第55話 左行秀という刀工-1

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「坂本龍馬八十八話」
5、刀剣

小美濃 清

第55話 左行秀という刀工-1
(第54話 肥前の鐔、が後になります)

高知城下の坂本家屋敷の裏門は水通町という通りに面していた。この通りは中央を小さな川が流れており、水の通る町だったので水通町と云っていた。川は城下の飲用水となる上水道として使用されていたので、川を見守る役人が配置されていた。
この水通町の西側にさまざまな業種の職人が住んでいたので、職人街を形成していた。
草屋、畳屋、紺屋、仕立屋、樽屋、寵屋、傘屋、髪結、左官、乗物師(駕籠)、と軒が並んでいる。
その中に鍛冶四人、研師一人、鞘師一人、と二丁目に住んでいる。
塗師(ぬし)一人、白銀師(しろがねし)一人、鐸師(つばし)一人が水通町一丁目。
この水通町には武士の表道具(刀剣)の関係職人が集団で住んでいた。刀が錆びた場合、研師が必要となる。鞘が割れたり、古くなった場合、鞠師が必要となる。
鞘を新しく作った場合、鞘に漆を塗る塗師が必要となる。刀の切羽(せっぱ)や鈍(さばき)は白銀師がつくり、鐸は鐸師が作る。武士にとって、必要な職人の集団である。龍馬はこうした刀剣職人(職方)の集団に囲まれて育ったのである。

水通町二丁目と三丁目の間の横丁に大里屋(おおりや)という餅菓子屋があった。ここが亀山社中で活躍する近藤長次郎の実家である。この長次郎をわが子のように可愛がって士分まで育てあげたのが刀鍛冶の左行秀(さのゆきひで)である。
行秀は筑前(福岡県) で生まれて、江戸で刀鍛冶の修行をして、名工となり土佐藩抱工の関田勝広の食客として土佐に入国し、水通町に住んでいた。
この行秀は土佐の酒好き職人の中で下戸だった。酒がまったく飲めなかったのである。
長次郎と知り合ったのも 〝まんじゅう″がとり持った緑だったと思われる。
土佐藩抱工の関田勝広が死去した後、左行秀が土佐藩抱工となった。
その時、土佐藩は刀鍛冶兼鉄砲鍛冶として抱工として上士の末席に加えられている。