小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。
「坂本龍馬と刀剣」をご愛読いただき、有難うございます。
読者の方から、面白いけど難しいとの声もあり、この辺で切り替えて、「坂本龍馬八十八話」をお届けします。
これは以前、日本文芸学院に連載していてハッカーの改ざんに遇い中断していました。
今回は、また振り出しに戻って第一話からスタートします。
難解な部分もあるかと思いますが、どうぞ、お気軽にお付き合いください。
小美濃 清明
はじめに
私は、龍馬という人物の史料を読み、追跡していくうちに新しい事実も分かってきた。また調査の過程で多くの方々にお世話になった。
龍馬、龍馬をめぐる人々、龍馬をご縁に知己となった方々について、雑談を八十八話としてまとめることにした。 これが宮地先生の『龍馬百話』という名著を念頭においての表題である。もとより、先生の著作の足もとにも及ばぬ内容である。
ただ先生にいただいたご縁がいくらかでも広がったことを先生にご報告したいと願ったからである。
平成二十二年四月六日 小美濃 清明
1、土佐で
第1話 福岡宮内の写真
坂本家は福岡家御領郷士であり、「福岡家御用日記」に龍馬脱藩に関する記述があった。
〈三月二十五日、御領郷士坂本権平弟龍馬儀昨夜以来行方知れず、諸所相尋ね候共不明由届出候事 三月二十七日、御領郷士坂本権平所蔵の刀紛失の旨届出候事〉
この「福岡家御用日記」は焼失しており、現存していない。平尾道雄著「龍馬のすべて」からの引用である。
福岡家は代々土佐藩家職で三○○○石を領していた。幕末期は福岡孝茂が当主で通称を宮内(くない)といった。維新後は九内とも書いている。 宮内は文政十年(一八二七)高知城下に生まれた。性格は闊達、明朗で雅量があり、政務に精通している家老だった。
少壮のころ、鹿餅雅澄に和漢の書を学んでいる。
天保十四年(一八四三)、近習御用に就任以来。藩政末期に至るまで同職ならびに奉行職を務めた。十三代藩主豊煕を助け。十四代豊惇が幼少で死去すると、十五代豊信(とよしげ・容堂)を補佐し、奉行として藩政を総轄した。下に吉田東洋が仕置役としており、十分に腕を振るわせるように配慮している。
文久二年(一八六二)吉田東洋暗殺の後、藩人事の更迭があり、宮内も一時免職となったが、重大時局に際し、再び登用されて旧職に復帰している。
元治、慶應年間は藩兵を率いて上京し、御所を警護している。維新後は明治二年(一八六九)刑法司主務、度支局大幹事を最後に引退している。明治三十九年十二月二十三日死去している。八十歳だった。
この福岡宮内の写真が東京で見つかった。
高知商業学校を創立した横山又吉・黄木(おうぼく)の孫にあたられる横山正意氏が所蔵されていた。横山氏にお会いして、福岡宮内の写真を複写させていただいた。
ロサンゼルスに創立された「LA龍馬会」の会長・飯沼星光氏と信子夫人をご案内して横山正意氏のお宅を訪ねた時のことである。横山氏が所蔵する古いアルバムを見ていた時、白い顎★あご★ひげを伸ばして、袴・羽織姿の老人の写真が貼ってあった。
「これ誰ですか」と筆者が問うと、「これは福岡宮内ですよ」
「どうして、ここにあるのですか」
「私の母は宮内の孫ですから」
といとも簡単に説明して下さった。
横山正意氏の祖父・横山又吉は自由民権運動家として有名であり、高知商業学校(現・市立高知商業高校の前身)の創立者でもある。
安政二年(一八五五)十月十五日、土佐郡杓田(しゃくだ)村下島(現・高知市南元町)に生まれているので、坂本龍馬より二十歳年下である。
アルバムの他に、孫文が日本に亡命した時、横山又吉が援助していたお礼に「博愛」と書いた孫文自筆の額もあった。 また福岡家に伝えられた古文書を貼り交ぜた風も所蔵されていた。
それらを拝見していると、幕末維新の史料がこのように伝えられて、東京にあることが不思議に思えた。まだ坂本龍馬に関係する史料も眠っているのだろうと思えてならなかった。
——————
第251回「幕末史研究会」のご案内
日時 2017年 4月22日(土)午後2時から4時
会場 武蔵野商工会館 四階
吉祥寺中央口より徒歩5分
講師 桐野作人氏 (歴史作家)
テーマ 西郷隆盛と『討幕』論 西郷隆盛は武力討幕論者だといわれるが、その実態は? 会費 一般1500円 大学生500円 高校生以下無料 申し込み方法
申し込み方法
4月20まで下記へ
FAX 0422-51-4727
spqh4349@adagio.ocn.ne.jp
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー