第82話長崎を歩いて

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幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

8、各地を訪ねて

第82話長崎を歩いて

正覚寺下で電車を降りて歩き出す。崇福寺で石段を上り中国風寺院を見たあと、晧台寺(こうだいじ)に向って歩いていく。寺町の通りは仏具屋が多い。いつだったか東京の仏具屋にはない仏具があ化ので買って帰ったことがある。
 晧台寺には近藤長次郎の墓がある。
昨年、高知市民図書館で近藤長次郎の資料を見ている時、長次郎が自刃した時、身につけてに袴の布地があった。紫色の市松模様の袴地だった。持ってみると厚い絹地で立派なものだった。
長次郎が刀を差し、ピストルを右手に持っている写真の中に写っている袴とは大違いであった。たぶん、海外へ出るというので、新しく作ったものだろう。ずいぶん、派手な袴だというのが第一印象である。侍の袴というよりは、能舞台の上で見るようなきらびやかな袴である。しかし、この袴を身につけて長崎の町を歩いたら、そうとう目立つのではないだろうかとも考えたが、そうでないかもしれないと思った。中国系の衣装は華やかである。そうしたものに見なれた長崎の人々たちは気にも止めないかもしれない。
龍馬は長次郎自刃の時、「術数余(じゅつすうあま)りあって、至誠足らず、上杉氏之身を亡す所(ゆえん)なり」と書いている。龍馬にしては少し冷めた書き方である。
水通町の大里屋の長男が、努力して摘んだ海外留学である
階級制度の厳しかった土佐藩で苗字帯刀を許されることは異例中の異例である。
長次郎は海舟の門人として龍馬と共に働いている。越前藩士・村田巳三郎に龍馬が会いに行った時も一緒であった。
龍馬も年下の長次郎を何かと気遣いしていたようである。
亀山社中で才子と言われて、少し龍馬から離れているようなところが見えてきたのだろうか。
至誠が足りないと龍馬が書くような事柄が二人の間にもあったのかもしれない。
長次郎にすれば侍になりたいという夢を実現し、もう一段高いところへ登りたかったのかも知れない。
龍馬は階級をあまり意識せずに生きている男だったが、長次郎は常に階級を意識して生きたのだったと思われる。そうした意識が、至誠足らずと龍馬に印象づける行動を起こさせていると思われる。
幼馴染も次第に出世していくと、いつの間にか、ライバルとなり、それを超えていくことに熱中するのかも知れない。
龍馬とすれば、淋しいだろうが、他人の生き方をどうすることも出来ないのである。
「千里駒後日渾」にある、
「己が居たら殺しはせぬのぢゃ」
と残念がる籠馬も長次郎の成長と変化に複雑な思いがあったのではないだろうか。
近藤長次鮎の墓には「梅花書屋氏墓」と刻まれている。
墓石の筆跡は龍馬、高杉晋作、小曽根乾堂とも言われているが、特定されていないという。


第81話下田・宝福寺を訪ねて

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明けましてお目出とうございます。
本年も宜しくお願いします。
2019年元旦 小美濃清明

