第74話 お龍と川田雪山-1

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第74話 お龍と川田雪山-1

坂本龍馬が寺田屋で伏見町奉行の役人に襲撃された時の話はよく知られている。
慶応二年(一八六六)一月二十三日夜の二時過ぎる頃、事件は起こった。
明六ツ(午前六時)から一日が始まり翌日の明六ツまでが一日である。龍馬は二十三日の二時と手紙に書いているが、現在では二十四日午前二時過ぎる頃である。
風呂に入っていたお龍が外の気配に気づき、階段を駆け上がり、龍馬へ知らせる場面は特にである。お龍が裸だったか、衣類をまとっていたかと龍馬ファンはにぎやかである。
龍馬はピストルで、三吉慎蔵は槍で奮戦し寺田屋を脱出する。そのあと、川の近くの材木置場に隠れて、三吉だけが伏見薩摩藩邸にたどり着く。早速、大山と吉井が小舟に丸に十字の旗を立てて、負傷していた龍馬を救出した。
一方お龍は、
「人の居る所は下駄を穿いてソロソロと知らぬ顔であるき、人の見えぬ処は下駄を脱いで一生懸命に走りました。処がひょっこり竹田街道へ出ましたので、コレは駄目かと思って又町へ引返し」と「千里駒後日譚」に発表している。これは川田雪山がお龍と会い聞き書きしたものを明治三十二年(一八九九)十一月「土陽新聞」に載せたものである。

 


第73話 福岡宮内の曾孫

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

 第73話 福岡宮内の曾孫

近くの鈴ケ森刑場に行く、罪人が涙の別れをした橋なので涙橋という。
京浜急行鮫洲駅前には土佐藩十五代豊信(容堂)の墓もある。高知県にはご稼が深い品川である。ここに品川龍馬会(浦山嗣雄会長)も創立され、活動が活発である。
横山正意氏は福岡宮内の曾孫であり、渡田栄馬の曾孫であり、横山又吉(黄木)の孫でもある。
明治四十五年(一九一二)生まれで、現在九十八歳で東京にご健在である。往年の慶応ボーイでダンディな面影が残っている。
祖母・横山楠猪(くすい)に似ている顔立で、昔の話を語る時の楽しそうな笑顔が印象的である。
記憶力は驚くばかりで、戦前、英語の勉強でロサンゼルスに留学していた頃の話になると、すばらしい発音で正確なストリートの名を口にした。脳の中に地図が描かれているようであった。
家について語っていただいた中で、特に印象が強く残っている話は横山又吉と頭山満とうやまみつる)の話である。
頭山満は安政二年(一八五五)四月十二日、福岡藩士筒井亀策の三男として生まれた。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって頭山満と改める。
横山正意(まさもと)は福岡宮内(くない)の曾孫(ひまご)であり、■田栄馬の曾孫であり、横山又吉(黄木)の孫でもある。

明治九年(一八七六)に秋月の乱、萩の乱が起こると、頭山は旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。獄中にあって西南戦争で尊敬する西郷隆盛と共に戦えなかった悔しい思いが後の玄洋社の原点となっている。
明治十一年(一八七八)、大久保利通が暗殺されると、頭山は高知に旅立つ。板垣退助が西郷隆盛につづいて決起すると期待したが板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張した。
これをきっかけに自由民権運動に参加した頭山は、板垣の立志社集会で初めて演説をして、植木枝盛・横山又吉らと交流を結ぶことになった。
高知から福岡に戻った頭山は明治十二年(一八七九)、自由民権運動を目的とした玄洋社を結成した。社員は六十一名で、誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕する団体であった。
明治十七年(一八八四)十二月六日、朝鮮で金玉均が率いる独立党が朝鮮の近代化を図ろうしたクーデターを起した。清国軍が介入して、三日間で失敗に終った。しかしこれを甲申事変という。事変後、長崎へ亡命してきた金玉均に頭山は会い、支援金を渡している。
明治二十年(一八八七)頭山は九州日報の前身となる福陵新報を創刊し、不平等条約改正反対の論陣をはり、清国に対する敵愾心を露わにした。
幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題が■条約改正■である。
しかし、政府が作る改正案はいまだに諸外国に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。
頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考えて自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていった。
一方、横山又吉は明治一三年(一八八〇)高知新聞社に入社、坂崎紫瀾、植木枝盛らと共に痛烈な政府批判の論陣を張り自由民権運動の中心となっていた。明治二十年(一八八七)十月、保安条例違反で逮捕投獄されたが、明治二十二年四月、高知市制が布かれ、一圓正興市長のもとで学務委員長め、教育界へと歩みを進めていった。明治三十二年(一八九九)高知商業学校を創立し、名校長として知られた。
横山正意によると昭和期になって、横山又吉と頭山満が再会する席があり、同席したという。若い頃、自由民権運動で共に若き血をたぎらせた二人だったが、並んで座に着いている二人をすぐ後で立って見ていたが、一言も言葉を交すことこはなかったという。
二人は時の過ぎゆく中で、全く異った思想の中に生きるようになっていたのである。
龍馬たちの次世代を生きた横山又吉と頭山満、幕末も激しかったが、明治、大正、昭和と生きたこの二人も激しい人生であったに違いない。
そして、晩年となっていても、普通の老人のように過去をなつかしがる心情は無く、最後まで現役だったので、ひと言も口を開かなかったと思われる。


