第77話宮地佐一郎と龍馬

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第77話宮地佐一郎と龍馬

『坂本龍馬全集』(光風社出版)を編集・解説した宮地佐一郎先生は平成十七年三月八日、亡く
なられた。八十歳だった。
いつも、「土佐を脱藩して東京へ出て来た」と笑って言われていた。
文学青年だった宮地先生は亀井勝一郎を訪ねてその門下生の一人となった。そして、同人雑誌「詩と真実」に歴史小説を発表していった。その中の短篇をまとめて『野中一族始末書』(審美社)を昭和三十八年一月に刊行した。
その数カ月後、一通の手紙が届いた。作家・大佛次郎(おきらぎじろう)からだった。
宮地佐一郎様
もっと早く手紙を差し上げるべきでしたが、御本をおしまいまで読んでからと思ひ失礼しました。私は老年ですし、いそがしいので、なかなか時間がなく昨日、拝見し終りました。近頃、清潔で優れたものと失礼ながら感心し、これから他にお書きになった時も、読むようにしようと思ひました。悪作がはやり持てる時代に、心のこもった良い作品に出会ったのを嬉しく思います。
御本のお礼までに申上げます。お世辞でなくて。                                                     大彿次郎
驚きのあまり「呼吸がとまる」思いであったと『大佛次郎私抄』(日本文芸社)に宮地先生は書いている。この出会いが龍馬へ近づいていく一歩となった。
その後『闘鶏絵図』(七曜社)『宮地家三代日記』(光風社書店)『菊酒』(同)と発表して直木賞候補作品となっている。しかし、受賞することはなかった。
一方、大佛次郎は朝日新聞に「天皇の世紀」を連載し、一五〇〇回を越えていた。
明治天皇の誕生から大逆事件までを書く大作はその頃、坂本龍馬が登場するところまで進んでいた。大佛次郎は高知県取材を宮地先生と共に行いたい希望を持っていた。
てるおか
朝日新聞東京本社学芸部長櫛田克巳、早稲田大学大学院生暉峻(てるおか)康人と共に高知へ向かったのは昭和四十三年十月のことであった。
この旅行は思い出深いものであったらしく、何度もその話は聞いている。そしてこの旅が宮地先生がフィクションからノンフィクションへ転向していく布石となった。
先生の死後、書斎の整理をしていて、大佛次郎と共に旅したアルバムが出てきた。その中に
大俳次郎が幸徳秋水の墓前に立つ写真があった。『天皇の世紀』はここまで書きつづける予定だったが未完に終わっている。今、残っている七八〇〇枚という『天皇の世紀』の原稿用紙は作家の執念を現している。
そして大佛次郎から受け継いだ情熱が宮地佐一郎の『坂本龍馬全集』に結晶していくのである。
宮地先生は岩崎鏡川が編集した『坂本龍馬関係文書』を使いやすいように編集を改め、新しく発見された手紙を加えて全一巻という大冊にまとめあげた。
偶然のことから筆者は宮地先生から二十数年にわたりご教示をいただくことになった。晩年、病床にあった宮地先生は誰ともお会いになることを望まなかった。唯一、筆者だけが身内と同様の扱いで病院のベットに眠る師を見ていた。
いつも眠い目が輝くのは龍馬の話であり、土佐の話であった。先生の死後、同じ道を後から一歩一歩、歩いていくのが筆者の残された人生と思っている。