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8、各地を訪ねて

第81話下田・宝福寺を訪ねて

 坂本龍馬の脱藩を許してもらったのが下田の宝福寺である。
文久三年(一八六三)一月十六日、勝海舟は宝福寺に滞在していた山内容堂を訪ねて、坂本龍馬の脱藩を許してもうらうよう礼儀をつくして懇願する。
容堂は海舟が飲み干した大杯を見て、それを許したという。そのあと、海舟が願う赦免の証しとして白扇に瓢箪(ひょうたん)を描き、
歳酔 三百六十回
鯨海酔侯
と書いて渡した。龍馬が脱藩を許された瞬間である。
今、宝福寺にはその謁見の間が修理されて公開されている。そこには朱色の三段重ねの大杯が展示されている。
この宝福寺住職・竹岡幸徳氏が会長となり伊豆龍馬会が発足した。
下田のみならず伊豆半島全域での活性化をめざし、龍馬会を運営していくとのことである。
こうした姿勢に賛同する方々が集まり始めて活動に勢いがついてきた。
先頃、宝福寺に木造の坂本龍馬像ができあがり設置された。
伊豆のログハウスを作る名人・土屋宗一郎氏が、カナダから輸入した樹齢2100年の杉で作つたという。台座から三メートルはあるという大きなものである。
太い丸太を輸入して雨ざらしにして十年間放置したという。
八本が腐食して使いものにならなかったそうである。中に一本だけ全く腐食しなかった丸太
のった。この丸太で龍馬像を彫ったという。一木作(いちぼくつくり)の龍馬像は荒々しい一刀彫で作られている。円空仏のような印象である。
この龍馬優には魂がある。その魂ゆえに腐食しなかったのである。そして、土屋氏によって龍馬の魂が込められて誕生した。
土屋氏はこれを無償で宝福寺へ寄贈したという。
私は、一生懸命にやる人を応援したい。地域の為にやれることはないかと常に考えています。お金じゃないんですよ。
今、巷では龍馬、龍馬と騒がれています。下田田の人たちが壷懸命にその龍馬に乗っかって、何とか観光に繋げたいと頑張っているでしょう。
私はただそれを純粋に応援したいと思っただけです。観光客の方が、この木像を見上げて、少しでも笑顔になってくれればそれでいいんです。」
下田の宝福寺には坂本龍馬の木像がある。龍馬脱藩を許した容堂。愛弟子の自由を願った海舟。日本を洗たくすると云った龍馬。
この三人の思いが、現代の我々へも伝わるのである。
幕末に近代国家への飛躍を願い、それぞれに全力を尽くした三人の思いがこの木像に込められている。
日本が今一度、あの幕末の息吹をとり戻すことを願った坂本龍馬像である。


第80話 札幌・坂本家を訪ねて

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8、各地を訪ねて

第80話 札幌・坂本家を訪ねて

平成十二年、札幌の坂本家を宮地佐一郎先生、北海道龍馬会の萱場利通氏、寺井敏氏と共に訪ねたことがあった。
故坂本直行画伯の未亡人、鶴夫人が出迎えて下さり、一階で直行画伯の思い出話に花が咲いた。
′その後、二階の部屋にご案内いただき、坂本家に伝えられた数々の品を拝見させていただくことになった。
宮地先生は『坂本龍馬全集』を編集する過程でそれらを拝見していたが、久しぶりに目にする品々だった。宮地先生はそれらの品を手にとられてなつかしそうに見て
南州と署名された西郷隆盛の書があった。
その横に公文菊倦(くもんきくせん)が描いた坂本龍馬肖像の掛軸がある。
lしの有名な能馬肖像は公文菊億の描いた肖像画の中でも特に好評を博したものである。
このシリーズで、中岡慎太郎、武市瑞山、山内容堂、桂小五郎などがあった。それらは極めて保存がよく、今、描いたように美しかった。
次に坂本龍馬の手紙を拝見した。『坂本龍馬全集』で写真版で見ている紙がいくつも広げられた。
宮地先生はそれらを一通ずつ、丁寧に手にとり読んでおられた。実物を手にする時、有数十年の時を超えて、行間から龍馬の息遣いが伝わってくる。
手紙には龍馬の命が込められており、読む人の心に波動となって響いてくる。
宮地先生はいつも首を縦に小さく振りながら読む癖がある。
こうして直筆の手紙を手にしながら、『坂本龍馬全集』を編集されたのである。
部屋いっぱいに広げた品々は古い長持に収納された。やはり本物の持つ迫力である。一同満足して一階に降りた。
そして玄関から外へ出て写真を撮り、円山墓地へ供える草花を鶴夫人が摘んでいる姿を見ていた。
それから円山墓地へ向かう車中でも楽しい話でいっぱいだった。鶴夫人は孫の中に名前に馬の字をつけた男の子が増えたと笑って話されていた。
龍馬が目指した北海道開拓の夢がこうしてご子孫たちによって実現していることを龍馬は楽しそうに見ているに違いない。   坂本家九代目のご当主は坂本登(のぼる)氏で、直行画伯と鶴人のご長男である。現在は東京在住で親しくさせていただいている。
初めてお会いした時は印象的であり、よく記憶している。龍馬会での宴席の時、横で黙って盃を口に運んでおっれた。その方が坂本登氏と分かった時、龍馬を感じたのである。龍馬も物静かであったと伝えられている。


