第61話 田中顕助の証言

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幕末史研究会
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6、暗殺

第61話 田中顕助の証言

田中顕助は天保十四年(一八四三)閏九月二十五日、土佐国高岡郡佐川村に生まれた。初めは浜田辰弥と名乗った。父は浜田金治で家老深尾家の家来だった。長州へ行き田中顕助と改めた。京に出て中岡新郎のもとで薩長同盟に尽力した。この日、京都・白川の土佐藩陸援隊に顕助はいた。
事件直後、近江屋二階の奥八畳間に駆けつけた顕助は『田中青山伯追懐録』で次のように語っている。
〈十五日の夜、自分が白川の陸援隊に居たが、菊屋峰吉の急報によって大いに驚き、直ちに白川邸を駈け出して、途中二本松の薩摩邸に道寄りし、吉井幸輔に知らした上、河原町に馳せ付けたところ、醤油屋の二階の一間には、下僕の藤助が横ざまに倒され、次の間に這入ると坂本と中岡が血に染んで倒れていたが、中にも中岡は十一箇所の創で、右手などは、皮だけ残って、ブラブラして縫い合わす事もできない状態であった。
何でも遣られた時、起き上がって窓を開けて見たが賊はモウ逃げた後であったと云う事である。
一方坂本は、眉間(みけん)を二太刀ほど深くやられて、脳漿(のうしょう)が飛び出して、早やこと切れていたが、坂本も斬られた後起上って「誠君……如何だ、俺は脳をやられたから、モウいかん」と言いつつ行燈の顕で自分の刀を見たと云う事である。
中岡はそのような重症を受けながらも精神は確かで、刺客の乱入の模様を語った。
何でも突然二人の男が二階へ駆け上がってきて、モノをも言わずに斬ったので僕(中岡)はかつて君(田中)から貰った信国の短刀で受けたが、何分仕込が迅速であったのと、手許に刀がなかった為、不覚を取った。
君らもこれから刀を肌身はなしてはいけない、坂本は左の手で刀を鞘のまま取って受けたが、トウトウ敵はないで、頭をやられた。
(中略)
後になってその短刀を見ると、敵の切先が、短刀の身へ斬込んで、刀がボロボロになっていたが、是を見ても余程勢よく斬りこんだものと思われる。
そして坂本が鞘で受けた時、その鞘が天井を突き破いていたにも目についた。〉(原文ママ)
田中顕助の証言で重要なところを抜き出してみる。
① 龍馬の眉間の二太刀、深くやられていたのを田中自身が見ている。
② 龍馬は脳漿が飛び出していた。
③ 龍馬は死亡していた。
④ 龍馬は斬られた後、起き上って「誠君……如何だ、俺は脳をやられたからモウいかん」と言いつつ行燈の光で自分の刀を見ていたと中岡が語ったのを田中は聞いた。
⑤ 龍馬は左の手で刀を鞘のまま取って受けたが、トウトウ敵はないで(薙いで)頭をやられたと中岡が証言したのを田中は聞いている。
⑥ 龍馬が鞘で受けた時、その鞘が天井が突き破いていたのを田中は見ている。
この①~⑥までの田中の証言は龍馬が暗殺された時、どのような動きをしたのか解明する手掛かりとなる。