方が、一月六日の夕方から夜にかけて、淀川にいたという可能性が高くなつた。
一方の榎本についてはどうだろうか。
前述したように、榎本は慶喜が開陽丸に乗って江戸へ帰った後、大坂城で事後の面倒を見ているが、ではいつ榎本は大坂城に入ったのだろうか? それについて作家、綱渕謙錠氏が著書『航』で、詳しく検証されているので、それを参考に、『復古外記』や『蝦夷之夢』 (「旧幕府」所収)などと合わせて考えてみたい。
『蝦夷之夢』 で、著者、沢太郎左衛門(註・開陽丸の副長)は海軍奉行矢田堀讃岐守と榎本が「一月五日から御用にて大坂に上陸し……」と語っていることから、榎本五日在大坂説が存在する。
だが、一月三日に大坂港を出た開陽丸を始めとする幕府艦隊は、一月四日、阿波沖(現在の徳島県沖)で薩摩藩の春日丸、翔鳳丸の二船におい付き、春日丸と海戦に及んでいる (『薩藩海軍史」)。春日は隙をついて逃走したが、故障を抱えていた翔鳳丸は由岐浦で座礁し、翌五日、自爆自沈した。開陽丸は五日にその翔鳳を検分し、榎本と矢田堀は連名で、松平阿波守宛の公文書を由岐浦の奉行陣屋に提出している。その公文書の日付は一月五日である。大坂港と由岐浦は一三〇キロ余りも離れている。その日の内に大坂港に帰り着くのは難しいのではないだろうか。そこで開陽丸を始めとする幕府艦隊が、大坂港の天保山沖に帰港した
のは翌日の一月六日ではないかと考えられる。
『会津戊辰戦史』でも、「是より先開陽丸艦長榎本武揚和泉守は戦況の可ならざるを見、且海軍の戦略を陸軍総督に告げんとし
て、六日の夜艦員尾形幸次郎、伊藤裁五郎、我が藩士雑賀孫六を従へて大坂に上陸す」
とあり、榎本達が大坂へ上陸したのは六日夜となっている。
複数の証言から、慶喜らが大坂城を抜け出したのは一月六日の夜のことで、『蝦夷之夢』には、六日の夜九時頃と記されている。
(注)写真は徳川慶喜公

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