第79話 山内豊秋氏と埋忠明壽(うめただみょうじゆ)

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第79話 山内豊秋氏と埋忠明壽(うめただみょうじゆ)

 山内豊秋氏に東京龍馬会でど講演していただいたことがあった。
豊秋氏は山内家十八代のご当主で明治四十五年(一九一二)六月十九日生まれである。山内容堂の曾孫にあたる。陸軍大学を卒業され、終戦時は陸軍中佐であった。
宮地佐一郎先生は郷士のご子孫なので常に「お殿様」と呼んでおられた。
ある時、作家の安岡幸太郎氏と高知空港で立ち話をしている時、豊秋氏が近くを通られて二人に声を掛けて下さったそうである。
二人は最敬礼で見送ったとのことである。
安岡氏も郷士のど子孫である。吉田東洋を斬った安岡嘉助はご祖先になる。
その日のど講演は豊秋氏ど自身の話だった。陸軍大学校を卒業され陸軍参謀になった頃から戦後、通商産業省で石油関係のお仕事をされていた頃までをお話しされていた。
石油関係の調査のため中近東ヘビ出張された話の時、出張費が充分にもらえなかったので護り刀を売って出張費を捻出したという話をされた。
ご講演のあと、懇親会があり、丁度、豊秋氏の近くに宮地先生と共に座ることになったので、懇親会の中ごろになって豊秋氏に尋ねた。
「お売りなった刀は何ですか」
豊秋氏はさらりと答えた。

「埋忠明寿(うめただみょうじゆ)です」
そのひと言で分かった。
自宅に帰ってすぐに「日本刀分類目録」(春陽堂)を見た。この目録は明治三十年十二月以降国宝に指定された刀剣と昭和八年七月以降に重要美術品に認定された刀剣、合わせて一六〇〇余振を昭和十九年三月末日現在で収録したものである。
昭和八年七月二十五日
侯爵 山内豊景
脇指 山城国西陣住人埋忠明壽作六十一歳
元和四年五月十一日
一尺三寸分
と記録されていた。
山内家の指定品は十四振あり、その中の一振だった。
山内豊景氏は豊秋氏の父上である。

代々、山内家に伝えられた伝家の名刀であった。それを売却し出張費としたのである。
戦後の混乱を脱出し高度成長へ向かう時、やはり石油株国家戦略の根幹をなすものだった。そうした大事な中近東出張に充分な出張費も出ない日本国の状況の中で、黙って伝来の埋忠明壽の脇指を売ったのである。
豊秋氏は軍人らしく姿勢のよい、静かなお人柄だった。
高知の山内神社に山内容堂の銅像が完成した。除幕式の日、豊秋氏は座って盃を持った銅像の容堂に、日本酒を注いでいる写真がある。十五代豊信(とよしげ)と十八代豊秋氏、この写真を拝見しているとやはり殿様だと思ってしまう。
龍馬は脱藩を許してもらったが容堂に一度も会うことはなかった。


第78話 宮地佐一郎と亀井勝一郎

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第78話 宮地佐一郎と亀井勝一郎

「坂本龍馬手帳摘要」に慶応二年(一八六六)五月二十九日、坂本龍馬が寺内新左衛門(新宮
芝助)から借金をして、短刀合口拵(たんとうあいくちごしらえ)と研代を支払っている。ちょうど鹿児島から長崎へ向かう前日であった。
お龍との新婚旅行も最終日で鹿児島へ別れを告げる日が近づいていた。龍馬も身辺整理をして旅立つ支度をしている最中である。鹿児島の刀剣家のところへ短刀の他に「備前兼元無銘(ぴぜんかねもとむめい)」を研磨に頼んでいた。その支払いが合計で三両二束余であった。龍馬は金がなかったので、四両二分を寺内から借り、更に寺内から二両を借りている。合計六両三歩、借金をした。
ここに「備前兼元」と印刷されている。はて、と思った。旺文社文庫の『龍馬の手紙』を読んでいた時である。備前には兼元という刀鍛冶はいないのである。兼元は美濃国の名工である。
孫六兼元という刀鍛冶が兼元何人かの中で特に有名である。備前にいるのは兼光である。備前長船兼光といい、延文頃(南北朝。一三五六~一三六一)の名工である。
草書で「光」と「元」は書体が似かよっている。もしかして、「坂本龍馬手帳摘要」を読み違えたのだろうかと考えた。
その可能性もあると考えて、原本を読みたいと考えた。原本はどこにあるのか、光と元の読み違いか、それとも単純な誤植なのかを旺文社の編集部に問い合わせる手紙を送った。それが大変な事になってしまった。
旺文社が宮地佐一郎先生へ転送したのである。
そして、宮地先生から手紙が届いた。原本はないとのことだった。岩崎鏡川の「坂本龍馬関係文書」に掲載されているままであるとのことだった。そして、先生のご住所が筆者の住まいと近いと分かった。偶然である。
しばらくして宮地先生が自転車に乗って現れた。これが運命であり、筆者が龍馬研究に入る発端である。
しばらくして、今度は筆者の方から先生のお宅を訪問した。一階の茶室で真喜子夫人のお粉茶をいただきながら、話がはずんだ。
そして、三度目は先生と筆者の住まいの中間にある井の頭公園と決まった。池畔のベンチに腰かけながら話をしたり、近くの焼鳥屋で飲みながら、あるいは玉川上水辺りを歩きながら龍馬の話だった。


鎌倉への文学散歩で大彿次郎先生の墓へもご案内いただいた。
また函館では亀井勝一郎先生の文学碑へ今度は筆者がご案内した。高田屋嘉兵衛の銅像を見ながら坂を上っていくと、左に文学碑があった。

人生 邂逅し 開眼し 瞑目す。

宮地先生はその碑を撫でながら、「先生やって来ました、やって来ました」と話しかけていた。その姿は今でも忘れることができない。人とのつながりはこういうものでありたい。


