第78話 宮地佐一郎と亀井勝一郎

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第78話 宮地佐一郎と亀井勝一郎

「坂本龍馬手帳摘要」に慶応二年(一八六六)五月二十九日、坂本龍馬が寺内新左衛門(新宮
芝助)から借金をして、短刀合口拵(たんとうあいくちごしらえ)と研代を支払っている。ちょうど鹿児島から長崎へ向かう前日であった。
お龍との新婚旅行も最終日で鹿児島へ別れを告げる日が近づいていた。龍馬も身辺整理をして旅立つ支度をしている最中である。鹿児島の刀剣家のところへ短刀の他に「備前兼元無銘(ぴぜんかねもとむめい)」を研磨に頼んでいた。その支払いが合計で三両二束余であった。龍馬は金がなかったので、四両二分を寺内から借り、更に寺内から二両を借りている。合計六両三歩、借金をした。
ここに「備前兼元」と印刷されている。はて、と思った。旺文社文庫の『龍馬の手紙』を読んでいた時である。備前には兼元という刀鍛冶はいないのである。兼元は美濃国の名工である。
孫六兼元という刀鍛冶が兼元何人かの中で特に有名である。備前にいるのは兼光である。備前長船兼光といい、延文頃(南北朝。一三五六~一三六一)の名工である。
草書で「光」と「元」は書体が似かよっている。もしかして、「坂本龍馬手帳摘要」を読み違えたのだろうかと考えた。
その可能性もあると考えて、原本を読みたいと考えた。原本はどこにあるのか、光と元の読み違いか、それとも単純な誤植なのかを旺文社の編集部に問い合わせる手紙を送った。それが大変な事になってしまった。
旺文社が宮地佐一郎先生へ転送したのである。
そして、宮地先生から手紙が届いた。原本はないとのことだった。岩崎鏡川の「坂本龍馬関係文書」に掲載されているままであるとのことだった。そして、先生のご住所が筆者の住まいと近いと分かった。偶然である。
しばらくして宮地先生が自転車に乗って現れた。これが運命であり、筆者が龍馬研究に入る発端である。
しばらくして、今度は筆者の方から先生のお宅を訪問した。一階の茶室で真喜子夫人のお粉茶をいただきながら、話がはずんだ。
そして、三度目は先生と筆者の住まいの中間にある井の頭公園と決まった。池畔のベンチに腰かけながら話をしたり、近くの焼鳥屋で飲みながら、あるいは玉川上水辺りを歩きながら龍馬の話だった。


鎌倉への文学散歩で大彿次郎先生の墓へもご案内いただいた。
また函館では亀井勝一郎先生の文学碑へ今度は筆者がご案内した。高田屋嘉兵衛の銅像を見ながら坂を上っていくと、左に文学碑があった。

人生 邂逅し 開眼し 瞑目す。

宮地先生はその碑を撫でながら、「先生やって来ました、やって来ました」と話しかけていた。その姿は今でも忘れることができない。人とのつながりはこういうものでありたい。