第76話 小椋館長と龍馬

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第76話 小椋館長と龍馬

高知県立坂本龍馬記念館の初代館長は小椋克巳さんだった。昭和三年(一九二八)生まれで菟媛大学工学部卒の理系の方であった。高知放送アナウンサー、ニュースキャスターを歴任、昭和四十二年から四十三年、テレビ朝日の木島則夫モーニングショウの司会グループに入り有名だった。
平成三年高知県立坂本龍馬記念館開館と共に初代館長に就任された。
先ず初対面でその魅力的な声と声量に驚いた。宮地佐一郎先生に紹介していただき、高知を訪れると必ずお会いすることにしていた。坂本龍馬記念館はその初期において、大変な苦労の連続であった。傍らから見ていて、ハラハラすることの連続であった。
いつもお城の下あたりで、静かに二人だけで話をするようにしていた。小椋館長は食通で良いお店を選んでくれた。話題は常に龍馬であり、情報の交換だった。
アナウンサーとしての話の上手さが、この人の武器であり、魅力である。常に龍馬もこのように縮が卜しモ一かったのだろうなあと思いながら拝聴していた。
龍馬についてはこの記念館の館長になってから勉強を始めたので素人ですと、謙虚な姿勢を最後まで崩さなかった。
穏やかな人当りの良い印象を与えるのは放送界で鍛え抜かれている。しかし、厳しい面も中に秘めていた方と思っている。                        一
龍馬も実際に会った人の印象は穏やかな人という。そして、義理堅い人というのが小椋克巳館長の神髄である。

土佐藩品川下屋敷と鮫洲抱屋敷(さめずかかえやしき)の研究調査で、品川商店街連合会の方々と知り合うことができた。
一度、高知へ行ってみたいという商店街の希望で、平成十六年、坂本龍馬記念館を訪問した。
その折も、小椋館長が自ら館内を案内し、その美声で展示物の説明をして下さった。
それが、五年後の品川龍馬会結成として実を結ぶことになる。
宮地佐一郎先生が平成十七年三月、亡くなられた時、親族だけの小さな葬式としたが、小椋館長は高知から東京へ来て下さった。
弔辞を読んで筆者が席に戻ると隣席に座っているのが、小椋館長だった。筆者が弔辞を読んでいる姿を写真に撮ってくださり、送ってくだざると言われた。
しかし、写真は送られてこなかった。それは小椋館長自身が亡くなられたからである。しかし、奥様のお話によると、その写真は用意されており、送る寸前だったという。やはり約束を守る人だったのである。
今度は筆者が高知に行くことになった。館長は自分の体調も悪いのを伏せて、宮地先生の葬儀に駆けつけて下さったのだった。
連続の葬儀参列となった。淋しかった。
お二人とも、龍馬は自分の血肉となっていた。通夜の折、小椋館長の唇に筆で水を含ませながら、ご苦労様でしたと呟いた。
今、坂本龍馬記念館は森健志郎館長に受け継がれて、第二段目ロケット噴射という状況である。