第77話宮地佐一郎と龍馬

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第77話宮地佐一郎と龍馬

『坂本龍馬全集』(光風社出版)を編集・解説した宮地佐一郎先生は平成十七年三月八日、亡く
なられた。八十歳だった。
いつも、「土佐を脱藩して東京へ出て来た」と笑って言われていた。
文学青年だった宮地先生は亀井勝一郎を訪ねてその門下生の一人となった。そして、同人雑誌「詩と真実」に歴史小説を発表していった。その中の短篇をまとめて『野中一族始末書』(審美社)を昭和三十八年一月に刊行した。
その数カ月後、一通の手紙が届いた。作家・大佛次郎(おきらぎじろう)からだった。
宮地佐一郎様
もっと早く手紙を差し上げるべきでしたが、御本をおしまいまで読んでからと思ひ失礼しました。私は老年ですし、いそがしいので、なかなか時間がなく昨日、拝見し終りました。近頃、清潔で優れたものと失礼ながら感心し、これから他にお書きになった時も、読むようにしようと思ひました。悪作がはやり持てる時代に、心のこもった良い作品に出会ったのを嬉しく思います。
御本のお礼までに申上げます。お世辞でなくて。                                                     大彿次郎
驚きのあまり「呼吸がとまる」思いであったと『大佛次郎私抄』(日本文芸社)に宮地先生は書いている。この出会いが龍馬へ近づいていく一歩となった。
その後『闘鶏絵図』(七曜社)『宮地家三代日記』(光風社書店)『菊酒』(同)と発表して直木賞候補作品となっている。しかし、受賞することはなかった。
一方、大佛次郎は朝日新聞に「天皇の世紀」を連載し、一五〇〇回を越えていた。
明治天皇の誕生から大逆事件までを書く大作はその頃、坂本龍馬が登場するところまで進んでいた。大佛次郎は高知県取材を宮地先生と共に行いたい希望を持っていた。
てるおか
朝日新聞東京本社学芸部長櫛田克巳、早稲田大学大学院生暉峻(てるおか)康人と共に高知へ向かったのは昭和四十三年十月のことであった。
この旅行は思い出深いものであったらしく、何度もその話は聞いている。そしてこの旅が宮地先生がフィクションからノンフィクションへ転向していく布石となった。
先生の死後、書斎の整理をしていて、大佛次郎と共に旅したアルバムが出てきた。その中に
大俳次郎が幸徳秋水の墓前に立つ写真があった。『天皇の世紀』はここまで書きつづける予定だったが未完に終わっている。今、残っている七八〇〇枚という『天皇の世紀』の原稿用紙は作家の執念を現している。
そして大佛次郎から受け継いだ情熱が宮地佐一郎の『坂本龍馬全集』に結晶していくのである。
宮地先生は岩崎鏡川が編集した『坂本龍馬関係文書』を使いやすいように編集を改め、新しく発見された手紙を加えて全一巻という大冊にまとめあげた。
偶然のことから筆者は宮地先生から二十数年にわたりご教示をいただくことになった。晩年、病床にあった宮地先生は誰ともお会いになることを望まなかった。唯一、筆者だけが身内と同様の扱いで病院のベットに眠る師を見ていた。
いつも眠い目が輝くのは龍馬の話であり、土佐の話であった。先生の死後、同じ道を後から一歩一歩、歩いていくのが筆者の残された人生と思っている。


第76話 小椋館長と龍馬

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第76話 小椋館長と龍馬

高知県立坂本龍馬記念館の初代館長は小椋克巳さんだった。昭和三年(一九二八)生まれで菟媛大学工学部卒の理系の方であった。高知放送アナウンサー、ニュースキャスターを歴任、昭和四十二年から四十三年、テレビ朝日の木島則夫モーニングショウの司会グループに入り有名だった。
平成三年高知県立坂本龍馬記念館開館と共に初代館長に就任された。
先ず初対面でその魅力的な声と声量に驚いた。宮地佐一郎先生に紹介していただき、高知を訪れると必ずお会いすることにしていた。坂本龍馬記念館はその初期において、大変な苦労の連続であった。傍らから見ていて、ハラハラすることの連続であった。
いつもお城の下あたりで、静かに二人だけで話をするようにしていた。小椋館長は食通で良いお店を選んでくれた。話題は常に龍馬であり、情報の交換だった。
アナウンサーとしての話の上手さが、この人の武器であり、魅力である。常に龍馬もこのように縮が卜しモ一かったのだろうなあと思いながら拝聴していた。
龍馬についてはこの記念館の館長になってから勉強を始めたので素人ですと、謙虚な姿勢を最後まで崩さなかった。
穏やかな人当りの良い印象を与えるのは放送界で鍛え抜かれている。しかし、厳しい面も中に秘めていた方と思っている。                        一
龍馬も実際に会った人の印象は穏やかな人という。そして、義理堅い人というのが小椋克巳館長の神髄である。

