第12話 脱藩の道

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第254回 幕末史研究会
日時2017年7月29日(土)午後2:00から4:00
会場 武蔵野商工会館 4階 吉祥寺駅中央口徒歩5分
講師 鷹見本雄氏 たかみもとお 鷹見家11代当主
テーマ 編集者国木田独歩の後継者鷹見久太郎が果たした役割は
会費 一般 1500円 大学生 500円 高校生以下無料
講義内容 蘭学者鷹見泉石の曾孫鷹見久太郎はジャーナリストとなり、女性と子供のため月刊グラフィック誌を発刊した。日本
社会に与えた影響は、

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幕末史研究会
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第12話 脱藩の道

坂本権平が語った
「それじゃア、どうも龍馬がおととい家★うち★を出たきり帰って来んが、脱藩したらしい。人を雇うて詮議すると、須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた龍馬の姿を見た人があるそうぢゃが、それから先のことは判らんキニのう」
という言葉は安田たまきの記憶の中に残り昭和三年まで伝えられた。
「須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた龍馬の姿を見た人があるそうぢゃ」
これがキーワードとなる。
龍馬は何故、刀を油紙に包んで背負っているのだろう。
乙女から餞★はなむけ★としてもらった刀は「土佐勤王史」によれば〈備前忠広〉という。
佐賀藩抱工で「備前国近江大掾藤原忠広」という名工がいる。この忠広であれば高価な刀剣である。
この日、もしかして、雨が降っていたのではと推定した。雨で刀が濡れないように龍馬は〈備前忠広〉を油紙に包んで背中に負って、須崎の道を歩いていたのではないだろうか。
文久二年(一八六二)三月二十四日、この日の高知の天候が雨であれば安田たまきの証言は信憑性が高い話と考えられるのである。
高知の幕末の天候記録を調査した。
高知から南西へ十キロメートルほど離れた宇佐という村の真覚寺に井上静照という住職がおり、安政元年(一八五四)から明治元年(一八六八)に至る足かけ十五年にわたる日記があった。
文久二年三月廿四日
陰天八ツ頃蓮師の祥月の勤行する七ツー頃より雨ふり出ス夜中大雨波高し

同廿五日
雨日入頃雨やむ夜風少々吹く
と記録されていた。

龍馬が高知から姿を消した日、三月二十四日、七ツ頃(午後四時)から雨が降り始めて夜中大雨であり、波も高かったのである。
里程標によると、高知城下・本町から須崎村まで、十里二十四丁十三間三尺とある。約四十キロメートルである。
城下から朝倉、弘岡、高岡、戸波★へわ★、須崎と平坦な街道がつづいて行く。戸波と須崎の間に名古屋坂があるだけである。
龍馬は吉田東洋を斬って逃走した安岡嘉助、大石団蔵、那須信吾のように追手が掛かってはいないのである。
雨の中、街道を隣り港・須崎港のある須崎村に向かって歩いているだけである。まだ脱藩ではないのである。
歩きにくい山林や坂道を歩く必要はないのである。
龍馬は須崎の発生寺★ほっしょうじ★には頻繁に訪れていたという。
須崎市古市町の川村為三郎氏の祖母・雛★ひな★さんに話に
「私の十歳位の時(文久年間か)龍馬さんが私のうち(黒岩家)へ宿泊したことがあった。片時も刀を離さず用便の時は、私が小姓役のように刀を持って、便所の外で立されたことがあった。便所まで刀を持って行くとは、おかしいことだと思ったが、今にして思うと当時の志士がいつも危険にさらしていたかということが分ります。云々」
とある。
龍馬は須崎へは歩き慣れた道を行くといった感じで向かっているのである。