第72話 品川龍馬会

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第72話 品川龍馬会

嘉永六年(一八五三)六月、ペリー艦隊は浦賀に来航した。六月三日から十二日まで、この十日間で日本は大きく変わっていった。
九日、久里浜で国書を日本側に渡すと、ペリー艦隊は十日に退去すると日本側は考えていた。
ところが、十日、逆に江戸湾深く進入した。ペリー提督は自ら江戸の町を見ようと、サスケハナという旗艦を底の浅いミシシッピに変更して乗り込んだ。
羽田村沖、十二丁(約一三〇〇メートル)まで近づいて品川の町まで目撃している。そして水深を測量して引き返している。
二度目の来航、翌年一月にはもっと深く進入している。マストの先から江戸を見たと報告しているので品川沖から三田、芝辺りまでを見たと思われる。
ペリー提督は日本側が交渉に応じないのにしびれを切らし、「脅迫を実行する」として軍艦を江戸城に近づけたのである。
ワシントン大統領の誕生日(洋暦二月二十二日、日本暦一月二十五日)に祝砲を一二六発、発射した。空砲だがすごい轟音だった。またボートにも大砲を積み込み、発射させた。浅瀬でも大砲を江戸城に近づけることができることを日本側に見せつけた。これで日本側も交渉に応じると決定した。
こうしたペリー艦隊が動き回った江戸湾に、土佐藩の浜川砲台が造られた。二度目の来航の時である。
品川下屋敷(品川区東大井三丁目)に一万六千坪という広大な屋敷を土佐藩は持っていた。
東京ドームの一・二倍の広さである。
そしてもう一つ鮫洲抱屋敷(かかえやしき)を土佐藩は所有していた。
この抱屋敷は江戸湾に面した八百六十九坪の小さい屋敷だったが、この中に砲台を建設した。
ここに坂本龍馬がいた。佐久間象山塾で大砲の撃ちかたを習った若者たちがこの浜川砲台に配属されている。
指揮官は第顎話で登場している寺田左右馬という人物である。大砲八門を配備した浜川砲台はわずか言の突貢工事で造られた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ連絡道路が立会川商店街となっている。
龍馬は一兵士として大砲を操作している。数え歳二十であった。
京浜急行立会川駅の改札口を出て右に行くとすぐに品川下屋敷跡である。左に行けば鮫洲抱屋敷跡である。旧東海道に面したこの屋敷は浜川橋(涙橋)のたもとにある。