土佐藩品川下屋敷と鮫洲抱屋敷(さめずかかえやしき)の研究調査で、品川商店街連合会の方々と知り合うことができた。
一度、高知へ行ってみたいという商店街の希望で、平成十六年、坂本龍馬記念館を訪問した。
その折も、小椋館長が自ら館内を案内し、その美声で展示物の説明をして下さった。
それが、五年後の品川龍馬会結成として実を結ぶことになる。
宮地佐一郎先生が平成十七年三月、亡くなられた時、親族だけの小さな葬式としたが、小椋館長は高知から東京へ来て下さった。
弔辞を読んで筆者が席に戻ると隣席に座っているのが、小椋館長だった。筆者が弔辞を読んでいる姿を写真に撮ってくださり、送ってくだざると言われた。
しかし、写真は送られてこなかった。それは小椋館長自身が亡くなられたからである。しかし、奥様のお話によると、その写真は用意されており、送る寸前だったという。やはり約束を守る人だったのである。
今度は筆者が高知に行くことになった。館長は自分の体調も悪いのを伏せて、宮地先生の葬儀に駆けつけて下さったのだった。
連続の葬儀参列となった。淋しかった。
お二人とも、龍馬は自分の血肉となっていた。通夜の折、小椋館長の唇に筆で水を含ませながら、ご苦労様でしたと呟いた。
今、坂本龍馬記念館は森健志郎館長に受け継がれて、第二段目ロケット噴射という状況である。


第75話 小渕総理とヒルズボロウさん

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第75話 小渕総理とヒルズボロウさん

ロミュラス・ヒルズボロウさんは武道修行でアメリカから日本へ来た。そして数年後、道場で吉川英治の『宮本武蔵』を読んでいた。その時、兄弟子が『竜馬がゆく』は面白いぞと薦めたという。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み終えると、『坂本龍馬全集』を編集した宮地佐一郎先生を訪ねた。ぞして龍馬研究を始めたそうである。
ヒルズボロウ氏の日本語を覚えるスピードが驚異的である。わずか数年で文庫本を読んでいた。そして、行動力である。龍馬を研究してみようと思い立つと、宮地佐一郎先生を訪問したりである。
そして、日本人女性と結婚のあと、アメリカへ戻ったヒルズボロウ氏は苦心して『Ryoma』を出版した。その時、筆者に電話してきて、小渕恵三総理大臣に差し上げたいと話した。それからが大変だった。総理大臣に直接手渡したいという希望をなんとか実現してやりたいと、筆者はあらゆる手段を考えた。その過程を書いていると頁数が足りないので省略する。
総理が現れた。記者団の写真撮影が終ると記者全員が部屋の外に出る。そのあとはプライベートな時間となった。
龍馬ファンの小渕総理は英語で書かれた分厚い『Ryoma』を手にとり、嬉しそうに見ておられた。
小渕総理が一年生議員の時、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が「産経新聞」に始まった。
これを楽しみに読みつづけたという。               ひと
坂本龍馬のように生きたいと思い、そう行動したと小渕総理は言っておられた。他人の話はよく聞いて、よいところは吸収する。そして実行する。そうしていたら、いつの間にか総理大臣になってしまったと言って笑っておられた。
その頃、沖縄サミットを控えて、サミット会場の建物も建設中だった。小渕総理は龍馬という人物を世界の人々に知ってもらいたいと考えておられた。
そこで提案した。沖縄サミットで龍馬について小渕総理が英語でスピーチするという案だった。総理は早稲田の英文科出身である。準備は秘書室の方々と進めるということになった。それからがまた大変だった。ここも省略する。しかし実現しなかった。小渕総理が倒れたのだ。
目的達成いま一歩で倒れたのは龍馬と同じだった。
ヒルズボロウ氏は悲しみと困惑の声を電話で漏らしていた。沖縄サミット関催の時、アメリカから沖縄へ飛ぶと言って張りきっていた彼は悲痛だった。
そしてそれは小渕総理死すという報で極限へと向かった。
病状回復を願って千羽鶴を皆さんで折っていたが、その完成の日に訃報が届いた。その夜、王子の小渕総理私邸へ筆者は千羽鶴を届けた。
警備の警察官も千羽鶴の入ったバックを見て通行を許可してくれた。
「龍馬に惚れたのは何もお龍さんだけではない、この小渕もぞっこん惚れている」と官邸ホームページに書いた総理は龍馬と同じように無念の死を迎えた。
ヒルズボロウ氏の用意したサミット参加国首脳に配られるはずの『Ryoma』は永田町に積まれたままになった。


