第70話 桂浜の銅像

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

 第70話 桂浜の銅像

司馬遼太郎氏怯昭和六十三年五月、桂浜で行われた龍馬先生銅像建設発起人物故者追悼会に「メッセージ」を寄せている。
「銅像の龍馬さん、おめでとう。あなたは、この場所を気にいっておられるようですね。私もここが好きです。世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、私はここに来るたびに思うのです。あなたもど存じのように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。銅像の出来具合以上に、銅像がおかれる空間が大切なのです。その点日本の銅像は、ほとんど が、所を得ていないのです。
昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、この桂浜の巌頭に案内してきました。
この地が空間として美しいだけでなく、風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。
このメッセージの中程に次のような文章がある。
「あなたをここで仰ぐとき、志半ばで倒れたあなたを、無限に悲しみます。
あなたがここではじめて立ったとき、あなたの生前を知ってぃた老婦人が高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまできて
「これは龍馬さんぢゃ」
とつぶやいたといいます。彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。」
この老夫人とは誰のことだろう。
昭和三年(一九二八)五月二十七日、龍馬像は除幕されている。高知に生前の坂轟馬を見知っている女性がこの時、何人いたのだろうか。               軒

この日、朝日新聞記者だった藤本尚則(ふじもとなおのり)のインタビューを受けていたのが第6話の安田たまきである。弘化二年(一八四五)十二月二十九日生まれのたまきは数え年で八十四歳である。司馬遼太郎氏が書いた老夫人は安田たまきのことと思われる。
龍馬は脱藩の前、たまきの兄・演田栄馬を訪ねてきて、兄・権平が来ても何も知らんと言ってくれと頼んで高知から出ていった。文久二年(一八六二)三月二十四日のことである。
安田たまきは兄と共に龍馬の言葉を聞いていた。その時わたしは十七歳でしたと、たまきは語っている。
たまきは昭和四年五月二十五日、午後六時、本籍地(高知県土佐郡潮江村四千七拾参番地イ号地)で死去している。
朝日新聞の藤本尚則のインタビューを受けた一年後である。貴重なインタビュー記事は龍馬研究家から注目されず、眠り続けていた。それは藤本尚則が『巨人頭山満翁』の執筆者であり、敬愛会という民族主義的団体を主宰していたからである。戦後の左翼系歴史学者からは完全に無視されている。しかし、藤本のインタビューによりたまきの魂が平成の時代まで伝えられ、多くのど子孫と巡り合わせて下さった。そこから多くの史実を知ることができ、貴重な史料も得ることができた。唯々、感謝である。