第71話 LA龍馬会

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小美濃 清明

 第71話 LA龍馬会

二〇〇六年、アメリカのロサンゼルスに龍馬会ができた。高知県人が南カリフォルニアに移民をして百年を迎えたのが二〇〇九年である。
龍馬の師・勝海舟は万延元年(一八六〇) アメリカのサンフランシスコへ成臨丸で訪れている。ペリー来航から六年後である。 つぶさに見たアメリカという国を海舟は龍馬に伝えている。龍馬はアメリカを訪ねてみたいと考えていたと思われる。そして、土佐の漁師の万次郎という少年がアメリカ東海岸のフェアヘブンで教育を受け日本へ帰国している。「漂巽紀略(ひょうそんきりやく)」(河田小龍著)に万次郎のアメリカ合衆国の紹介記事が載っている。
龍馬は海舟の弟子であり、航海術を習っている。太平洋を越えてみたいと思っていただろう。
そして、世界の海援隊をやりたいとも言.っていたという。そして、そうした夢がかなえられなかったことは誰でもが知っている。
龍馬の夢は同じ土佐の仲間、岩崎弥太郎が実現した。三菱の旗は世界に翻っている。
坂本龍馬と岩崎弥太郎は長崎で二人だけで酒を飲みながら語り合っていた。その夢が、三菱のマークとなって全米の道路を走っている。
そうした歴史を踏まえてロサンゼルスに龍馬会が発足した。会長の飯沼星光氏は高知県出身である。ご先祖は土佐藩士・飯沼権七直政であり、槍の名人だったという。高輪円真寺に墓がある。星光氏のご母堂は自由民権運動で活躍した横山又吉(真木)の親戚である。又吉は高知商業学校(現・高知商業高等学校)の創立者としても有名である。
飯沼信子夫人は静岡県出身、日系二世の飯沼星光氏と結婚後に渡米。国際的に活躍したり日米の架け橋となった日本人、野口英世のメリー夫人や、高峰譲吉、松平忠厚、彫塑家の川村吾蔵、薬学界の長井長義らの偉業を後世に残す作品を発表している文筆家である。  も
『アメリカ暮らし照る日量る日』(淡交社)『野口英世の妻』『高峰譲吉とその妻』(新人物往来社)『長井長義とテレーゼ』 (日本薬学会)などが出版されている。
この飯沼ご夫妻によってLA龍馬会は活発活動を始めている。龍馬の志をアメリカへ広げていく最前線にいるお二人である。
先日、来日された時、品川駅から近い高輪の日蓮宗・円真寺へ飯沼ど夫妻と共に墓参させていただいた。
その折、お話しいただいたことが興味深かった。
先祖の飯沼権七直政は土佐藩品川下屋敷詰だったという。しかし、品川下屋敷には住まず近くに一軒の住居を構えていたという。
品川下屋敷内に住居が少ないのは東海道分間延絵図からも分かる。蔵は九軒建っているが住居は五軒しか、描かれていない。
幕末期までこの下屋敷は住居として使われる建物が、少なかったようである。
品川下屋敷詰の藩士たちの中には、近くに住居を持っている者も多かったのかもしれない。


第70話 桂浜の銅像

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小美濃 清明

 第70話 桂浜の銅像

司馬遼太郎氏怯昭和六十三年五月、桂浜で行われた龍馬先生銅像建設発起人物故者追悼会に「メッセージ」を寄せている。
「銅像の龍馬さん、おめでとう。あなたは、この場所を気にいっておられるようですね。私もここが好きです。世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、私はここに来るたびに思うのです。あなたもど存じのように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。銅像の出来具合以上に、銅像がおかれる空間が大切なのです。その点日本の銅像は、ほとんど が、所を得ていないのです。
昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、この桂浜の巌頭に案内してきました。
この地が空間として美しいだけでなく、風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。
このメッセージの中程に次のような文章がある。
「あなたをここで仰ぐとき、志半ばで倒れたあなたを、無限に悲しみます。
あなたがここではじめて立ったとき、あなたの生前を知ってぃた老婦人が高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまできて
「これは龍馬さんぢゃ」
とつぶやいたといいます。彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。」
この老夫人とは誰のことだろう。
昭和三年(一九二八)五月二十七日、龍馬像は除幕されている。高知に生前の坂轟馬を見知っている女性がこの時、何人いたのだろうか。               軒

この日、朝日新聞記者だった藤本尚則(ふじもとなおのり)のインタビューを受けていたのが第6話の安田たまきである。弘化二年(一八四五)十二月二十九日生まれのたまきは数え年で八十四歳である。司馬遼太郎氏が書いた老夫人は安田たまきのことと思われる。
龍馬は脱藩の前、たまきの兄・演田栄馬を訪ねてきて、兄・権平が来ても何も知らんと言ってくれと頼んで高知から出ていった。文久二年(一八六二)三月二十四日のことである。
安田たまきは兄と共に龍馬の言葉を聞いていた。その時わたしは十七歳でしたと、たまきは語っている。
たまきは昭和四年五月二十五日、午後六時、本籍地(高知県土佐郡潮江村四千七拾参番地イ号地)で死去している。
朝日新聞の藤本尚則のインタビューを受けた一年後である。貴重なインタビュー記事は龍馬研究家から注目されず、眠り続けていた。それは藤本尚則が『巨人頭山満翁』の執筆者であり、敬愛会という民族主義的団体を主宰していたからである。戦後の左翼系歴史学者からは完全に無視されている。しかし、藤本のインタビューによりたまきの魂が平成の時代まで伝えられ、多くのど子孫と巡り合わせて下さった。そこから多くの史実を知ることができ、貴重な史料も得ることができた。唯々、感謝である。


