第48話 上海の高杉晋作

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第48話 上海の高杉晋作

文久二年(一八六二)四月二十九日、高杉晋作が乗った千歳丸(せんざい丸)が長崎を出航したのは午後五時 前だった。
この船は幕府が上海へ状況視察をかねて上海へ出張貿易を試みることを目的とした船だった。萩藩江戸留守居役の小幡高政(おがたたかまさ)が、使節の一人、小人目付の塩沢彦次郎に工作して、高杉晋作を随員に加えることに成功した。
海産物、薬用品、白糸、反物、漆器、蒔絵、工芸品などを積み込んでいた。
船長はイギリス人・ヘンリー・リチャードソンで、イギリス船員十五人、オランダ船員一人、勘定役〓立助七郎以下の幕吏、そして諸藩から加わった従者、通詞(つうい)、炊夫(すいふ)、水夫(すいふ)、それに三人の長崎商人、総勢六十七人が乗っていた。
その頃の清国の状況は混乱が極限に近づいていた。
インドを支配した東インド会社は、その経営に必要な銀をうるため、大量のインド産アヘンを中国に輸出した。たちまち清国の官吏や軍人が麻薬に汚染され、銀が国外へ流れ出た。
手を焼いた清国政府は、林則除を広東へ送って、イギリス商社所有のアヘン二万余箱を没収消却する強行手段にでた。それがヨーロッパ勢による中国大陸侵略の糸口となった。
強大な軍事力で清国を屈服させたイギリスは一八四二年八月二十九日、南京条約で香港割譲のほか、広東(かんとん)、厦門(あもい)、上海(しゃんはい)、寧波(にんぽう)五港を開港させた。第一次アヘン戦争である。

その後、第二次アヘン戦争が始まり、英仏軍が天津を攻略、北京に入城して北京条約を追加する。九龍(クーロン)をイギリスに与え、天津、漢口など十港を開き、アヘン貿易を公認させた。
これに対して客家(はっか)出身の洪秀全が清朝を倒して土地、衣食すべて平等に分かち与える理想郷「太平天国」を築こうと呼びかけた。
一八六二年六月、近郊までせまった三万の太平天国軍と清国軍が攻防をつづけているところへ高杉晋作はやってきたのである。
五月九日、晋作は上陸して、洋式ホテルの宏記洋行に宿をとった。佐賀藩士中牟田倉之助と同室だった。
上海に着いて半月もしたころ、晋作は悲惨な実情が見えてくる。
六月八日、午後オランダ館でピストルと地図を買った。
六月十六日 アメリカ人の店で七連発のピストルを買う
六月十七日、イギリス砲台を見学している。〓込めのアームストロング砲の精巧さに目を見張っている。
晋作はなぜこのように支那は衰微したかを考え、外夷を海外に防ぐ道を知らなかったことにつきる。万里の波濤をしのぐ軍艦、大砲などを製造しないで、海国図志なども絶版し、いたずらに古い説をとなえてむなしく歳月を送り、太平の心を改め、敵を防ぐ対策を立てなかったからだと結論を出した。
海外視察の始まりのような上海渡航で高杉晋作は清国の本質をとらえた。そして日本へ帰国し、清国のように日本をしてはならないと活躍するのである。
その思想は龍馬へも伝えられているのである。上海土産のピストルと共に。