第88話 品川海岸を訪ねて

小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。

幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。

第88話 品川海岸を訪ねて

 坂本龍馬が品川海岸の警備陣の中にいたという事実は古い研究書にもある。
宮地佐一郎先生がご存命の頃、品川海岸とはどの辺りでしょうかと質問したことがあった。
答えは龍馬のいた品川海岸は特定されていないということであった。
その話がきっかけとなり、調べてみようと思い立った。先ず京浜急行鮫洲駅前にある山内容堂の墓へ行った。
その後、付近を歩いてみたが、案内板もなく詳細は分からず、旧東海道を品川に向かって歩いてみたが、品川海岸はほとんど埋められており、何も残っていなかった。
しかし、明治時代の品川湾という地図を品川図書館で見つけることができた。
参謀本部陸軍部測量局が明治14年(1881)に測量し、同18年に製版された品川湾という地図だった。
この地図を見ると、第三砲台、第六砲台、第二砲台、第五砲台、第一砲台、第四砲台が右上から左下に向かって一直線に並んでおり、江戸湾を防備するために建造された御台場の姿がよく分かる。
陸上部分を見ると高輪から大森村まで、旧東海道が江戸湾の海岸に沿う形で続いている様子も一目瞭然である。
その東海道の高輪から大森村に向かって細かく見てゆくと、停車場とあり、品川海岸に駅があったことが分かる。新橋から鉄道線路は海の中を走っている様子が見てくる。鉄道線路は品川から内陸部に建設されて横浜に向かっている。東海道に沿って目を追ってゆくと、北品川宿、商品川宿、大井村と記されている。この大井村で東海道は立会川と交差している。そこに諏訪詞、神明詞という詞が立会川の両側に記されていて目に止まる。
そして、かなり大きな正方形の点線が描かれていた。正方形の一辺は立会川であり、他の三辺は点線になっている。面積はかなり広く特別の区画と地図でも分かった。その正方形は東海道と平行していて、隣りに来福寺という寺が卍マークで印されていた。
その辺りから地図で少し南へ下ると、鬼子母神とあり、鈴ケ森とある。鈴ケ森の刑場である。
そして大森村となり、この辺りから東海道も海岸から遠ざかっていた。
この地図を頼りとして、二回目に立会川付近を調査することにした。
京浜急行立会川駅の改札を出て左に少し歩くと、細い道である。これが旧東海道の道幅かと思うと、そうに思えてくる。
旧東海道に出る。横幅七メートルぐらいのここを大名行列が歩いてゆく姿が何か窮屈そうに思えてくる。
左に歩くとすぐに立会川があり、そこに浜川橋が架かっている。別名涙橋であり、鈴ケ森の刑場にひかれてゆく罪人が家族とここで
涙の別れをしたので涙橋という。この浜川橋を渡らずに立会川に沿って歩くと東京都の浜川ポンプ場があった。そこから、勝島運河となっていた。
訪れたのが冬だったので、この運河には渡り鳥が群れていた。海岸はコンクリートで固められていたが、昔の海岸線が残っていた。
あとで分かったのだが、江戸時代の海岸線が残っている唯一の場所であり、龍馬の見ていた海岸を見ながら、やっと品川海岸に辿り着いたという安堵感に包まれた。
江戸の龍馬が一瞬、見えた気がした夕方だった。