第69話 今井信郎の手紙

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6、暗殺

小美濃 清明

第69話 今井信郎の手紙

明治四十二年十二月十七日、今井信郎が大阪新報社・和田天華にあてた手紙がある。

その中で次のように自分達の立場を説明している。手紙の最後の部分だけを載せることにする。
「是、要スルニ幕府ハ攘夷因循兵力ノ微弱ナルヲ曝露シ、所謂志士ナル火事場盗賊ニ苦ルシメラレ、土崩瓦解セルモ、勤王愛国ノ念虜ハ毫モ衰弱シタルモノニ無レハ事実ノ上ニ顕然タリ。近藤勇、親見錦、芹沢鴨ノ如、立場ニ依テ其名ヲ異ニ致ス者ト信ジ候。実ニ玉石混交ノ時世、是(ぜ)か非か後世の史論ニ譲リ左ニ御回答仕候。
一、暗殺ニ非ズ、幕府ノ命令ニ依リ職務ヲ以、捕縛ニ向格闘シタルナリ。
二、新撰組ト関係ナシ。余ハ当時京都見廻リ組与力頭ナリシ。
三、彼レ曽テ伏見ニ於テ同心三名ヲ銃撃シ、逸走シタル問罪ノ為ナリ。
四、場所ハ京都鞘薬師角近江屋ト云_油店ノ二階ナリ。
以上
十二月十七日
遠州初倉村
今井信郎
大阪新報社
和田天華殿」
幕府の力が弱っていたところに、志士という火事場盗賊に苦しめられたのである。幕府は瓦解したが勤王愛国の念は少しも変っていない。
近藤勇、親見錦、芹沢鴨のように、その立場によってその評価は変ると信じている。実に玉石混交の時代だったのだ。是か非か、後世の史論に譲り、左のように回答いたします。
一、暗殺ではない。幕府の命令で職務を行い捕縛に向い格闘したのである。
二、新撰組と関係はない。私は京都見廻り組の与力頭でした。
三、彼(坂本龍馬)はかつて、伏見で三名の同心を銃撃し逃走した罪に問われていた。
四、場所は京都鞘薬師角の近江屋という_油店の二階でした。
と簡潔にまとめている。
今井は刑部省口書でも犯行を認めており、自分は一階にいたと話していた。しかし、明治三十三年の「近畿評論」では二階へ上ったことになっている。これは編集段階で改稿があたったようである。今井の責任ではないと思われる。
ただ、見廻組が実行犯としても、彼らに龍馬に関する情報を伝えた者が真犯人と考えられる。 7、遺風の中で


第68話 箱館降伏人の取調

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6、暗殺

小美濃 清明

第68話 箱館降伏人の取調

土佐は龍馬暗殺の犯人が箱館戦争に参加して降伏した兵の中にいると判断していた。そこで箱館戦争が終ったあと、降伏した兵を明治三年二月から九月までの期間に取調べている。
新政府の兵部省、刑部省がこの調査にあたり調書をとっていた。
(原朱)
刑部省口書
一橋家来
大石捨次郎倅
元新選組
大石鍬次郎口上
午三十弐才
(前略)
其節伊豆太郎ヨリ相尋候ニハ、於●二●京師●一●土州藩坂本龍馬殺害ニおよび候も私共之所業ニ可●レ●有●レ●之、其証ハ場所ニ新選組原田佐之助差料之刀鞘落シ有●レ●之、其上勇捕縛之節及●二●白状●一●之旨申聞候得共、右ハ兼々勇咄ニハ坂本龍馬討取候ものは見廻リ組今井信郎、高橋某等少人数ニ而、剛勇之龍馬刺留候義ハ感賞可●レ●致抔折々酒席ニ而組頭之もの等え噺候を脇聞いたし居候得共、右之通就縛候上は即坐ニ刎首可●レ●被●レ●致ト覚悟いたし候ニ付、右様ノ申訳ハいたし候も誓言●(虚カ)●と被●レ●存私所業之趣申答置候処、不●レ●図同月中兵部省へ御引渡ニ而。(下略)

