第82話長崎を歩いて

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幕末史研究会
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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

8、各地を訪ねて

第82話長崎を歩いて

正覚寺下で電車を降りて歩き出す。崇福寺で石段を上り中国風寺院を見たあと、晧台寺(こうだいじ)に向って歩いていく。寺町の通りは仏具屋が多い。いつだったか東京の仏具屋にはない仏具があ化ので買って帰ったことがある。
 晧台寺には近藤長次郎の墓がある。
昨年、高知市民図書館で近藤長次郎の資料を見ている時、長次郎が自刃した時、身につけてに袴の布地があった。紫色の市松模様の袴地だった。持ってみると厚い絹地で立派なものだった。
長次郎が刀を差し、ピストルを右手に持っている写真の中に写っている袴とは大違いであった。たぶん、海外へ出るというので、新しく作ったものだろう。ずいぶん、派手な袴だというのが第一印象である。侍の袴というよりは、能舞台の上で見るようなきらびやかな袴である。しかし、この袴を身につけて長崎の町を歩いたら、そうとう目立つのではないだろうかとも考えたが、そうでないかもしれないと思った。中国系の衣装は華やかである。そうしたものに見なれた長崎の人々たちは気にも止めないかもしれない。
龍馬は長次郎自刃の時、「術数余(じゅつすうあま)りあって、至誠足らず、上杉氏之身を亡す所(ゆえん)なり」と書いている。龍馬にしては少し冷めた書き方である。
水通町の大里屋の長男が、努力して摘んだ海外留学である
階級制度の厳しかった土佐藩で苗字帯刀を許されることは異例中の異例である。
長次郎は海舟の門人として龍馬と共に働いている。越前藩士・村田巳三郎に龍馬が会いに行った時も一緒であった。
龍馬も年下の長次郎を何かと気遣いしていたようである。
亀山社中で才子と言われて、少し龍馬から離れているようなところが見えてきたのだろうか。
至誠が足りないと龍馬が書くような事柄が二人の間にもあったのかもしれない。
長次郎にすれば侍になりたいという夢を実現し、もう一段高いところへ登りたかったのかも知れない。
龍馬は階級をあまり意識せずに生きている男だったが、長次郎は常に階級を意識して生きたのだったと思われる。そうした意識が、至誠足らずと龍馬に印象づける行動を起こさせていると思われる。
幼馴染も次第に出世していくと、いつの間にか、ライバルとなり、それを超えていくことに熱中するのかも知れない。
龍馬とすれば、淋しいだろうが、他人の生き方をどうすることも出来ないのである。
「千里駒後日渾」にある、
「己が居たら殺しはせぬのぢゃ」
と残念がる籠馬も長次郎の成長と変化に複雑な思いがあったのではないだろうか。
近藤長次鮎の墓には「梅花書屋氏墓」と刻まれている。
墓石の筆跡は龍馬、高杉晋作、小曽根乾堂とも言われているが、特定されていないという。