第15話 龍馬の江戸生活

谷 干城(たにたてき)

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坂本龍馬八十八話

2、江戸・横浜で

第15話 龍馬の江戸生活

坂本龍馬は江戸で二度、修行生活をしている。一度目は嘉永六年(一八五三)四月から安政元年(一八五四)六月までの一年三カ月間である。
二度目は安政三年(一八五六)八月から同五年(一八五八)八月まで二年間である。
単身で江戸へ出た竜馬は毎日、どんな生活をしていたのだろうか。興味深いテーマである。しかし、龍馬は修行時代の生活を記録した日記を残していない。同時代、江戸へ出た土佐藩士の日記はないか調べてみた。
谷干城★たにたてき★の日記が残っていた。
干城は天保八年(一八三七)二月、土佐国高岡郡窪川村に生まれている。龍馬より二歳年下である。千城は、安政三年(一八五六)六月、臨時御用で江戸へ出立し、翌四年十一月に高知へ戻っている。
二回目は安政六年(一八五九)九月高知を出立し江戸へ向い、文久元年(一八六一)九月、江戸を離れて、十月高知に帰国している。

龍馬の二回目の江戸修行と千城の一回目の江戸修行は重なっており、二人は同時期に江戸で生活している。
ただ干城は一年五カ月間の江戸滞在で、龍馬より短かい滞在であった。
干城の二度目の江戸滞在の時、龍馬は江戸におらず高知にいる。干城の残した日記は二度目の江戸滞在中のものである。干城の生活から龍馬の江戸生活が垣間見られるように思われる。
干城は安政六年十月十四日、江戸へ着くが夜になっていたので藩邸に入れず、旅籠★はたご★に泊っている。宿代は三百文と記録されている。
翌十五日朝、旅籠を出て、上屋敷(鍛冶橋御門内、現国際フォーラム)へ到着の届けをしている。その後、築地屋敷へ行き宮地熊太郎に筆を借りて、御己屋(寄宿する部屋)の拝借願書を書いて、再び上屋敷へ行ってその願書を提出している。
その後、日比谷中屋敷へ行き知人に会っている。八ッ(午后2時)築地屋敷に戻って宮地熊太郎の部屋へ行き髪月(さかやき)代をスリ、髪形を整えている。八ッ(午后4時)に太八郎氏に呼ばれて、咄をして御馳走になり、五ッ(午后8時)に青木方へ行って夕食をいただき、アンドンと火バチを借りて自分の部屋に戻って、日記をつけている。
スシ五つ四十文、唐芋八文、麻裏草履百二十文で買うと記されている。
江戸へ到着した干城はまず上屋敷に到着の報告に行き、寄宿する部屋の借用願を書いて再び上屋敷へ行くという、江戸修行第一日目の事務を一つ一つ、処理している。
龍馬も江戸へ出た第一日目は同じように、藩庁に書類を提出したり挨拶回りに上屋敷、中屋敷、下屋敷の間を歩いていたと思われる。
干城は築地屋敷に滞在しているので、龍馬と同じ屋敷に滞在していることになる。
同二十六日、昼食のあと、柳原より両国へ足ならしに行き浅草御■■で、刀のサヤコジリを二朱二百で買い七ツ(午後四時)に築地屋敷に戻っている。
柳原、両国、浅草と散歩に出かけている。
江戸へ出た単身の侍たちは藩邸で自炊生活をしながら、剣術修行、学問修行などに日を送っている。龍馬も剣術修行が目的であったので、藩邸と道場という毎日であったろう。 しかし、第一回修行はペリー来航によって臨時御用となり、土佐藩の警備陣の中に加えられている。そしてペリー退去のあと、佐久間象山塾へ入門している。龍馬は描いていた江戸修行と全く異なった日々を送ったと思われる。
干城の日記には細々とした生活の物価がわかる記述がある。龍馬の江戸の生活がどのようなものか判るのであげてみる。
炭一俵 二石五十文
布団一枚借用 一夜 三十二文
銭湯(風呂代) 十六文
掛ソバ 十六文
中折紙一束 二百五十文
状紙百枚 百五十文
筆六本 二百五十四文
油入れ 五十二文
硯 五十文
アジの塩焼一ツ 二十文
手拭 百二十文
にんじんの煮物 十二文
朱硯 四十八文