第47話 後藤象二郎の軍艦買付け

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第47話 後藤象二郎の軍艦買付け

薩摩・長州に比較して軍備の遅れていた土佐藩は慶応二年(一八六六)八月から同三年七月まで、軍艦を急遽買い付けている。
後藤象二郎は慶応二年七月七日、高知から陸路宇和島へ向った。そして豊後水道を渡って臼杵へ上陸し、九州を横断、七月二十六日長崎へ到着している。二十日間の旅だった。その後、長崎で江戸から来るジョン万次郎を待って、八月二十五日、長崎を出航し上海へ向った。後藤象二郎が自ら軍艦を買付ける海外出張である。ジョン万次郎は通訳として、どうしても連れていかなければ、交渉ができなかったので、一カ月長崎でジョン万次郎を待っていたのである。
上海では蒸汽船スパンスキー(30トン後に箒木(ははきぎ)と命名)と暖〓可(80トン後に空蝉と命名)を買付けて九月六日、帰国している。
この二艘につづいて、蒸気船兵庫(後に胡蝶と改名)、蒸汽船朱林(後に夕顔と改名)、帆船ガフチール(後に羽衣と改名)、帆船セイボルン(後に横笛に改名)砲艦南海(後に若紫と改名)、帆船大坂(後に乙女と改名)と八艘の軍艦を買付けた。
合計金額は三一七九〇〇両余といわれている。後藤象二郎が土佐藩参政として指揮しての買付けである。
この会計を処理する役が土佐商会の岩崎弥太郎である。
この他に銃器、弾薬の買付けもある。巨額な買付けを行った土佐藩はイギリス商人オールトと長崎の商人から借金が二十万両を超えている。
この会計問題についての回答となるか分らないが土佐郷士史家・平尾道雄が「土佐藩」第二財政と経済の中で、通貨私鋳をとりあげている。私鋳とは、公でなく貨幣を鋳造することであり、贋造(がんぞう)である。
平尾は次のように記述している。
真覚寺の僧静昭の日記、明治元年(一八六八)閏四月十二日の記事に「御国において壱歩銀鋳るとて、他国銀座の人百五-六十人計入りこみ上町に滞留の趣」と当時の風説を載せたものがあるが、これによると壱歩銀私鋳の計画も進められていたようである。
問題になった二歩金私鋳のことも、この前後に着手されたものらしく、これについては藩内有司の間に異論もあったが背に腹はかえられず、極秘裡に鋳造された。メキシコ銀を改鋳して金をかけた贋造二歩金が大坂を中心にその付近に姿をみせたのはそれからまもなくのことで、このことは当然市場を混乱におとしいれた。明治元年八月二十九日、行政官は各府藩県に指令してその出所を探索させたが判明せず、ついには阪神の国際貿易にも支障をあたえ、翌二年八月十二日(洋暦)外国公使団から日本政府にきびしい抗議が提出されたのである。狼狽(ろうばい)した政府は贋金一〇〇両を三〇両の相場で回収する手段をとり、また期を定めて贋造者の自首を要請した。九月五日土佐藩はこれに応じて事訴することになり「先年来王事に国力を尽し分外の費用これあり、止むを得ざる情実を以って鋳金仕り候。一時焼眉の急を救うのみにて速かに止めさせ候次弟」とその事情を弁じて罪を待った。十一月の届書によれば造金高五万四四〇〇両、その鋳造期間を慶応三年正月から翌年正月とし、正月下旬に機械設備一切を破却したとあるけれども、これはなんらかの事情によって故意に事実を糊塗(こと)した部分もあるようである。
政府はこの贋金問題については、明治二年五月の箱館戦争以前のものは已発覚・未発覚または已結正・未結正を問わず一切不問に付する方針を定めたので土佐藩は無罪ということになった。土佐藩のほかに薩摩藩も偽造のことがあったが自首のために無罪となり、自首を怠った筑前福岡藩は責任者がきびしい処分をうけた(『維新経済史の研究』)。西南雄藩のこのような違法行為はそれぞれ藩財政の深刻な苦悩を暴露したものと考えることはできないであろうか。