(原朱)
兵部省口書
箱館降伏人元新選組
横倉甚五郎
午三十七歳
口書
(前略)
土州藩坂本龍馬討候義は一向不●レ●存候得共、同人討候者ハ先方ニテハ、新撰組ノ内ニテ打殺候様申居候間油断致ス間敷旨、勇方より隊中へ申通候事承候而已ニ御坐候。其余ハ一向不●レ●申候。(下略)
午二月
(原朱)
兵部省口書
箱館降伏人
元新選組相馬肇事
相馬主殿
年二十八才
口書
(前略)
一、坂本龍馬儀ハ私は一向知不●レ●申候得共、隊中へ廻文ヲ以テ右之者暗殺致候嫌疑相晴候趣、全見廻リ組ニテ暗殺致候由之趣初而承知仕候。(下略)
このように元新選組の隊士だった大石鍬次郎、横倉甚五郎、相馬主殿が取調をうけているが三人とも犯行を否定している。
特に大石は犯人を見廻組としている。


第67話 龍馬暗殺と御影踊

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「坂本龍馬八十八話」

6、暗殺

小美濃 清明

第67話 龍馬暗殺と御影踊

坂本龍馬が暗殺された十一月十五日から十一日過ぎた大坂で、土佐藩士が書いた日記がある。
「十一月廿六日 朝曇
今日の風説によれば於京師坂本龍馬浪人体之者に殺害に合候趣」
この日記は京攝在勤中并奥州征伐日記」であり筆者は宮地団四郎という。戊辰戦争が始まる前に京都へ来て、鳥羽伏見の戦いから会津若松まで従軍している一年間の日記である。筆者はこの日記に永年取り組んでいる。その発端はこの龍馬暗殺の風説を書き残していることに興味を持ったからである。
そして、この龍馬暗殺の風説の前に「御影踊」のことが書かれている。
「十一月廿三日 晴
「午前二時攝州兵庫沖に碇泊す。此処より橋船自力雇を以兵庫湊に着す。同町明石屋にて一泊す当驛着以来見物に出掛け申処先一番遊廓に至る。此際点手毎に灯燈を持ち男女老若に不限(かぎらず)大成(おおぜい)群集にて御影踊と唱へ甚賑々敷事にて此踊子紬承る処本月中旬の頃より此節に至り晝夜とも戸毎へ諸神佛の御守雨降り候趣(おもむき)、誠に不思議とは此事なるべし、多分乱世の全評ならんやと大にあやしみ申事、夫より右宿、赤石辰衛方に帰る」

御影踊に乱世の予感を感じた宮地団四郎はその三日後に坂本龍馬殺害の風説を聞いたことになる。団四郎は兵庫から大坂に移動してこの風説を耳にした。しかも犯人が浪人体の者という情報も付いている。そして、中岡慎太郎についての情報はない。まだ中岡慎太郎が生存しているうちに広がった情報だったのかもしれない。
団四郎たちは大坂で山内容堂の上洛を待っている。
「十二月八日六ツ半時伏見着す。夫より今日御隠居様(容堂)伏見御出立遊ばされ、七ツ下刻(午後四時)御着尾能●よく●、京師大佛御本陣妙法院の宮様へ御着遊ばされた。それより前哨隊は右同所智積院へ御割巳家相成着す」
と記述されている。山内容堂は九日の王政復古の前日に京都大佛の本陣とされた妙法院に入り、団四郎たち前哨隊は隣の智積院に宿をとった。
この前哨隊はこの後、土佐から来る迅衝隊に合併し、東征軍として江戸へ向うことになる部隊である。そして会津若松まで行くことになる。土佐軍はそこから引き返えすので、箱館戦争には参加していない。


第67話 龍馬暗殺と御影踊

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第267回 幕末史研究会
日時 2018年9月23日(日)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階
講師 長松清潤師(宗教家)
テーマ 幕末外伝
講演内容 『藩論』『閑愁録』など第一次史料をもとに幕末のアナザストーりーをかたる。会費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料申し込み 前日まで
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
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「坂本龍馬八十八話」