第74話 お龍と川田雪山-2

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第74話 お龍と川田雪山-2

お龍もあわてて道を間違えたので引き返して戻っている。そして、
「町の角で五六人の捕手にハタと行き遇って何者だと云ふから私はトボケタ顔をして、今寺田屋の前を通ると浪人が斬ったとか突たとか大騒ぎ、私や恐くって逃げて来た、あなたも行って御覧なさいと云ふと、ウム人違ひぢゃったと放しましたから、ヤレ嬉しやとは思ったが又追ッかけて来はせぬかと悟られぬ様に下駄をカラカラと鳴らして、懐ろ手でソロソロと行きました。」
とお龍は語っている。その語り口がお龍の人柄をよく現していて面白い。
この聞き書の筆記者川田雪山も、聞いたままを筆記してこの後日譚についての責任は一切僕が引き受けますと書いている。この川田雪山について少し書く。
川田雪山、明治十二年(一八七九)高知県生まれ。通称は瑞穂(みずほ)。号雪山は高知市の雪光山(国見山)から取られている。明治二十八年十七歳で大阪に出て、漢学者山本梅崖の塾で漢学を学んだ。同三十五年早稲田専門学校政治経済科に入学。中退。大正五年維新史料編纂会嘱託となり、同十一年維史史料編纂官補となる。同十二年司法省嘱託となり、昭和五年早稲田大学講師、同十年早稲田大学教授。同十五年内閣嘱託を兼任。同二十五年早稲田大学を定年退職。同二十六年一月死去 享年七十三。
雪山が残した最も大きな仕事は太平洋戦争終戦の詔勅を起草したことである。昭和天皇が玉音放送で読んだ詔勅は、「堪へ難キヲ堪へ 忍ヒ難キヲ忍ビ 以テ万世ノ為ニ 大平ヲ開カムト欲ス」
と書かれており、荘重、典雅、文格自ずから具わり、王者の辞たるに愧(は)じないと評価されている。
この川田が若き日にお龍をインタビューしているのである。二十歳の川田は誠実にお龍と対話し、彼女の心を開いたのである。内容は彼の言葉通り一切責任を取るという正確なものと思われる。


第74話 お龍と川田雪山-1

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第74話 お龍と川田雪山-1

坂本龍馬が寺田屋で伏見町奉行の役人に襲撃された時の話はよく知られている。
慶応二年(一八六六)一月二十三日夜の二時過ぎる頃、事件は起こった。
明六ツ(午前六時)から一日が始まり翌日の明六ツまでが一日である。龍馬は二十三日の二時と手紙に書いているが、現在では二十四日午前二時過ぎる頃である。
風呂に入っていたお龍が外の気配に気づき、階段を駆け上がり、龍馬へ知らせる場面は特にである。お龍が裸だったか、衣類をまとっていたかと龍馬ファンはにぎやかである。
龍馬はピストルで、三吉慎蔵は槍で奮戦し寺田屋を脱出する。そのあと、川の近くの材木置場に隠れて、三吉だけが伏見薩摩藩邸にたどり着く。早速、大山と吉井が小舟に丸に十字の旗を立てて、負傷していた龍馬を救出した。
一方お龍は、
「人の居る所は下駄を穿いてソロソロと知らぬ顔であるき、人の見えぬ処は下駄を脱いで一生懸命に走りました。処がひょっこり竹田街道へ出ましたので、コレは駄目かと思って又町へ引返し」と「千里駒後日譚」に発表している。これは川田雪山がお龍と会い聞き書きしたものを明治三十二年(一八九九)十一月「土陽新聞」に載せたものである。