第83話羽田空港第四滑走路

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

8、各地を訪ねて

第83話羽田空港第四滑走路

 現在、建設が進行している羽田空港第四滑走路(D滑走路)は二千五百メートルだそうである。土台の基礎部分は三千メートルあり、そのうちの一千メートルが多摩川の河口から流れ出る水の方向を変えてしまうので、その部分は橋梁とし流れが変わらないようにしたと建設の担当者から説明を受けた。
残り二千メートルは土台で埋め立てる従来の工法で造られている。
幕府が作成した「異国船進退之図」という地図がある。それによるとペリー提督が久里浜で国書を日本側に提出した次の日、一艘の軍艦が羽田村十二丁沖まで進入したと記録されている。
この軍艦はミシシッピ号であり、ペリー提督が乗っていた。
「ペリー艦隊 日本遠征記」には次のように書かれている。
(一八五三年七月十五日
(嘉永六年六月十日)
その日の午後のうちに、提督は提督旗をサスケハナ号からミシシッピ号に移した。それから江戸に向かってさらに約一〇海里進み、浦賀の停泊地から二〇海里ほど離れていると推測される地点に到達した。江戸の港か船積み場が首都の南側にはっきりと見えたが、首都そのものは見えなかった。
日本の首都は中国と同じように家屋が低いので、突き出た岬の背後にすっぽり隠されており、湾は岬の向こうで東に向かっていて、低い沖積地の海岸が湾を取り巻いていた。
見えた町はおそらく江戸の郊外の品川であろう。湾の西側には神奈川と川崎という人口集中した二つの町が見えた。
ペリー提督は船底の浅いミシシッピ号を旗艦として自ら乗り込み、江戸の町を見ようと考えたのである。
羽田沖まで入ると品川の町は見えるのである。最新鋭の蒸気軍艦ミシシッピ号の甲板で望遠鏡を持って立っているペリー提督の姿が浮かんでくる。
六月十日午後、この日、土佐藩はどのような対応をしたのだろうか。
<覚
一、品川御屋舗詰
惣頭取 山田八右衛門
〃  落合儀八郎
細井半之進 細井半十郎
安養寺善平 井家馬次
勝賀瀬専吉
一、品川御屋舗詰
足軽小頭 五人
足軽   五十人
小人   四十人
但為固御人数被差出候ハ六月七日之事也)
とあり、六月七日に最初の警備陣が品川下屋敷へ配置されている。
六月十日、土佐藩が品川にどれだけの人員を送り込んでいたか知る記録はない。
最新鋭のペリー艦隊が進入した場所に、一五七年後、日本の最新技術の滑走路が誕生したのである。