 6、暗殺

小美濃 清明

第67話 龍馬暗殺と御影踊

坂本龍馬が暗殺された十一月十五日から十一日過ぎた大坂で、土佐藩士が書いた日記がある。
「十一月廿六日 朝曇
今日の風説によれば於京師坂本龍馬浪人体之者に殺害に合候趣」
この日記は京攝在勤中并奥州征伐日記」であり筆者は宮地団四郎という。戊辰戦争が始まる前に京都へ来て、鳥羽伏見の戦いから会津若松まで従軍している一年間の日記である。筆者はこの日記に永年取り組んでいる。その発端はこの龍馬暗殺の風説を書き残していることに興味を持ったからである。
そして、この龍馬暗殺の風説の前に「御影踊」のことが書かれている。
「十一月廿三日 晴
「午前二時攝州兵庫沖に碇泊す。此処より橋船自力雇を以兵庫湊に着す。同町明石屋にて一泊す当驛着以来見物に出掛け申処先一番遊廓に至る。此際点手毎に灯燈を持ち男女老若に不●かぎ●限●らす●大●おお●成●ぜい●群集にて御影踊と唱へ甚賑々敷事にて此踊子紬承る処本月中旬の頃より此節に至り晝夜とも戸毎へ諸神佛の御守雨降り候趣●おもむき●、誠に不思議とは此事なるべし、多分乱世の全評ならんやと大にあやしみ申事、夫より右宿、赤石辰衛方に帰る」

御影踊に乱世の予感を感じた宮地団四郎はその三日後に坂本龍馬殺害の風説を聞いたことになる。団四郎は兵庫から大坂に移動してこの風説を耳にした。しかも犯人が浪人体の者という情報も付いている。そして、中岡慎太郎についての情報はない。まだ中岡慎太郎が生存しているうちに広がった情報だったのかもしれない。
団四郎たちは大坂で山内容堂の上洛を待っている。
「十二月八日六ツ半時伏見着す。夫より今日御隠居様(容堂)伏見御出立遊ばされ、七ツ下刻(午後四時)御着尾能●よく●、京師大佛御本陣妙法院の宮様へ御着遊ばされた。それより前哨隊は右同所智積院へ御割巳家相成着す」
と記述されている。山内容堂は九日の王政復古の前日に京都大佛の本陣とされた妙法院に入り、団四郎たち前哨隊は隣の智積院に宿をとった。
この前哨隊はこの後、土佐から来る迅衝隊に合併し、東征軍として江戸へ向うことになる部隊である。そして会津若松まで行くことになる。土佐軍はそこから引き返えすので、箱館戦争には参加していない。


第66話 呂鞘と下駄

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6、暗殺

第66話 呂鞘と下駄

犯人の遺留品は呂()鞘と下駄といわれている。
鞘の塗は各種あって色も様々である。特に多いものは黒色である。登城用の大小は黒呂色塗の鞘が使われる。うるしで光沢がある表面が平らな塗りが呂色塗である。表面がザラザラしている仕上がりの塗は石目地塗である。その他に青貝を細かく砕いたものを混ぜたり、棕櫚★しゅろ★を細かく砕いて混ぜたりもする。
表面を松の木の皮のように塗る松皮塗、雨が降っているように見える時雨塗、氷が砕けているように見える氷砕文塗もある。
金を混ぜて輝くような派手な塗もある。
犯人の遺した鞘は、黒の呂色鞘といえば、全く特色がない鞘であり、最も多い鞘である。そこから誰の鞘と特定することは困難であると思われる。
その鞘に付けてある下緒★さげお★に特別の色のものが使用されて判別できたということであれば信憑性が高いと思われる。

下駄。遺留品の下駄に瓢の焼印が押してあったという。そうしたものを犯人がわざわざ履いて来ることが不審である。そして、それを遺留品として遺していくことが更にありえないことである。
これは犯人を特定することを攪乱★かくらん★させるために用意されたもので、初めから置いていくつもりで犯人が持参したものである。
犯人が鞘を落としていくことは考えられない。抜身の刀を持って引き上げていくようなことは幕末とはいえ、ありえない。この鞘は初めから遺留品として犯人が持参したものであろう。犯人は暗殺に使用した刀を鞘におさめて、普通に帰っていったと思われる。
犯人は龍馬と中岡の顔を知らないと言う。どちらか分からずに斬っているという説がある。
それはない。犯人はすぐに龍馬と判って斬っている。
それは床の間の刀を握った者がその家の主★あるじ★である。来訪者が床の間に刀を置くことはないのである。これは侍ならば誰でも分かる常識である。