第73話 福岡宮内の曾孫

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

 第73話 福岡宮内の曾孫

近くの鈴ケ森刑場に行く、罪人が涙の別れをした橋なので涙橋という。
京浜急行鮫洲駅前には土佐藩十五代豊信(容堂)の墓もある。高知県にはご稼が深い品川である。ここに品川龍馬会(浦山嗣雄会長)も創立され、活動が活発である。
横山正意氏は福岡宮内の曾孫であり、渡田栄馬の曾孫であり、横山又吉(黄木)の孫でもある。
明治四十五年(一九一二)生まれで、現在九十八歳で東京にご健在である。往年の慶応ボーイでダンディな面影が残っている。
祖母・横山楠猪(くすい)に似ている顔立で、昔の話を語る時の楽しそうな笑顔が印象的である。
記憶力は驚くばかりで、戦前、英語の勉強でロサンゼルスに留学していた頃の話になると、すばらしい発音で正確なストリートの名を口にした。脳の中に地図が描かれているようであった。
家について語っていただいた中で、特に印象が強く残っている話は横山又吉と頭山満とうやまみつる)の話である。
頭山満は安政二年(一八五五)四月十二日、福岡藩士筒井亀策の三男として生まれた。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継ぐことになり、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって頭山満と改める。
横山正意(まさもと)は福岡宮内(くない)の曾孫(ひまご)であり、■田栄馬の曾孫であり、横山又吉(黄木)の孫でもある。

明治九年(一八七六)に秋月の乱、萩の乱が起こると、頭山は旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄された。獄中にあって西南戦争で尊敬する西郷隆盛と共に戦えなかった悔しい思いが後の玄洋社の原点となっている。
明治十一年(一八七八)、大久保利通が暗殺されると、頭山は高知に旅立つ。板垣退助が西郷隆盛につづいて決起すると期待したが板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張した。
これをきっかけに自由民権運動に参加した頭山は、板垣の立志社集会で初めて演説をして、植木枝盛・横山又吉らと交流を結ぶことになった。
高知から福岡に戻った頭山は明治十二年(一八七九)、自由民権運動を目的とした玄洋社を結成した。社員は六十一名で、誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕する団体であった。
明治十七年(一八八四)十二月六日、朝鮮で金玉均が率いる独立党が朝鮮の近代化を図ろうしたクーデターを起した。清国軍が介入して、三日間で失敗に終った。しかしこれを甲申事変という。事変後、長崎へ亡命してきた金玉均に頭山は会い、支援金を渡している。
明治二十年(一八八七)頭山は九州日報の前身となる福陵新報を創刊し、不平等条約改正反対の論陣をはり、清国に対する敵愾心を露わにした。
幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題が■条約改正■である。
しかし、政府が作る改正案はいまだに諸外国に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。
頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考えて自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていった。
一方、横山又吉は明治一三年(一八八〇)高知新聞社に入社、坂崎紫瀾、植木枝盛らと共に痛烈な政府批判の論陣を張り自由民権運動の中心となっていた。明治二十年(一八八七)十月、保安条例違反で逮捕投獄されたが、明治二十二年四月、高知市制が布かれ、一圓正興市長のもとで学務委員長め、教育界へと歩みを進めていった。明治三十二年(一八九九)高知商業学校を創立し、名校長として知られた。
横山正意によると昭和期になって、横山又吉と頭山満が再会する席があり、同席したという。若い頃、自由民権運動で共に若き血をたぎらせた二人だったが、並んで座に着いている二人をすぐ後で立って見ていたが、一言も言葉を交すことこはなかったという。
二人は時の過ぎゆく中で、全く異った思想の中に生きるようになっていたのである。
龍馬たちの次世代を生きた横山又吉と頭山満、幕末も激しかったが、明治、大正、昭和と生きたこの二人も激しい人生であったに違いない。
そして、晩年となっていても、普通の老人のように過去をなつかしがる心情は無く、最後まで現役だったので、ひと言も口を開かなかったと思われる。